いつもどおりに
朝起きてみたら、妙に隣の一軒屋で飼われている犬が騒がしかった。俺の安いボロアパートまでキャンキャンとうるさい声が聞こえてくる。いつも以上に喚いていた。まあ、たまにあることだ、と放置していたら、いつの間にかその声は収まっていた。
俺は布団から這い出してテレビをつける。1Kの小さな部屋だ。一人暮らしをするにしても小さすぎる。
「ああ、だりぃなぁ……」
独り言をぼやいて、毎日が始まる。いつもそうだ。俺は独り言を言うのが癖になっている。
今日は月曜日だから仕事の始まる日。いつも陰鬱な気分になって、胸糞悪い最悪の日だ。仕事は辛い。金は欲しいが、仕事は好きじゃない。そりゃそうだ。誰だって楽して金が欲しい。真っ当な金、だけだけれど。
「ああ、金だよ金。そうそう、金、金、金……」
俺は愚痴りながら、窓を開けた。洗濯物が乾いている。今日着る分のワイシャツもあった。
「今日もやっぱり残り物ですかね」
電子レンジで昨日の残りを温めながら、俺は洗濯物を取り込む。その後、昨日のうちに洗濯機にかけていた洗濯物を干し始めた。十分もかからないうちに、それも終わる。一人暮らしなんてこんなものだ。
家の中に戻った。そしてニュースを見ながら朝食を平らげ、スーツへと着替える。ネクタイはいつも、歯磨きが終わったあとに締めている。
ニュースでは内閣がどうとか日本代表がああだとか、そんな感じのことを言っていた。外国では大規模なテロがあったらしい。
「テロかぁ。こんな街じゃ起こりようはねぇけど、なんでそんなのが続くのかね」
歯磨きをしてネクタイを締め、髭を剃る。身だしなみをチェック。それで、終わりだ。
突然、俺の耳元をぶーん、と一匹の虫が通過していった。
「うわっ、うっせ」
独特のあの音に俺は顔をしかめる。俺はあの音が大嫌いだった。夏場、何度耳元にやってくる蚊に目を覚まさせられたことか。俺の住んでいるアパートはボロだから、隙間からよく虫が侵入する。
とか考えている間に、俺の腕に蚊が止まっていた。
そうっと手を蚊に近づけて、一気に潰す。一瞬だ。腕には蚊の血がわずかにこびりつき、死骸がへばり付いた。
俺はそれを軽く払うと、今日のプレゼンで使う資料が鞄の中に入っているか確認し、靴を履いた。そして俺はドアノブに手をかける。
ドアを開けた。いつものように。
その、はずだった。
どん、という音が外から聞こえてきた。
――ん?
それから立て続けに、連続して。隣の部屋あたりから何度も何度も扉を叩くような音が。
どんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどん……
――なんだよこれ、気味が悪い。
隣の部屋に住んでいるのは仲のいい若い夫婦。だから、痴話喧嘩ではない。だったら、一体……
ばきっ、という何かが拉げる強烈な音の後、悲鳴。そしてその後、何かが地面に落ちる音が聞こえてきた。
明らかに異常だ。
――なんだよ、これ。
俺はドアノブを捻って外に飛び出した。そしてすぐに、右の隣の部屋を見る。
――は……?
俺は一瞬、状況が理解できなかった。
隣の部屋からはドアがなくなっていた。無理矢理こじ開けられた証拠に、残った金具がねじ切られている。
鈍い音が数度聞こえた後、女性の鋭い悲鳴が聞こえてくる。その声に気づかされ、俺は隣の部屋に駆け出した。
――なんだってんだよ……ッ!
俺の額には汗が浮かんでいる。さっきからずっとだ。心臓はマラソンをやった時みたいに暴れまわっているし、脚が震えているのが自分でもわかる。
呼吸が荒くなって、瞳孔は見開かれて、手が若干震えて。
ドアがあったその場所に、俺は立った。
そこで、見たものは。
――冗談だろ……
なんといえばいいのだろう。
背中からは二つの巨大な突起。爬虫類のようなざらついた肌に、巨大な両腕。鋭い爪からは赤い血が滴り落ちていた。脚は太く、そして全身が薄い茶色をしている。長い尾もあった。
そいつが今、振り向いた。
イグアナみたいな顔をしている。けど、どこか人間みたいな顔もしていた。体自体がそうだ。人間と爬虫類の中間みたいな、見たことのない生き物。いや、俺はどこかでこいつと同じような生き物を見たことがある。そうだ、あれは映画だ。ホラーテイストのB級映画。つまり、作り物の生き物。それにそっくりだった。
――なんだよ、あいつ。
泣き声が聞こえてくる。女の人の声だ。この家に住んでいる女の人。助けなきゃ、と思い俺は脚を踏み出した。
その瞬間、びちゃ、と俺の足が水溜りを踏む。いや、違う。水溜りじゃない。これは血だ。俺の足元には首から上と、そして四肢を失った男の人の体があった。その傷口から血がどくどくと流れ出して、血溜まりを作ってるんだ。
この人は殺されたんだ。目の前の、あいつに。
そこから俺は一歩も動けなかった。
俺から視線をそらして女性にその爬虫類の顔を見せたそいつは、そのまま、女の人を食った。
食ったんだ。
――え……
悲鳴と血飛沫が吹き上がって、鮮明な血が天上に跡をつけた。ばりぼりと骨が噛み砕かれる音が聞こえて、程なくして悲鳴が途切れる。死んだんだ。頭部を失って四肢を食われて、ああ、もうそこに転がっているのは胴体の原形すら止めていない内臓のあふれ出す何かで……
俺は、吐いた。
朝食を丸ごと、足元に転がる死体の上にぶちまけた。血と吐瀉物がいりまじって、さらにひどい臭いが辺りに充満して、嗚咽を何度も漏らして、そして俺は気がついたんだ。
あの化け物の動きが、こっちを見ていることに。
そいつの牙には肉がこびり付いて、その顎からは血が滴り落ちて、そしてぎらつた目は俺を見ていて。
化け物が、足をわずかに動かした。
――あ、あぁ……
気がついたら駆け出していた。アパートの廊下を無我夢中で走って、階段を下る。足は震えてろくに力が入らなかったが、そんなことはどうでもいい。
外は地獄だった。
どこかしこからも悲鳴が聞こえてくる。住宅街には人と死体があふれていた。その現況は後ろから俺を追ってくる化け物と同じ、気味の悪い爬虫類。人を追い回し、捕獲し、そして喰らう。周囲に漂う血と死臭。また吐き気がこみ上げてくる。でも足を止めるわけにはいかない。足を止めたら、俺は、間違いなく死ぬ。
――嫌だ、そんなの。
かん高い悲鳴のような泣き声を上げながら、あいつが俺を追ってくる。アスファルトの地面を強く蹴って、でかい足音で確実に俺を追ってくる。俺は入り組んだ住宅街の中を逃げ回った。
息が上がる。苦しい。
どの道にもあいつらがいた。だがどいつもこいつも俺以外の獲物に夢中で、目もくれない。俺を追ってくるのはアパートにいたあいつだけだ。町にいる人間はは化け物から逃げ回っている奴か、食われている奴か、食われた奴だけ。
足音が聞こえてくる。さっきよりも音は小さくなっていた。距離が開いている。
――このまま、このまま逃げ切れれば……ッ!
いつの間にか、俺は大通りに出ていた。いつもは車の行き交うそこも、今日だけは違う。
いくつもの車が衝突を繰り返していた。そして、停車した車の窓ガラスを叩き割ってあいつらがその中にいる人々を喰らっていく。爆発を起こしている車もあった。泣き声と悲鳴が響きわたる。クラクションが沢山鳴っている。そして人が食われて死んで、その死体が無造作に放置されて。
――ともかく、ここも駄目だ。どこか安全な場所に……
不意に、俺の背中に激痛が走った。
痛い。熱い。焼ける。背中が焼けるみたいに熱い。
――なんだこれ。一体、何が。
そこまで考えて、俺は気づいた。
俺の足は、止まっていたんだ。街の光景に目を奪われて、つっ立っていたんだ。
俺はそのままうつぶせに倒れた。
あいつがやってくる。爬虫類の足が見えた。
――嘘だろ。
動け。俺。立て、俺。そうじゃなきゃ死ぬ。終わる。わかってる。わかってんだよ。でも肺が。呼吸が。立てないんだ。ふざけんな。立て。やばい。じゃないと。ほら。俺のすぐ前に。あいつの顔が。でかい牙が。そこに詰まっている肉が。ああ。やばい。立て。立て。立て。立てよ!
次の瞬間、俺の目の前が真っ赤に染まった。
――死んだ?
いや、違う。俺は生きている。まだ、うん、大丈夫だ。心臓がうるさいぐらいになっている。大丈夫。でも、なんで?
身体を起こす。立ち上がった。
俺の全身には赤い血が撒き散らされていた。そして近くには倒れているあいつが。その脳天に一つの穴が開いている。そこから血が噴出したんだ。なんだこれ、一体どういうことだ?
その理由はすぐにわかった。
辺りに渇いた音が響き渡る。一回だけではない。二回、三回、四回……そして、一斉に何十回も。
それは、マスクで顔を隠し、防護服に身を包んだ男達の手に持ったマシンガンからの銃声だった。そいつらがわらわらとやってくる。そして、あの怪物たちを撃ち殺していった。
一発でその脳天を捉えて、一撃で殺して。そうだ、助けだ。これは味方なんだ。
――助かった、のか?
俺はわけのわからないまま、それでも胸をなでおろした。やった。生きてる。死んでない。
あらかた怪物たちがいなくなった。声が聞こえない。
防護服に身を包んだ男達があいつらを倒して隊長と思わしき男の周りに集まっていく。その隊長のうちの一人が、俺に気がついた。指を差して防護服を着た男の一人になにやら言っていた。
男の中の一人が、俺のほうへ駆け寄ってくる。もしかして、助けてこい、とか言われたんだろうか。
――大丈夫です。
声が出なかった。
――あれ、なんでだ?
どうしてだろう。声が出ない。さっきまでずっと口を開いていたつもりだったのに。もしかして、ずっと俺、声が出てなかった?
などと考えていたら。
――え?
男が俺の前で、マシンガンを構えた。
――ちょっと待ってくださいよ。
でも俺の喉から声は出なくて。
撃たれる? なんで? そんな、おかしい。
俺はいつもどおりの朝を過ごして。いつもどおりの通勤をして。いつもどおりの仕事をして。いつもどおりの毎日を送って。いつもどおりのはずだったのに。なんで。どうして。嫌だ。助けて。撃たないで。頼む。お願いだから。俺にいつもどおりを返してくれ――
そして。
渇いた音が、響いた。
俺の身体が吹っ飛ぶ。ヤバイ。痛い。なんだよこれ。どこが? 頭だ。頭を撃たれたんだ。
――あれ、なんで俺、生きてるんだ……
頭を撃たれたらまずかった気がする。なんでまずいんだっけ? よくわからない。
手足が痙攣しだした。暴れてる。何かが身体の中で蠢いてる。なんだこれ。違う。俺の身体が、俺の身体がおかしくなってるんだ。
呼吸がままならなくなる。ままならない? ままならないってないだ? 息ができない。なんで? 息? 息ってなんだ? よくわからない。これはなんだ。身体が変わってる気がする。やばい。俺の手足が、あの化け物みたいになっていく。なんだよこれ。わけわからない。こんな身体、爬虫類みたいな身体、俺のものじゃない。うん? 爬虫類? 身体ってなんだ? 頭が回らない。頭って言葉もよくわからなくなってきた。どうしたんだ、俺。オレ? オレッテナンダッタッケ……ワカラナイワカラナイワカラナイ……
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朝起きたら、近所の野良猫がうるさかった。隣の家のばあさんが、毎日エサをやっている野良猫だ。けど、しばらくすると静かになった。
今日は火曜日。まだ火曜日だ。高校が休みになるまでは、今日を入れてあと五日もある。
「あぁ、眠い……」
僕は背伸びして布団から身体を起こす。その直後。
ぶーん、と嫌な音が俺の耳元を通り抜けた。蚊だ。
しかもそいつは僕の腕に止まった。しとめてやる。
そうっと手を近づけて、そいつを潰した。
リビングに行くと、父さんが新聞を読んでいた。見出しは遠くの県であったらしい、テロの話題。
――テロかぁ。
あれ。
独り言を呟いたつもりだったのに、声に出なかった。まあ、本当に小さな声でしか言ったつもりはないし、掠れた声しか出なかったのかも。
まあ僕は、いつもどおり学校に行くだけだし。
そう、いつもどおりに……
了