プロローグ
日本の大きな都市。
俺こと蛍河比古命は高いマンションの屋上から、大規模な工事現場を見下ろしていた。
紺色の和服が風にはためき、腰に差した太刀が揺れる。
眼下にはすべてを平地にするかのような工事。オリンピックのための区画整理らしい。
ショベルカーが道路をはがし、ブルドーザーが土砂を運んでいく。
そして、俺の御神体――今は道祖神にまで成り下がった大きな岩をも砕きながら移動させていく。
はあ、と俺は天を見上げて溜息を吐いた。足を後ろに下げると下駄がカランッと虚しく鳴る。
「千年以上頑張ったのにな……。俺は神になれなかった……」
俺は八百万の一柱に数えられたこともあった、れっきとした神だった。
しかし、人間に媚びることをせず、傲慢に振舞ってきた。
けれどそれは間違いだった。
特に江戸期に古事記を再評価した本居宣長の夢枕に立って自分の名を囁かなかったのが致命的だった。
なぜ人間なんかに媚を売らなくてはいけないのか?
当時の俺は理解できなかった。
あの天照大神ですら本居宣長の枕元へ足を運んでいたというのに。
古事記の原本自体はすでに失われていることを俺は失念していた。
結局、俺の名前は古事記から消え、流浪神となってしまった。
それでも、まだ当時は御神体を祭る神社があった。
だが明治の神仏分離令の余波で、名もなき神の社は切支丹の隠れ蓑呼ばわりされて潰された。
その後、御神体だけは道の三叉路に置かれて少しは信仰を集めた。
――が。
見てのとおり。工事の地ならしに巻き込まれて御神体すらも砕かれた。
人とコンタクトを取るのは不可能になった。
これが人に媚びず、高慢に振舞った神の末路。
もう俺には何もない。
軽く首を振った。感傷に浸ってても仕方がなかった。
どれだけ後悔したところで、挽回できるはずはなかった。
「――帰るか」
腰に下げたひょうたんの水筒を手に取ると、自分の立つ周囲を囲むように丸く水を撒いた。
そして手を合わせて呪文を唱える。
「空と時を繋ぐ、天鳥船神よ。我が呼びかけに応じ、彼方と此方を渡る道となれ! ――《異界神門》」
ブゥン――っ、と目の前に虹色の丸い空間が口を開く。
人々にあがめたてまつられる神になると吹聴して高天原から降りてきたのに、手ぶらで帰ったら何を言われるか。
考えただけでも憂鬱だった――ん?
「あ、やべ! 行き先指定忘れてる!」
次元移動する呪文なんて久しぶりすぎて、すっかり忘れていた。
胴体が吸い込まれたところで、俺は虹色の入口の縁に指をかけて必死に抵抗した。
「ちょ、ちょっと待て! ストップ! ふりぃぃず!」
叫んだところで止まらない。すさまじいまでの吸引力。
さすが今でも信仰を集める神の力。
落ちこぼれでは勝てない。
抵抗むなしく縁から指先が離れた。
一気に吸い込まれて、体がぐるぐると回るように揺れる。
目に見える青い空が、白い雲が、茶色い工事現場が、交じり合うように融けて遠ざかっていく。
「うわぁぁあ! やめろー! やりなおしさせろー、ばかー!!」
俺は手をバタバタさせて抵抗したが、一度発動した呪文の前には無力。
どこへ行くのかわからぬまま、次元の彼方へと飛ばされていった。
二話までは推敲を終え次第、今日中にアップしたいと思います。