君の守る世界 菫国編―3―
何も知らずに生きていけば、
何も見ないで生きていければ、
人はどれほど幸せでいられるのだろう。
傷つかずにいられるのだろう。
それでもきっと……。
人は何かを知らずにはいられないし、何かを見ていなければいられないのだろう。
*****
晴れ渡る、澄み切った蒼穹。
それでも冬の風は冷たく、暖かな日差しがあっても身体の震えは止まない。
そんな中、寒々しい木々の間をまさに疾風の如く走り抜ける影があった。
舗装されていない道を走る事で起きる風。
乾燥した白い土が煙のように巻き上がる。
その煙を切り裂くように砂埃の中から現れたのは、逞しい身体をした茶色の馬。
名馬と呼ばれるに相応しいその姿、思わずため息が出る。
「しっかり掴まって下さい! スピードを上げます!」
「うん!」
馬の背中には巧みに手綱を操る少年と、その少年にしっかりとしがみ付く少女がいた。
少女の方は大きめの毛布で身体を包み、どのような風貌なのかははっきりしなかったが、発せられた声音から少女である事はわかった。
一方馬を操る少年の方は身を隠していないので、漆黒の髪と薄い紅色の瞳という特徴がよく見えた。
名馬の持ち主の割には、少々地味な身なりをしている。
「急がなければなりませんね! そろそろ執事様が手紙を見つけていられるでしょうし」
そう言って強く鞭を打つと、馬は走る速度を上げていく。
「……高畑、怒ってるだろうな」
吹き付ける風で聞き取りにくい声が、辛うじて少年に届いた。
「まぁ、仕方ありませんね。それを覚悟でご命令されたのでしょう?」
あまりの風の強さで毛布の間から一房、薄茶色の長い髪が現れた。
「そうだね、変な事言ってごめん奏」
少女、輝夜奈は顔を上げると毛布の間から少年、奏を覗いた。
「謝らないで下さい、姫様」
姫と呼ばれ、拗ねた顔をして毛布を深く被り直す。
「そっちもだよ。折角変装してるんだから姫って呼ばないで」
「あっすみません」
いつもの癖に思わず苦笑いするしかない。
同じような事が前にもあったのを思い出した。
その時から全く進歩していないらしい。
「私は……私たちは真実を見に行くんだから失敗は出来ないんだよ」
急に硬い声になった輝夜奈を見て、苦しい気持ちになる。
輝夜奈の命令を受けたすぐ後、奏たちは部隊からこっそりと抜け出した。
最低限必要なものを素早く準備し、いとも簡単に脱出した手腕はやはり、さすが神守という所だろうか。
そもそも日頃の行いのためか、何をしていても誰一人として怪しむものはいなかったのだけれど。
信頼されているという事だろうか。
もしそうならば、奏は今からその信頼を裏切る事になる。
そう思うと胸が苦しかった。
「でも……俺はやらなければならない」
自らを奮い立たせるように言い聞かせた。
そして二人は最後に、事態に気付いた執事が混乱しないように、と手紙を残してきた。
それを書いたのは輝夜奈だった。
書いている時の背中を見ていて気付いた事がある。
それは、あの時輝夜奈が命令したのは、奏を守るためでもあったという事。
今からしようとしている事は、どう考えても重罪に値する。
神守という立場を剥奪されるのは目に見えていた。
その上、他国を回る際に取り決められていた約束を破るのだから、これは国交問題にまで発展しかねない。
それこそ奏の首だけで済めばいい方だ。
だからこそ輝夜奈は命令したのだ。
確かに、命令をする事で逆らえないようにする、という目的もあったのだろう。
だが同時に、これによって奏の責任は無くなる様なものだ。
責任は全て輝夜奈自らが背負うつもりらしい。
彼女の決意の固さを感じて、妙な緊張が走る。
失敗は出来ない、抜け出せる機会は一度きり。
これを逃せば二度とそんな機会は廻ってこないだろう。
「見つかるまでに行かないと!!」
後ろで奏に掴まっている輝夜奈を気遣いながらも、ぐんぐんとスピードを上げていく。
目的地は馬車の窓から、ずっと遠くに見えていた煙の立ち上がっていた場所。
煙が昇るという事は、人がそこにいるという事だ。
しばらく道なりに進んでいた進路を急に変えて、奏は横道にある森の中へと飛び込んだ。
「きゃぁぁっっ!? ど、どうしたの、急に!」
急な方向転換で思わず振り落とされそうになった輝夜奈は悲鳴を上げた。
その森の中は荒れていて、どう考えても進みにくい。
「多分道なりに進んでもあの場所には辿り着けないでしょう。それに急がないと目印の煙が消えてしまいます! この森を煙を目印に抜けたほうがいいんです!」
森の中ならば、もし万が一でも部隊の者たちが追い掛けてきても見つかりにくい。
「ここから直線距離はさほど無いと思います! しばらくの我慢ですのでお許しを!」
背中で輝夜奈が頷いた気配がした。
もし菫国が自国の状態を隠したいのであれば、見られて困る場所への道など作らないだろう。
そう考えたら、どちらにせよこの方が確実である。
輝夜奈の身の丈程ありそうな雑草を掻き分け、前に進んでいく。
(帰り道の目印をつけておいた方がいいな……)
ただでさえ初めて訪れた場所なのに、これほど方向感覚を失ってしまいそうな場所だと目印がなければ迷いそうだ。
鬱蒼と生い茂る草木。
冬であるはずなのに、ここまで緑に溢れていると季節感が狂う。
まるでこの森でさえ、何かを隠すために在るみたいだった。
緑の葉の間から見える煙がさっきより随分近くなった。
「……輝夜奈様」
「様もいらない」
ぽん、と軽く背中を叩かれる。
「これくらいはお許しください」
これでもかなり譲歩しているつもりだった。
しばらく唸った声がした後、お許しが出た。
「で、なぁに?」
「……辛かったら……いや、辛くなったらいつでも仰せ下さい」
「…………ありがと」
こつんと、頭がもたげられて背中に温もりを感じた。
「私、頑張りたいの」
小さな小さな呟きだった。
「逃げたくない」
草を掻き分ける音で掻き消されるような。
「何も知らないのは嫌だよ」
しがみついていた腕が微かに震えた。
「だから、大丈夫」
「……はい」
余計な事を言ったかもしれないと、少し後悔する。
輝夜奈がせっかく頑張ろうとしているのに、水を差してしまったかもしれない。
ふとそんな考えが頭を過った。
「でも」
そこへまた声が掛かる。
「辛くてどうしようもなくなったら、その時は……助けてね」
「! ……はい!」
きっと彼女は大丈夫だ。
奏に頼らなくても乗り越えられる。
何となく淋しい気もしたけれど、これはこれでいいんだと結論づけた。
手綱を操る事に神経を注ぎ始める。
しばらく煙のある方角に進んでいると、ふいに草木が途切れる場所に着く。
「あっ……輝夜奈様、あそこに村らしきものが……!」
さぁ、見にいこう。
世界の真実を――……。
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