2-1 ぬるぬるクライシス
あらすじ:現代日本で命を落とし、異世界『バテンカイトス』で勇者カイトとして転生を果たした海兎。しかしその転生が女神のうっかりだったと知って怒った海兎は、女神への復讐と、自身の勇者としての最低限の責任を果たすべく旅立つのであった。
その世界は幸福に満ちていた。もはや幸福など消えつつある絶望的なこの世界に見切りを付けてしまう程に、そこは全てに満ちていた。
あの世界に、行きたい。
あの世界で、生きたい。
願う事は果たして悪だったのだろうか。
誰しもが夢を見る権利を持ち、誰しもが幸福を追う義務に囚われた世界で、自らの出自ゆえに全てを諦め、受け入れざるを得ない事は、果たして善だったのだろうか。
行きたい、生きたい。
焦がれた夢はしかし、叶う事など最初から望んではならなかった。
――あなたは、赦されないのです。
空腹で満たされた腹に、その声ははっきりと響いた。
…………
平和に暮らす者達に害なす存在は大きく分けて3つある。
ひとつは野生動物。本来攻撃的で無かった者達が魔獣に住処を追われ、餌を求めて人里を荒らす。
もうひとつは滅多に現れる事はないが、野人と呼ばれる存在。いわゆる人類……確認されている4種の区分である、知性に長けた智人族、巨躯と怪力が特徴の巨人族、逆に小柄だが手先が器用な小人族、獣の特性を濃く発現させる獣人族……に当たらない、特異な姿・能力を持った人型の者達。一般的に彼らには言葉は通じず、文化も酷く原始的だとされているが、大抵が人の寄り付かない秘境に住むため、詳しい研究もなされていない神秘の存在である。
そのため、今や一般的に野人とは彼らではなく、野盗や山賊を指す言葉となっている。
そして前述の者達以上に恐れられる存在……それが魔獣である。彼らは魔王の生み出した瘴気から自然発生したとも、それに触れた動植物が異常な進化を遂げたとも言われている。
これまでの常識などほぼ通用しないそれらに対抗し得るのは純然たる力のみ。
『殺せば死ぬ』シンプルな理屈こそが、悪しきを滅ぼす唯一にして絶対のルールであった。
だが、しかし。魔獣とは世の理の外にいる存在。当然、中には『殺しても死なない』者がいる。
海兎は完全にナメていたのだ。その魔獣の見た目と名前、そして自身に染み付いた記憶のおかげで。
「おおおおおおおお~っ!? ヤバい、ヤバいヤバいヤバい!」
「だからっ言ったのにっ! だから言ったのにっ! 剣はやめてって、言ったのに!」
「だって俺っもっ、お前もっ! 火使え、ないじゃん!?」
2人を追う大量の粘性生物。海兎の記憶によれば、始まりの街に出て来るポピュラーなモンスターであったはずだ。斬って良し、魔法で撃って良し、貰える経験値も雀の涙の雑魚の中の雑魚。たまに出て来る銀色や派生種だけはトリッキーな攻撃に気を付けなければいけないが、所詮は雑魚。
そのはずだった。
「何でっ、魔法使いのくせにっ、火、使え、ねえんだよっ!?」
「魔法使いじゃなくてっ、療、術、師っ!」
不毛な言い争いをしながら息も絶え絶えにひた走る。
スライムに物理的な攻撃は意味を成さない。それどころか、斬ったり潰したりすればいたずらに数が増えるのだ。おまけに体内は消化液で満たされており、力も大人の男ほどに強い。
無敵の怪生物の唯一の弱点は、炎。特に火の魔術であれば楽に一掃できる。
以前の勇者一行であれば魔術のエキスパートであるククリリがいた。カイトも初歩的な魔術は扱えたため、決して遅れを取る事は無かったのだが、海兎は別だ。
カイトの持つ技能の全ては使えず、できる事と言えば格下の生物に条件が限定される『威圧』と、
「『透視』!」
海兎の目の前に、彼にしか視認できない様々な情報が浮かび上がった。その副次効果として、茂みに隠れた兎の影や獣の足跡、布を透かしたボディラインが浮かび上がる。
元々がとても神に仕える身とは思えない服装をしたフェミィの体は、そっくりさんとは言え、よく『使って』いた彼女を思い起こさせて大変によろしくなかった。
「……くふっ」
「あなた今、何見たの? て言うか前、前っ!」
もちろん分かっている。断崖絶壁に飛び込む寸前で急制動を掛けた海兎とフェミィは、ごうごうと音を立てる濁流を見下ろし青ざめた。
慌てて振り向けば、スライムの大群がじりじりと距離を詰めていた。途中で捕食したのだろうか、半透明の皮膜の中に、兎が浮いていた。
前に進めば溺れて死ぬ。後ろに戻れば溶けて死ぬ。
絶体絶命の危機に勇者らしく打開策が浮かぶ事も無く、隣で神への祈りを唱えるフェミィを見て、海兎は泣きたい気持ちでいっぱいになっていた。
「頼むから何とかしてくれよ……」
「では、あなたに無痛の死と、死後の安らぎがあらん事を祈ります」
「そういう方向性じゃなくてさあ!」
生にしがみつこうとする様はみっともないともされるが、いざ当事者になってみれば、そんな外野の声は何の教訓にもならず、益も無いのだと理解した。
死ぬのは怖い。祈るべき神がいようが、たとえこの世界には蘇生魔術なる便利な手段があろうが、それがどれだけ恐怖を和らげると言うのだろうか。
溺れる苦しみも溶かされる苦しみも味わいたくない。目の前の兎の皮膚がどんどん剥げて行くのを見て、海兎は背筋を凍らせた。
こうなったら、自棄だ。
海兎が剣を構える。腰は引け、内股になった脚は震え、不思議と重さを感じないはずの聖剣を取り落としそうになっている姿はとても勇猛さとはかけ離れてはいるが、それでも海兎は精一杯に立っていた。
彼は足掻こうとしていた。全ては自分をこんな世界に放り込んだ女神に復讐を果たすため。なんとしても善行を積み、もう一度あの女神に会わなければならないからだ。
「来いよローションの化物め……突っ込んだら気持ち良さそうなナリしやがって……!」
「ろー……? ね、ねえ、もう良いから、一緒に祈りましょう? 選別の女神トゥイータも、最後は勇敢に見えたあなたを評価してくださるはずよ」
「言っただろ、俺は責任を取る。よ、四人助けるまで、旅は続けるってよ」
「……クズイカイト……」
持てる力を全て使えばここから脱する方法もあるかも知れない。絶望に満たされた思考で、海兎は自分にできる事を必死で思い出していた。
まず武器だ。魔王と渡り合えるだけの強靭な肉体と、ほとんど無制限だという『魔力』。そして携えるのは瘴気を祓う聖剣・『アスカロン』。
剣は役に立たない。瘴気は祓えても、それは魔獣を完全に消滅させるというだけの効果であり、そもそも死なないスライムに対しては増殖を招くだけである。
現に、刃に刻まれた紋様が無尽蔵のマナによって力を発揮する際の光に何かしらの効果があると思い込み、フェミィの忠告も聞かず振りまくった事がこの危機を招いている。
今さら自身の迂闊さを省みる暇は無い。瞬時に武器の事は忘れ、『権能』について思いを巡らせる。
スキルは特殊な技能、魔術、加護や体質など様々な力を総称したものだ。
『威圧』は勇者に与えられた加護のひとつであり、自身より格下の相手に本能的な畏怖を与え逃走や降伏を促す。勇者の力は強大であり、当然ほとんどの魔獣や野生動物相手なら戦わずして勝利が手に入る。
が、それはあくまで動物の中でも恐怖を知っている者に対してのみ。スライムは原始的な食欲のみで動く。当然、そこに恐怖は無い。
そして『ピーピング』は、元は医療目的で生み出された療術のひとつであり、渋るフェミィに拝み倒してようやく教えて貰った魔術だ。目の前のあらゆる情報を使用者に映し、集中すれば物体を透かした向こう側やわずかな痕跡さえも見える。
その効果は想像以上であった。何を見ているかなど海兎以外には分からないし、眼球を動かすだけでいくらでも欲しい情報が手に入る。当然、海兎は覚えたその瞬間から悪用を繰り返していた。
なにせ勇者のマナは無尽蔵。初歩的な魔術など四六時中使ってもマナが尽きる事は無い。ただし非常に目が疲れる。だから海兎は仕方なく、ここぞという時にのみ使っていた。
もちろん攻撃能力など無い。そもそも中身が見えているスライムに、そんな魔術の何が意味を成すのか。
「やべえ、想像以上にお手上げですわ」
「ですから一緒に祈りましょう? 軍神ミクシアリィは、勇敢なる者、潔い者には死後厚遇すると言いますよ」
「お前の所の教団は一体どいつ様を信仰してるんだ」
完全に終わった。
一応、ピーピングを使って周囲を見渡してみる。草、木、スライム、崖、空、女体、木、草、水、スライム、風、スライム、スライム、スライム……スライム。
「あっ!?」
見えた。
スライムは、低級の魔獣だ。
威圧は効かないにしても、低級の魔獣なのだ。
そもそも活路など、目の前に拓いていたのだ。
「フェミィ」
「はい……?」
「鼻水を拭え。走るぞ」
「はいぃ……!?」
言うが否や、海兎はフェミィの手を引いた。