親友にはめられました?
かなり加筆しました。
― 香子 -
今日は月曜日。そして今は昼休みなの。私は親友の向坂朱音と社食でお弁当を食べている。
「で~、朱音。さあ、吐け。すぐ吐け。いつの間にあんなカッコいい人と知り合ったのよ。水臭いわよ。私にも話してくれないなんて。高校からの付き合いでしょ」
「でもね、こうちゃん。話す間もない展開だったのよ。本当に偶然からなの」
「いや、あの溺愛ぶりはそうは見えない。まさか、出会ってすぐ一目惚れで意気投合のいくとこまでいっちゃった~、なんて言わないわよね」
私の言葉に朱音は真っ赤になった。マジか? マジっすか。
・・・と、いうかあの朱音が?
・・・あの人、朱音の彼氏。いい奴かと思ったけど実はすごいタラシなのか?
「こうちゃん、声が大きい。違うからね。勘違いだからね」
恥ずかしさに涙目で見てくる朱音はとってもかわいい。そうか、勘違いか~。
・・・あれ? でも、今まであんな男がいるなんて聞いたことがないぞ。
よし! やっぱり訊きだすことにしよう!
「それで、実際はどこで知り合ったの?」
「知り合ったって・・・す・・・彼は小学校の時の同級生なのね」
「えっ? まさかずっと付き合っていたの?」
「だから、違うでしょ。そうだったらとっくに、こうちゃんに紹介してるもの」
「あー、そうよね。じゃあ、どうしたのよ」
「えーと、ここだと話しにくいかな」
その言葉に周りを見回した。確かに訊き耳を立てている奴らがいっぱいいる。
「じゃあさ、これだけ教えて。あのアホと付き合っていた時には会っていたの?」
「アホって・・・ううん。再会したのは先週の木曜日なの」
「「「「えっ?」」」」
私の声に周りの声が重なった。それって・・・本当に何があったのよ。
「えーと、雨が降ったじゃない。雨宿りさせてもらったお店が彼の家で。・・・私の事覚えていてくれて・・・。それで・・・その・・・約束をしていたのね。次に会った時につき合っている人が居なかったら・・・結婚しようって」
朱音はキャッ、言っちゃった、という感じに顔を赤くして両手で顔を隠した。
私は呆然と朱音のことを見ていた。・・・いや、断言できる。社食中の人間が朱音のことを見つめていることだろう。
「へえ~。じゃあ、向坂さんが昴が言っていた女の子だったんだ」
その声と共に私の隣にトレーを置いて座る男がいた。朱音のとこの課長の小山内宏司さんだった。朱音が顔から手を外して小山内課長のことを見た。
「あっ、課長。日曜日はありがとうございました」
「いやいや。昴と約束してたし、何と言っても勝ち取ったのは俺だし」
「なんのこと?」
意味が分からずそう訊いたら、小山内課長が呆れたような視線を向けてきた。
「女のほうが目ざといと思うんだけどな・・・って、おい、向坂。なんで外しているんだ」
「えー、恥ずかしいじゃないですか。それに、仕事していると違和感があって」
「昴が聞いたら泣くから慣れろ。まあ、あとひと月だけだからいいか」
「だから何のこと?」
そう言ったら朱音がポケットから小さな箱を取り出した。その中身を取り出し指にはめた。
「えーと、こういうことなの」
赤い顔をして指輪を見せる朱音はかわいい。・・・かわいいけど、それって!
「結婚指輪じゃん!」
私はそう言って立ち上がり朱音の手を掴んだ。周りがすごく騒めいている。
「早くない?」
「だから、そういう約束だったの」
「それで、俺が署名するのを勝ち取ったと言う訳だ」
私の隣で胸を張る小山内課長に、脱力した私は椅子に座りこんだ。
「朱音、詳しい説明を所望する」
「いいけど・・・こうちゃん、今日の予定は?」
「特にない」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「わかった。じゃあ、終業後にね」
そのあとはお弁当の続きを食べ始めたんだけど・・・この人は何がしたいのだろう?
「ところで向坂さん。人事課に結婚の事を伝えるようにな」
「どうしてですか」
「お祝いがでるんだよ」
「えー」
「えーって、嫌なのか」
「だって、あとひと月で辞めるのに詐欺しているみたいじゃないですか」
「いや、寿退社もあるんだから、もらえるものはもらっておけ」
「・・・は~い。わかりました」
ここまではいいのよ。ここまでは! このあとよ! 問題発言よ!
「それにしても勿体ない事をしたな~」
「何がですか、課長?」
「こんなことならさっさと槇村から奪っておくんだった」
「またまた~、冗談がすぎますよ、課長」
「冗談じゃないって言ったら?」
「昴君に言い付けます」
「その昴と再会する前だったらどうだ」
「無理です」
「早っ! 少しくらい考えるとかしろよ」
「すみません。ですが無理なものは無理です」
「きっぱりだな~」
「私、人を見る目はある気ですから~。課長は私にはそんな感情ありませんもの」
「・・・なんだ、バレたか。いや~、でもな、不毛な関係はやめさせたかったぞ」
なんだ~。って、ただのお節介おじさんじゃない。
「それなんですけど、私達付き合ってるように見えました?」
「はあ~? 朱音、何を言いだすのよ。朱音が言ったんでしょ。付き合っているって」
「う~ん。それなんだけど~。・・・あのさあ~、私先輩と会社帰りに食事にしか行ってないのよね。他は会社ですれ違うと話すぐらいだったの。それも挨拶ぐらいだったの。これって付き合ってるっていえたのかな?」
「そう言われると・・・」
「恋愛的には付き合ってないな、それは」
「えーと、朱音。木曜日にショック受けてなかった?」
「う~ん、それね。違う部分でショックを受けたのよね」
「違う部分?」
「えーとね、私も先輩がなんで声を掛けてきたのか分かってたのね。カモフラージュに使うにしても、私を振ってから結婚の発表をすると思っていたのよ。それがあれでしょ。あまりのことにバカにされたんだと、ショックを受けたのよ」
・・・えーと、朱音? 周りがシーンとしてるんだけど。あんた癒し系で通っていたのよ。それをその発言いいのか? ・・・あっ。いいのね。
「プッ・・・」
私の隣で堪えきれずに吹き出す男。それでも器用に声を出さずに肩を震わせて笑っている。
「課長。声に出して笑った方が身体にいいですよ」
朱音~、それをいうか~。
「プハッ・・・アハハハハハ~」
小山内さんは朱音の言葉にお腹を抱えて笑い出した。それにつられたのか周りでも笑い声が聞こえてくる。所々から「槇村、バッカで~」や「アホだ、あいつ」「向坂さんのほうが上じゃん」などという言葉が聞こえてきた。
「いや~、久しぶりに笑ったよ。昴は素敵な人を嫁さんにしたようだな」
「でも、こう思えたのは昴君のおかげですから」
「ほお~。俺も何があったのか知りたくなってきた」
「話してもいいですよ。あっ、昴君が宏司兄さんと話をしたがってました」
「おおー。そりゃいいや。じゃあ、近いうちに行くからな」
「はい。お待ちしてます」
満面の笑顔でいう朱音はかわいい。それにたった4日なのに綺麗になったのよ。また、男達が朱音に見惚れている。罪作りな奴だな、朱音は。
「ところで野崎香子さん」
「はい」
突然名前を呼ばれて背筋が伸びた。
「今度食事にでも行きませんか」
「はっ?」
「いや~、向坂さんの友人なら野崎さんも面白い人でしょう。是非とも観察させてください」
なんですか? その誘い文句は。
「そんな理由なら行きませんから」
「あっ、だったら今日うちに来ませんか? 課長」
「はい? 朱音?」
「だって、今日はこうちゃんと約束したけど、どこかに寄るなんて論外なの。うちで食事しながら話そうと思っていたのね。だから仕事が終わったら合流しませんか」
「おっ。行っていいのか」
「はい」
「ちょっ、待って」
「こうちゃん。私、外では食べないし話さないよ。それにうちは会社から近いからね」
朱音の顔を見て・・・私は頷くしかなかった。
仕事が終わって朱音と彼女の家に行った。当然のように「ただいま」と、お店側に声を掛ける朱音。満面の笑みで「おかえり」という彼。この様子じゃあ、お客が居なきゃ抱擁のキスぐらい堂々としてるわね。
と、思いながら見ていたら、接客が終わった彼のそばに朱音が行って、しやがりましたよ。
そして、家の玄関にまわり家の中に入りました。
朱音が夕飯を作るというので一緒に手伝った。朱音は昔から親に料理を仕込まれていたので、作るのも手際がいい。今日は予定変更といいながらひき肉と玉ねぎ、にんじんのみじん切りを炒め始めた。私はジャガイモの皮を剥いて5ミリくらいに切っていく。茄子もへたを切り、同じように輪切りにした。他にも朱音の指示で野菜を切った。
料理が出来上がるころに彼、もとい旦那さんがお店を閉めて、家の中に来た。小山内さんも一緒だった。
「お仕事お疲れ様、昴君」
「朱音もお疲れ様。うれしいな、朱音の手料理」
「おい、昴。彼女の手料理を食べてないのか?」
「あー、だってさ。朱音と会ったのが木曜で、その日は俺の手料理食べてもらって、金曜はいろいろしてたから、買ってきたものでいいにしたし。土曜は朝は二人で作って、昼、夜は向坂家で食べたし。日曜は義幸伯父さん家で食べさせてもらって、夜も二人で作って、今朝も二人でだったんだ。だから朱音の初手料理」
「えー、ごめんなさい。私1人じゃなくてこうちゃんと作っちゃったの」
「いいの、いいの。女の子の手料理なのがうれしいの」
旦那さん・・・昴さんはとても嬉しそうに笑った。
「で、でも、ほとんど朱音が作りましたから。私は野菜を切ったり洗い物をしてました」
「えー、そんなことないよ。こうちゃんもちゃんと一品作っているもの」
いや、それは作ったうちに入らないだろう。だってサラダだよ。レタスをちぎって、キュウリをスライスして、ミニトマトとハムを乗せただけだから。
「それより食べようよ。ね、朱音」
「そうね。あっ、課長。お酒は飲みますか」
「いや、先にご飯を食べたいかな。俺も久しぶりの手料理だから」
「わかりました。ご飯よそいますね」
朱音がご飯をよそい私が運んだ。席に着き食べ始めた。今日の献立はムサカとササミのチーズ焼き。サラダになんちゃってオニオングラタンスープ。あと、ご飯とお漬物。本当に朱音は上手だよな~。
「家でオニオングラタンスープが飲めるとは思わなかったよ」
「ムサカってこういうやつか。初めて食べた。上手いよ、向坂」
「宏司兄さん、もう、向坂じゃないから」
「だけど昴、朱音さんって会社で呼ぶわけにいかないだろう」
「だけどもう高杉だし」
「いや、あとひと月だから向坂で通すんだと」
「えー、朱音。高杉って呼ばれるの嫌なの?」
「ううん。ただ単にめんどくさいだけ」
「うーーー。まー、いいか」
「いいのかよ」
なんか仲いいよね。兄さんって呼んでるから兄弟かと思ったけど、違うみたいだし。なんか謎が増えたような?
「あれ? こうちゃん。おとなしいけど、どうしたの?」
「あー、そのさ~。今更なんだけどね」
そう言って私は箸をおいて背筋を伸ばした。
「朱音の高校からの親友の野崎香子です。よろしくお願いします」
昴さんに軽く頭を下げた。
「えー、と。高杉昴です。昨日朱音と結婚しました。こちらこそよろしくお願いします」
昴さんも慌てて自己紹介をした。朱音が手をポンと打ち合わせた。
「そうだった。昴君とこうちゃんは初対面でした。ごめんね。私が紹介をするのを忘れたから」
「「まあ、朱音だから」」
昴さんと言葉が被った。よく分かってらっしゃる。
「どういう意味よ~」
「朱音はかわいいからいいのよ」
私がそう言ったら、朱音がふわりと笑った。
「こうちゃん、大好き~」
「奥さん。俺のことも忘れないでね」
「もちろんよ、昴君。愛してるわ」
「俺も愛してるよ、朱音」
そのまま見つめ合う二人。・・・もしもし甘い雰囲気は後にしてください。
「おい。あとにしろ、あとに」
「あっ、悪い」
このあとは食べ終わるまで甘い雰囲気にはなりませんでした。
食事が終わり片付けをしてリビングのほうに移動した。
そしてお酒を飲みだしたんだけど・・・お酒がいろいろあったのよ。ビールは当たり前、ワイン、日本酒、焼酎、ウイスキー、ブランデー、リキュール類もいくつか。
私は焼酎をお茶わりにして飲んだ。
そして、朱音と昴さんの馴れ初め?を聞いたの。
話は予想していたのと全然違うものだった。甘い話じゃ全然なかった。
小6で出会った二人。二人にとってはそれが運命だったの。運命だなんて大袈裟かもしれないけど、そうとしか思えない。二人は再会を約束をして、それを頼りに生きてきた。だけど、その約束が大切過ぎて一歩が踏み出せなくて、もう6年再会に時間がかかってしまったの。
でも、この再会も運命としか思えない。昴さんは朱音の辛い時に現れたのだもの。そして鮮やかに朱音の心を救ってしまった。
私は何も出来なかったもの。一緒にいようとしたけど朱音に拒絶されたの。朱音が一人になりたがったから私は朱音を一人にしてしまった。朱音を見送った後にそれは間違いだと気がついたわ。追いかけようとしたら突然の豪雨に阻まれた。天まで私達を引き裂くのかと思ったの。雨がやんで朱音のアパートに行ってみたけど、朱音はまだ帰っていなかった。携帯にかけても繋がらなかった。私は心配で眠れない一夜を過ごしたのだけど・・・。
翌日朱音はいつもと変わらず・・・ううん、いつもより胸を張って堂々とした姿で現れた。
朱音に嫌味を言おうと手ぐすね引いて待ち構えていた女達も、朱音の様子に何も言えずに自分の場所に戻っていった。
・・・ねえ、朱音。何があったの? そんな自信に満ちた朱音は初めて見たわ。それにたった一日・・・ううん、一夜で朱音は綺麗になったわ。
一日男達は朱音のことを気にしてソワソワしていた。でも、朱音はそんな男達を冷たく一瞥するだけだった。昨日までならふんわり微笑んで「みなさん仕方がないですね~」と言っていただろう。だけど朱音はそんなことは関係ないとばかりに、仕事に打ち込んでいたわ。
その答えは終業時間になったところで分かったの。終業時間になったら朱音はさっさと帰る支度を始めた。そこに昴さんが現れたの。手に一抱えもある花束を持って。昴さんは朱音の前に来ると跪き、みんなの前で堂々とプロポーズをした。朱音も嬉しそうに受け入れていた。前代未聞の出来事に会社中騒然となった。だけど二人はそんなことはどこ吹く風とばかりに、これまた堂々と帰ってしまった。
この状況を説明したのは小山内課長だった。私は彼の説明を聞いていなかった。あまりのことにショックを受けていたから。・・・でも、なんか納得したのよ。今まで朱音は恋をすることに消極的だった。でも、昴さんを見てわかったの。彼のことを待っていたんだと。今まで誰にも見せたことがない、安心しきった顔。
なんかね、完敗よ。もう。そう思ったら笑えてきたわ。
そのあと、どうやって自分のアパートに帰ったのかは覚えてないわ。
私が回想している間に土日のことに話は進んでいた。朱音の実家に行って結婚の許可をもらい、昴さんの親族にもお披露目済み。今度両家の親戚が一堂に会うことになっているそうだ。で、小山内さんが言っていた勝ち取ったというのは、婚姻届けに署名する権利だって。向坂家から一人、高杉家から一人。公平に選んで署名したそうだ。その婚姻届けは昨日の内にもう提出されているんだって。
昴さんも根は真面目なようで、真剣に話してくれた。話しを聞き終わって私は言った。
「そういえば言い忘れてたね。結婚おめでとう。朱音」
「ありがとう、こうちゃん」
「昴さん、朱音の事泣かしたらただじゃおきませんからね」
「ああ。肝に銘じておくよ」
昴さんが真面目な顔で言ってくれた。誰ともなくグラスを持つと軽く触れ合わせて乾杯をした。
そうしたら小山内さんが私と朱音に訊いてきた。
「ところで、同級生で同じ会社って珍しくないか。一緒に受けたのか」
「いいえ、違いますよ~。私達、大学は別々のところでしたし、実は高校の時はそれほど仲良くなかったんですよ~」
「じゃあ、なんで今はそんなに仲がいいんだ」
小山内さんの質問に思わず朱音と顔を見合わせる。朱音が微笑んでいる。・・・つまり私に言えということだな。
「えーとですね、私、高校の時には突っ張っていまして、友達がいなかったんですね。えーと、一匹狼が一番近いかな。家の事情もあって人間関係が煩わしかったんです。高3の時に朱音と一緒のクラスになったんだけど、他の子は敬遠するのに、朱音だけ私に話しかけてくれたんですよ。でも、最初はずっと無視してました。でも、朱音はそんなことを気にしないで、ずっと話しかけてくれたんですよ。それで少しずつ話すようになったんです」
ここで溜め息を吐いた。
「きっかけはクリスマスイブでした。私は親と喧嘩して町を彷徨っていたんですね。かなり自暴自棄になっていたので、ナンパでもされたらついて行ったんじゃないかと思います。それくらい酷い状態でした。この時に朱音と会ったんです。朱音は買い物に町にきていたんです。私を見つけてかなり強引に彼女の家に連れていかれました。そのままいろいろ手伝わされて、気がついたらクリスマスパーティーに参加させられてました。そのまま朱音の部屋に泊まることになって・・・。朱音はずるいんですよ。何かがあったって分かっているのに何も聞いて来なかったんです。・・・結局私から話してました。朱音に話して私、初めて家族以外の前で泣いたんです。人に話すということが、人に訊いてもらえるということが、こんなにも心地いいんだと初めて知ったんです。ほんと、バカでしたよね。もっと早く素直になって、朱音と友達になっていれば良かったって思いましたよ」
一口、のどを潤すためにグラスに口をつける。
「大学は志望校を変えるわけにいかなかったから、そのまま受験しました。たまたま近い大学だったんで、大学の四年間朱音とよく会ってました。就活もお互いに詳しい話はせずにそれぞれで動いてました。だから、この会社の面接の時に会って驚いたんです。で、内定をもらい現在に至るということです」
そう言って話を締めくくった。三人とも驚いたような顔をしている。
・・・あれ? 変な事言ったかな?
気がついたらみんなのグラスは空になっていた。朱音が水割りを作ろうとして氷がない事に気がついて、立ち上がりかけてバランスを崩した。
「危ない」
朱音を支えようと手を伸ばしたら・・・傾いたアイスペールの中の水が私の方に飛んできて、顔から胸元にかかった。
「やだ~。こうちゃん、ごめん」
「あー、大丈夫だから。これは水だもの」
「でも、氷の水だから冷たいよね。・・・そうだ。お風呂に入ろう。それで着替えてね」
「えー、大丈夫だよ。まあ、でも着替えを貸してくれるとうれしいかも」
「うん。昴君の従姉さん達が置いていったのがあるから、こうちゃんでも着られるよ」
そう言って朱音に引っ張られて別の部屋にいった。タオルで胸元や顔を拭きながら、氷水はあんがい冷たいなと思っていた。服を選び終わり・・・って、何で新品のショーツがS、M、Lと揃っているわけ?
私の問いに朱音も「謎だよね~」と返してきた。まだ聞いてないようだ。
そこに昴さんが声を掛けてきた。
「朱音。お風呂入れてるから、野崎さんに入ってもらえば」
「ありがとう、昴君。さあ、こうちゃん。着替えもあるし遠慮なく入ってよ。なんなら泊まってくれていいからね」
「だから、そこまで、しなくていいってば」
「でもね、こうちゃん。こうちゃんに風邪をひかせるわけにはいかないのね」
朱音が涙目で訴えてきた。朱音が悪いわけじゃないのに、そこまで気にしなくても・・・って、いつものことか。仕方がない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。でも、お風呂を借りたら帰るから」
「うん。わかった」
そして、洗面所に案内されて、私はお風呂に入ったのだった。
― 宏司 ―
目の前で起こったことに、あ然とした。よろけてなんで水をかけることになるんだ。
向坂が水を被った野崎さんを連れて他の部屋に行った。
歩きながらタオルを受け取り眼鏡を外して髪を拭く横顔にまさかと思う。
彼女達が別の部屋に行ったところで昴が動いた。戻ってきた昴が彼女達に声を掛けていた。
お風呂に湯を張りに行っていたようだ。戻ってきた昴が俺に訊いてきた。
「どうしたのさ、宏司兄さん?」
「なにがだ」
「う~ん。なんかスッキリした顔をしているよ。えーと、ずっと分からなかった謎が解けたような、ずっと探していたものが見つかった、みたいな?」
「ああ、そうだな。この一年探していたものが見つかったからな」
「へえ~。ちなみに何かな? それは」
昴がそう言った時に向坂が戻ってきた。そして何を思ったのか、グラスにアマレットとガムシロップをかなり入れてマドラーでかき回しだした。
「課長・・・いえ、小山内宏司さん。私、訊きたいことがあるんですけどいいですか」
「奇遇だな。俺も向坂に訊きたいことがある」
向坂はかき回す手は止めずに俺を見てきた。笑顔のない真顔に何を言われるんだろうと思う。なので、彼女から話を聞くという意味で視線で促した。
「小山内さんは、一年前香子と何があったんですか?」
その言葉に答えを貰ったようなものだな。だけどもう少し確認したい。
「なんで、そう思うんだ」
「だって、香子はある日を境に今の香子になったの。変化はそれだけじゃなくて、小山内さんを見かけるとじっと見つめてました。最初はイケメン新課長に一目惚れしたのかとおもったんだけど、それにしては視線に甘さがなくて。う~ん、なんていうのかな~、探るような視線? でも、何か見つからないようにしているようにも感じたんです」
「・・・前から思っていたけど、向坂はなんで普段からその話し方をしないんだ」
「小山内さん、話しを逸らさないでくれます?」
「あっ、悪い。」
「まあ、いいですけど。会社ではなんかふんわりした印象になっていたので、それに見合った話し方をしているだけです」
「野崎に対しては?」
「あれは・・・香子のためですね。香子はさっきも言っていたけど、いろいろあった子なんです。しっかりしているように見えて、実はかなりもろいです。香子を支えてくれる人が早く現れて欲しいと思ってます。それまでは香子が思っている香子でいさせるために、香子に甘えてました。・・・だけど、失敗しちゃったんですよね~」
向坂の顔に苦い笑いが浮かんだ。
「それが俺を誘った理由か?」
「あっ、気づいてました。小山内さんは課長になるまでは派手に遊んでいるって聞いていたのに、課長になってからは遊ばなくなりましたよね。というより、香子の変化と同じ時期から。だからずっと見てました。そうしたら小山内さんは誰かを探しているみたいじゃないですか~。私の中で2人の関係がイコールになりましたもの」
・・・こいつは。
「ちなみにイコールになったのはいつだ」
「う~ん、半年前かな?」
首をかしげながら向坂が言うのをつい睨んでしまった。そうしたら、隣の昴から鋭い視線が飛んできた。俺の口からついでにぼやきが漏れた。
「教えてくれてもよかったじゃないか」
「言う訳ないじゃないですか~。私は香子が大切ですもの。それに香子は見つからないようにしてたもの」
「じゃあ、なんで今になってこんなことをするんだ?」
「だから、失敗したって言ったでしょう。先週の木曜日、自分のことに精一杯で香子のことまで頭が回らなくて、傷つけてしまったもの。香子はやさしいから自分のことより私のことを優先してくれるの。それなのに一晩連絡しなかったし。次の日も香子でも話しかけずらい状況だったのよ、私。もう、駄目じゃん」
そう言ってまた口元に苦い笑いが浮かぶ。
「それにね、さっき香子はお酒に酔っているとはいえ、言わなくていいことまで言いましたよね。それって聞いてほしいから言ったんですよね。私にじゃなくて」
そのあと、キッと俺を見据えると言った。
「だから決めました。小山内宏司さん。あなたが探していたのは香子ですか」
「その前に、彼女は一年前は茶色のウエーブがある髪で、服装も年相応の華やかなものを着ていなかったか。あと、眼鏡もかけていない」
「そうです。前の香子はそんな感じでした」
「やっぱり! 彼女だったんだ」
俺が喜ぶ様子に向坂が微笑んだ。
「じゃあ、小山内さん。あなたに香子を任せます。幸せにしてください。このあと香子を落としてください」
「落とせって・・・」
「たぶん言葉だけじゃ逃げますよ、香子は! もう一回寝てるんでしょ。身体から落としてください」
「朱音? それは野崎さんに」
「昴君は黙ってて。お願いします。今からお風呂に入って襲ってください」
「さすがにそれは・・・」
向坂の勢いに俺は身体を引いた。野崎のために一生懸命なのはわかるが、なんでこんなに必死なんだ?
「落ち着け朱音。そんなことをしても、野崎さんのためにならないだろう」
昴が向坂を止めようと彼女の隣にいって肩に手を置いて宥めた。それに涙目で彼女が訴えた。
「だって・・・このままだと、こうちゃんが壊れちゃうもの。私嫌だもの。あんなこうちゃん、もう見たくないもの」
向坂がそう言うってことは前にも何かがあったのか?
向坂が俺のほうを向いた。
「理由ならあげます」
そして、手に持っていたグラスの中身を俺にかけてきた。
「これで堂々といけます。とにかく、こうちゃんに色っぽいことで動揺させてください」
俺は背中を押されて浴室のほうに行ったのだった。
― 香子 -
・・・えーと、これってあとで突っ込めってことかな? ここにもシャンプーやボディソープが数種類おいてあった。いとこって一体何人いるのよ。それにこれは・・・男性用も数種類って・・・。
朱音のところに泊まった時に借りるのと同じ、シャンプーとボディソープがあったのでそれを借りた。湯船に入り体を伸ばしていると洗面所に人の気配がした。あれって、思っていると、扉が開いて入って来たのは!
「小山内さん? えっ、なんで?」
「あー、悪い。直ぐに出てくから向こうむいてろ」
思わず入って来た小山内さんの様子をまじまじと見てしまった。均整の取れた体。思ったより筋肉がついている。34歳だけど、まだお腹は出ていない。っていうか腹筋割れてるし。何かやっているのかしら?
・・・じゃなくて、髪! 濡れているんだけど・・・なんかベタベタしているようだし?
シャワーを浴びだした、小山内さんに訊いてみた。
「どうしたんですか、それ」
「ん~? ああ。どうも向坂を怒らせたみたいで、アマレットをぶっかけられた」
「はあ~? 朱音が! 何を言ったんですか」
つい興奮して湯船の中を立ち上がった。
「・・・野崎。見えてるけどいいのか」
「あっ!」
慌てて湯船の中にしゃがみこんだ。なんか顔に熱が集まってくるんだけど・・・。
「とりあえず風呂から出てからだな、話しは。ああなるべく見ない様にするから、先に出てろ」
小山内さんの声が聞こえたけど、さっき勢いよく立ち上がったからか、頭に血が上ったようでクラクラしてきた。
「・・・野崎? あっ、やべぇ~」
その声を聴きながら私は意識を手放したのだった。
目が覚めた時うす暗い部屋の布団の中に寝かされていた。どうやらお酒と羞恥でのぼせてしまったようだ。結局お泊りしちゃったなと、思いながら時間が知りたくて動こうとしたら身動きが出来なかった。
えーと、お腹に腕を回されている気がするんだけど、これは?
隣を見ると小山内さんと目が合った。
「目が覚めたか、野崎」
私は言葉が出ずにパクパクと口を開閉させた。
「悪かったな。風呂に入るのをお前が出てからにすればよかったんだが、向坂にけしかけられてのってしまったんだ」
・・・はい? 朱音。何を言ったの?
「ついでに先に言っとくが、一年前と違ってまだ何もしてないからな」
そう言った小山内さんの手が動いて胸を触ってきた。
「あ、の。もしかして・・・私達、服を着てないんですか?」
「ああ。スベスベの肌を堪能させてもらったから、やはり何もしてないわけじゃないか」
しれっとそんなことを耳元で言う小山内さんを私は睨んだ。そうしたら胸から手を外し、またお腹に回してきた。回してない方の腕を頭の下に当てるとフッと自嘲めいた笑いをした。
「探しても見つからないわけだ。髪の色だけならまだしも、髪形や服装を変えているんだものな。女は見た目を変えるだけでここまで変わるんだって忘れてたよ」
「・・・それって」
「探したよ、野崎。それともカオリと呼んだ方がいいか」
その言葉に私は身を固くした。バレた。バレちゃってたんだ。せっかく一年わからないようにしていたのに。
「と、いうわけで話しをしようか」
「ないです。私にはないですから」
「ひでぇ~な。探したって言ってんだろ」
「探さないでください。っていうか、何の用があるんですか。あれは一夜の思い出でいいじゃないですか」
「あー、だけどな、遊んでる女ならまだしも、初めてを捧げてくれた相手を放っておくのもどうかと思わないか」
「そんなこと思わなくていいです」
「そうか~。身体の相性もいいことだし、俺のところに嫁に来ないか」
「何言ってるのよ。バッカじゃないの」
「いやいや、正しい大人の姿だろう。責任を取ろうとするのは」
「それじゃあ、今まで関係持った相手にそう言ったら」
「残念ながら初めてをくれたのは香子だけだから」
あまりのセリフに顔が赤くなってきた。もう、何でこうなったのよ。
小山内さんが身体を起こした。と思ったら私の上に覆いかぶさってきて口づけをされた。
唇を離すと小山内さんが言った。
「向坂の言う通りだな」
「な、なにが」
「言葉だけじゃいうことを聞かないから、身体から落とせって」
「朱音~、何をいっているのよ~」
絶叫した私の頬をやさしく撫ぜるとニヤリと笑った。
「この一年女を抱いてないからな。加減するつもりだが自制できなかったらごめんな」
そう言って口づけをされました。
翌朝・・・体が痛いです。もう少し加減しやがれ、こんにゃろう。
・・・で、この方はどなたでしょうか? とてもきれいなお姉様です。
服を持ってきてくれたようです。下着も用意してくれたのはいいけど・・・。
あっ、朱音もお世話になったのね。・・・そうなんだ。
って、朱音。あとで覚えてなさいよ~。
このあと、朱音と昴さんが用意してくれた朝食を食べて、着替えてお化粧をされて、朱音と小山内さんと私の三人で出社しました。・・・もちろん小山内さんのスーツも用意されてたのよ。
なんか、見られてます。金曜日の朱音の比じゃないんだけど。
そりゃそうよ。小山内さんは最年少で課長になったできる男で、独身イケメン。彼を狙っている女は数知れずっていう人なのよ。そんな人と一緒に出社だなんて・・・。
お昼に社食で朱音と待ち合わせた。一緒にご飯を食べながら、朱音に文句を言った。
「何を画策したのさ、朱音。素直に吐きなさい」
「それは私のセリフだよ、こうちゃん。いい加減素直になりなよ~」
「なんのことよ」
「あのね、こうちゃん。私はこうちゃんの親友よ。親友がこの一年誰のことを思っているかなんて、見てればわかるのよ」
朱音の言葉に愕然とした。・・・ん? 思ってる?
「それって誤解なんだけど」
「こうちゃん、もしかして自分の気持ちに気づいてないの?」
「はあ~? なんのことよ?」
「う~ん。ここまで鈍いとは。・・・それじゃあ、香子はどうするつもりなの?」
朱音の変化にドキッとした。朱音が私の名前を呼び捨てにするときは本気モードの時だ。
この親友は普段はふんわりとした状態で煙に巻いているけど、本気モードになると容赦が無くなるのだ。金曜日も昴さんがお膳立てしてくれたおかげで、朱音に嫌味を言おうとした女達は叩きのめされなくてすんだのよ。
って、考えてる場合じゃない。真面目に答えないと、あとが怖いことになる。
「どうも何もないでしょう。昨日だけでどうなれと?」
「ほう~。あれだけ言ってもわからんか」
すぐそばから声が降ってきた。そして隣に座ってきましたよ~、あいつが!
私が睨みつけたら、それに笑顔を返してきやがりましたよ!
「あ~、課長。駄目じゃないですか。香子、落ちてませんよ」
「すまんな、向坂。どうも会話が足りなかったようだ」
「ちょっと」
「いいえ。これは香子が悪いんで。で、どうします。今日もうちで話しますか?」
「昨日の今日じゃ悪いだろう」
「全然迷惑じゃないです。さっさと落としてください」
「朱音。あんたは誰の味方なの!」
私が怒鳴ったら、朱音が冷ややかな視線を寄こした。
「香子。私は香子の幸せを考えているの。一年見てきて小山内さんなら香子を任せられると思っているわ」
朱音の言葉に社食中がシーンとした。
「いい加減観念しなさい」
・・・なによ。何よ。何よ~! 人の気も知らないで。何が私の幸せよ。何が任せられるよ。何が観念しなさいよ~!
私はキッと朱音を睨むと言った。
「朱音こそ、私の何を知ってるのよ。勝手に任せるとか言わないでよ。私がこの一年何を考えてたかなんて朱音が知るわけないでしょう。自分が幸せを手に入れたからって、人にまで押し付けないでよ」
そう言って私は席を立つと社食を走り出ていった。
そのあと終業時間まで私の周りはザワザワしていた。一度、女達に声を掛けられたが、私のひと睨みで何も言わずに戻って行った。
終業時間になり朱音に捕まる前に帰ろうとしたら、私の部署の入り口に小山内さんが現れた。てっきり朱音が来ると思っていたから、しばらく呆然と彼を見つめていた。そうしたら私のそばに来ようとするのが目に入った。このままここにいたら捕まると思い逃げようと思ったけど、あいにく入り口は彼が来るほうのみ。
万事休すかと思った時、彼狙いの女達が行く手を阻むように彼の周りに集まった。彼はそれを煩わしそうに相手をしている。私はその隙に彼から距離を取りながら大回りに入り口に向かった。部屋から出る時に気がついた彼の声が聞こえた。
「香子。待て」
その声が聞こえたと同時に私は走り出した。ここは5階だ。エレベーターホールに着いたけど、エレベーターは直ぐに来そうにない。そのまま階段を駆け下りた。
「香子―」
彼の声が降ってきた。私は4階で階段から廊下に方向を変えて走って行った。廊下を歩いていた人達が驚いたように見てくる。反対側の非常階段につき、そこを駆けおりる。
「香子。止まれ」
また、声が降ってきた。2階でまた、廊下にでた。そのまま女子トイレに逃げ込んだ。個室に入り、息を整える。息が落ち着いたところでどうしようかと考える。
今出て行けば絶対捕まる。幸いこのトイレには誰もいなかった。だから私がここにいるのはバレてないと思う。
なので、もうしばらくここに隠れていようと思う。
トイレの便器に蓋をしたまま座りこみ、ハア~とため息を吐き出した。なんでこんなことになったのかな~。絶対判らないと思っていたのに。
一年間、まさか私を探してくれていたとは思わなかった。
あれは久しぶりに大学の友人たちと飲んだ日のことだった。2件目で男だけのグループに声を掛けられて一緒にカラオケにいって、そのあともう一軒飲みに行った。そこで何となくカップルが出来て、私も一人の男と話をした。そこを出た後、それぞれカップルごとに別れたのだ。私はその男にホテルに連れ込まれそうになった。それを助けてくれたのが小山内さんだった。
そして小山内さんは私を自分の部屋に連れて行った。・・・でも、何もせずに泊めてくれただけだった。次の日の朝、勝手に触って怒られるかなと思ったけど、お礼の意味を込めて朝食を作った。といっても、ハムエッグとオニオンコンソメスープ、マッシュポテトぐらいだったけど。あとは彼が起きてからコーヒーを淹れてパンを焼いただけ。それなのに美味しいっていって食べてくれた。
そのあと話をして昨日のことを話したら、なぜか怒られたのだ。もう少し自分を大事にしなさいと。今までそんなことを言ってくれる人はいなかったから、逆に彼に興味を持ったっけ。
そのまま何となく帰りそびれてずっと話をしていた。彼も帰れとは言わなかった。一度外出はした。食材が何もないので買いにいったのだ。スーパーの試食コーナーのおばちゃんに夫婦と間違われたのがくすぐったかった。スーパーの帰りに手を繋がれてドキドキした。
お昼はパスタにした。玉ねぎと人参、ピーマンとウインナーでナポリタンにした。
食べ終わって片づけた後、さすがに長居し過ぎかと思い帰ろうとしたら、引き留められた。
午後はビデオを観て過ごした。私が見逃した番組を録っていると知って見せてもらったのだ。二人でソファーに並んで座り笑いながら見ていた。彼と笑いのツボが同じだと知った。
夕食は彼のリクエストで肉じゃがとお味噌汁、ハスきんぴらを作った。久しぶりにご飯を家で食べたと彼は言った。
片付けを終えて帰ろうとしたら抱きしめられた。口づけされて帰したくないと言われた。私は頷いて、そして彼に抱かれた。彼は私が初めてだと知ると驚いた顔をした後、やめようとしたっけ。でも私が初めてはあなたがいいと言ったら、しばらく考えてそれから嬉しそうに微笑んでくれて・・・。
それなのに私は翌朝、彼が目覚める前に彼の部屋を出た。自分のアパートに戻ると、服を着替えてすぐに美容院に行って髪を染め、髪形を変えた。それまでかなり明るい茶髪にしていたのを黒髪にし、前髪をずっと伸ばしていたのを目もとまで切り、ゆるくウエーブをつけていたのをストレートにした。服もそれまでの今風な物から、あまり流行を追わないスーツを何着か購入した。ついでに伊達眼鏡も用意した
月曜日、その姿で朱音に会った時には凄く驚かれた。でも、私はこの姿にして良かったとすぐに思い知ることになった。そう、彼の姿をどこかで見たことがあると思っていたのだ。それが、朱音の課の新課長だ、とまでは思い出せなかったのだけど。でも、会社に着いた時に朱音が彼に挨拶したことで、顔を合わせることになったのだ。彼は私に気がつかなかった。でも、気を抜くわけにはいかない。彼と話していた時に、うっかりこの会社に勤めていることを言ってしまったのだから。あの時彼が目をみはったのは同じ会社だと知ったからだろう。ただ、名前を聞かれてカオリとだけ答えたから、名前から私にたどりつくことはないと信じたい。
そのあとも、彼にいつ気付かれるかと様子を伺っていたのを、朱音に気づかれていたとは思わなかった。それに・・・朱音は鋭い。私は彼のことが好きなのだろう。朱音にいわれるまで自覚していなかったけど。
でも、無理だよ。義務感で結婚って嫌だもの。どこをどう考えたら幸せになれるのよ。
気がつくと涙が溢れてきた。ハンカチを取り出して目にあてた。そして声が漏れないように腕に口を押し当ててしばらく泣いたのだった。
泣き止んだ時には一時間以上過ぎていた。化粧が涙で流れてボロボロだった。・・・目も赤いし。軽く化粧を直しトイレを出る。うちの会社は残業は基本しないことになっている。今は忙しい時期ではないので、尚更残業をする人はいないだろう。なので、このフロアもほぼ人はいないようだ。エレベーターホールでエレベーターが来るのを待った。来たエレベーターには誰もいなかった。それに乗り一階に降りた。
入口に向かったところで私は足を止めた。私から死角になっているところから、彼が姿を現したから。
「なんで・・・まだいるの」
出てきた声は情けない声だった。力のない涙声。それだけでなく涙も溢れてきた。彼は一気に距離を詰めると私を抱きしめた。
「香子」
一言名前を呼んでギュッと抱きしめられた。
「そんなに嫌か、俺の事」
「違う・・・」
嫌じゃない。でも私じゃ釣り合わない。
「香子。俺のそばにいろ。一年前に逃げ出した理由は判っている。もう何も考えるな。俺の隣で笑っていろ」
・・・わかってないよ。欲しいのはそんな言葉じゃない。
「香子、愛している。だから俺の隣にいてくれ」
「うそだ~」
「噓じゃない。お前を助けた日。あの男に怯えて助けを求める潤んだ瞳に一目惚れをしたんだ。本当は直ぐにお前を抱きたかった。でも男に怯えたお前に手が出せなかった。翌朝俺のために朝食を用意してくれたことがうれしかった。そばにいたくてどうでもいいことで引き留めた。初めてだと知ってうれしさと共に大切にしたいと思った。俺はお前より10歳も年が上だし、お前も知っているように散々遊んできた。そんな俺はお前に相応しくないと思う。だけど、お前が他の男のものになるのは嫌なんだ。だから、俺と結婚してくれ」
私はその言葉に足の力が抜けたようになった。彼に抱きしめられていなければ座り込んでいただろう。
「だって、私の方が釣り合わないと思っていたの。大人のあなたに相応しくないと思っていたの。・・・いいの。私で」
「言っただろう。香子に一目惚れしたって」
「私も。助けてくれたあなたに恋をしたの」
「じゃあ、香子」
「はい。私をお嫁さんにしてください」
そう、答えたら・・・うわ~と歓声が起こった。ビックリして彼の後ろを見ると、人が一杯いた。その中から朱音と昴さんが進み出てきた。昴さんの手には花束があった。
彼・・・小山内さんは左手で私を支えると昴さんから花束を受け取った。それを私に差し出しながらもう一度言った。
「野崎香子さん。俺の隣で一生笑っていろ」
「・・・なんで、乱暴な言い方になるの」
「乱暴な言い方じゃないだろう」
「それなら、単純に結婚してくれのほうがいいわよ」
「さっき言っただろう」
「なら、私もさっき答えたわよ」
言い合いを始めた私達に朱音の呆れた声が聞こえた。
「いい加減にしてよね。せっかくのいい雰囲気が台無しじゃない。課長にこうちゃん」
・・・そういえばギャラリーが一杯いたんでした。
私は赤くなって花束を受け取り、花束の陰に顔を隠した。
そして小声で言った。
「なんでこんなに人が一杯いるのよ」
「それはあれだ。昼のことが知れ渡った所に、夕方の追いかけっこに興味を持った奴らが見届けるために残ったんだとさ」
私は恥ずかしさにますます花束の陰に隠れた。そうしたら彼に抱き上げられた。
「えっ。ちょっと、下ろして」
「力が抜けて歩けない奴が何をいう。おとなしくしてろ」
そしてそのまま抱かれたまま会社を後にしました。
外に出ると昴さんが車で来ていたので、送ってもらえることになりました。
・・・けど、なんで小山内さんの部屋なの? その荷物・・・昨日着ていた私の服と三日分のスーツや部屋着って何? はい? あのお姉様からのご祝儀って?
「じゃあ、課長。じゃなくて、小山内宏司さん。香子の事任せましたから~。あっ、でも、抱きつぶすのは禁止ですからね」
「いや、明日のことを考えたらつぶしておいた方がいい気がするんだが」
「それじゃあ、こうちゃんが会社に行きにくくなるでしょう。ちゃんと連れてきてくださいね~」
「ちょっと、朱音~」
情けない声を上げた私に朱音が微笑んだ。
「こうちゃん、これから親戚だね。これからもよろしくね」
そう言って、朱音は昴さんと帰ってしまった。私は呆然と彼の部屋のソファーに座っていた。
それに朱音の言葉の意味がわからなくて首を捻った。そういえば小山内さんと昴さんの関係を聞いてなかったわ。
「香子、どうかしたのか」
いつの間にか着替えてきた小山内さんがそばにきた。
「ねえ、小山内さんと昴さんの関係は?」
「香子、名前で呼んでくれないか」
「二人の関係は?」
隣に座った彼と見つめ合う。
「だから、名前を呼べって言ってるだろ」
「だから、二人の関係は!」
ムウッとしながら彼のことを睨んだ。彼も私のことを睨んできたけど、溜め息を吐いて肩を抱いてきた。
「いとこだよ」
「そうなんだ。だから朱音は親戚になるって言ったのね」
私の言葉に肩を落とす彼。・・・と思ったら、ソファーに押し倒された。
「香子、俺と向坂とどっちが大切なんだ」
「もちろん朱音だけど」
見上げながら言ったら、唇を唇で塞がれた。
「お前さあ、俺をいじめて楽しい?」
「別に~。事実だもの。宏司さんの事も大切だけど、それよりも朱音のことのほうがもっと大事なの」
そう言ったら宏司さんは何とも言えない顔をして私の上から退いた。ソファーに座り直し私も引っ張って起こしてくれた。
「やれやれ。どうも俺は大変な奴に惚れたようだな」
「でも、お嫁さんになりたいのはあなたよ。宏司さん」
この言葉に顔を赤くし右手をあてた後、もう一度溜め息を吐いた。
「まあ、しょうがないか。惚れた俺の負けだ」
「なんのこと?」
「あんまり振り回さないでくれよ。香子」
そう言って私のことを抱きしめながら口づけをしたのだった。
主人公の香子だけでなく、お相手の宏司目線が入りました。
その部分がない時には読みにくかったと思います。
読み直された方にはお詫び申し上げます。
どうも、すみませんでした。
短編としてはかなり長くなるので、それが嫌で抜かしてしまいましたが、感情の流れが断ち切られていたので、本当に読みにくかったですよね。
評価にも如実に表れてましたので、本当に反省しました。
ここまで読んで頂きありがとうございました。