二
ちょっと無理があった。ぼくは猿を飼ったことがないどころか、猿についてのろくな知識もない。知っているのは、適当にキーボードを叩いているうちに偶然「言葉」を作れるかもしれないということくらいだ(それもただ想像しただけだ)。
『猿が「小説を書く」と宣言したまま部屋から出てこなくなった。』という書き出しが魅力的かどうかも分からない。そもそも魅力的な書き出しだけで、あとは勢いを殺さずに小説を一本書きあげるというのは無茶なんじゃないだろうか。他に魅力的なテーマだとかキャラクターだとか、そういうものを考える必要がある。
適当に打っていれば猿は超えられると簡単に考えてしまったが、難しいものだ。このままではいかん。どうにか猿を超えるんだ。一本小説を書きあげるんだ。
彼は猿と呼ばれていた。どことなく猿顔なところがあり、人よりも少し毛深かった。だから猿と呼ばれるようになったのだろう。人が彼を「猿」と呼ぶとき、そこにはどこか蔑むような響きが含まれていた。しかし、彼はその呼び名を嫌ってはいなかった。彼は自分で分かっていたのだ。自分は人よりも劣っていない。それどころか優れているのだと。学業の成績はトップクラスだったし、運動でも人に負けることはなかった。加えて握力が強く、どんなに固い瓶のふたでも開けることができた。
彼の容姿は美形とは言えなかったが、人懐っこい印象があり誰からも好かれた。口もうまく、男女問わずに彼の周りには人が集まった。彼は幸せだった。
だめだ。話をなかなか先に進められない。猿というキャラクターをいかに魅力的にしようかと考えたが、褒め言葉ばかりを連ねればよいというものではないらしい。それにテーマが何なのか全く持って分からない。あと、ぼくの文章には台詞が少なすぎるのではないだろうか。台詞を入れることに気を付けて書いてみるといいのかもしれない。
小さなホワイトボードに筆版された彼の声は、実際に聴こえた気がした。
「ちょっと読んでみてくれないか?」
久しぶりに部屋から出てきた彼は顔色が悪く土色で、頬はこけていた。彼のあまりの変わりように驚きつつ、ぼくはプリントアウトされた紙の束を受け取ってリビングの椅子を勧めた。
「ずっと書いてたの?」
「うん、寝たり食べたりする以外はずっとね。キーボードを叩きすぎて、ぼくの指がキーボードを叩いているのか、キーボードがぼくの指を叩いているのか分からなくなった」
力なく笑う彼を見て、ぼくは心配になった。
「ホットミルクでもどう?」
「ありがとう。でもミルクをくれたら、真っ先にそれを読んでほしいな。誰かの意見が聞きたくて仕方ないんだ」
ぼくはマグカップに牛乳を注いで電子レンジのスイッチを押すと、すぐに彼の小説を読み始めた。彼は安心したのか、ぐたっと首を落とし椅子に座ったまま眠り始めてしまった。電子レンジがチンと鳴ったので、マグカップを彼の目の前に運ぶ。小説の続きを読み始める。
ぼくが小説を読み終えたのと彼が顔を上げたのは同時だった。まるでそのタイミングにぼくが読み終わると分かっていたみたいだ。
「どうだった?」
ちょっと躊躇ったぼくの様子を見て、彼はすぐに言葉を続けた。
「いいんだ。正直な感想を聞かせてほしい。どんな酷評でも受け止めるよ。ぼくはそのために書いているようなものなんだ」
「うん、じゃあ言わせてもらうよ。ぼく自身そんなに小説を読むほうではないんだけど、君の小説にはなんていうか起承転結というものがないように思う。ずっと平坦な感じで物語が続いていく。けれど、ここから物語が大きく動いていくんじゃないかという気はするよ。だってこれ、まだ終わりじゃないんだろ」
話を聞いている間じっと僕の目を見たままだった彼は、聞き終わるとふーっと息を吐き、マグカップに手を付けた。表面に張った膜をぺろっと舌ですくい上げて食べ、ごくごくとミルクを飲み干す。「ありがとう、ミルクも感想も」そう言うと、紙束をトントンと揃えてまた階段を上っていく。
「また書くんだね。たまには顔見せなよ。父さんも母さんも心配してる」
「そうする」そう言って猿はまた部屋にこもった。