揺るがない決意と君の名前
朝の光が窓から差し込み、優しく一人の少年を、夢からすくいあげる。
少年がゆっくりと目を覚ますと、視界いっぱいに、冷たい色の天井が見えた。
それは日に照らされ、少し白みがかった灰色をしていた。
少年の、まだ覚醒しきってない頭は自分が誰なのかさえ、忘れていた。
ゆっくりと少年は自身に問い掛ける。自分は誰だ、と。
(……俺は……奏だ。父さんと母さんの間に生まれて、10年経つ)
そう、これが奏の日課。朝になると、忘れてしまっている自分を思い出す事が。
そして、それで奏の一日は始まる。
最初は怖かった。奏自身、何故自分を忘れてしまうのか、全く理解できなかったから。
けれど、すぐに思い出せるし、“自分”という人間を、ちゃんと考える事が出来るので、もぅ寝呆けている事にして深く考えないようにしていた。
「まぁ考えたって、きっと答えは見つからないだろうけど」
一人苦笑しながら、布団から出て、カレンダーで日付を確認する。
(俺の誕生日から約3ヵ月、試験が今日やっと行なわれるんだな)
両親に試験の話をした時は二人とも驚いて、すぐに言葉は出ない様子だった。
でも、しばらく経つと、二人は奏を祝福してくれた。
まるで、自分の事のように喜んでくれている両親。奏は幸せだった。
「本当お前は史上最年少記録が好きだよなぁ、おい。この俺の息子が、こんな優秀だなんて、信じられないな、あっでもまだお前は小さいんだから無理するなよっ。いじめられたりなんかしたら、俺に言えよ」
そう言いながら、父である拓は奏を軽がると肩車する。
「あら、あなたなんかより奏の方が強いから大丈夫よ。おめでとう、奏。よく頑張ったね」
春歌の言葉に、拓は少し落ち込む。
「まぁ、でも本当によくやったよ」
二人が誉めてくれたのが嬉しくて、奏はにやけた。
しかし、それをすぐに引き締め、しっかり前を見据えた目をして、両親に決意を明かす。
「俺は絶対『神守』になるから!今は無理でも、いつか……絶対にっ」
その言葉に両親は、また驚いた。
無理もない、神守とは竜虎族最強の称号だ。
世界一を誇る戦士である、その一族の頂点に立つ者に与えられた、王女の一番近くで、彼女を守る権利を得た者の事なのだ。
「……ふふっ、立派になったわね、奏。母さんはお前を信じているわ。絶対に遣り遂げなさい」
いたって呑気な春歌に、拓はため息をつきながらも、奏に笑顔で言った。
「俺も、奏なら出来ると信じているよ」
「ありがとう、俺、頑張るよ!」
そんな心底嬉しそうな息子の様子に拓は驚いた。
「奏、お前、前まであんなに剣の修業を嫌がっていたのに、急にどうしたんだ?」
奏が楽しそうに何かをしている事は、いい事だと、そう考えていた拓でさえも、驚くような変わりぶり、思わず奏に、何があったのかを聞いてしまった。
すると問われた奏は、父に床に下ろしてもらって、真直ぐに両親を見た。
その薄い紅色の瞳に光を宿らせて、にこりと笑う。
「…答えが見つかったんだ。俺は自分の意志で姫様を守ると決めた。母さんに言われたからじゃない。俺の中で、どこかが、そうしなければいけないのを知っているって気付いたんだ。だから、もう迷わない。ただ、それだけだよ」
春歌も拓も、同じ事を考えていた。
(何時の間に、この子はこんなに成長していたんだろう)
しっかりした口調も、顔つきも、まだ幼さは残るが、それはもう大人のものだった。
そして何よりも、心に秘める意志の強さ。
その純粋な思いは、きっと何にも屈しない。
この成長ぶりを喜ぶべきなのだろう、しかし二人は、奏の早すぎる成長を少し淋しく感じた。
それでも二人には、奏を送り出してやる他はなかった。
「まさか…こんなに早く、親元を離れる事になるなんてね……」
淋しそうな春歌の様子に、今度は奏が驚いた。
「母さん、まだ受かった訳じゃ……」
慌てて自分を心配する奏を、春歌は心から愛しく思う。
(あなたはきっと受かるわ、奏。だってあのお師匠様が受かる見込みのない弟子を、出場年令にも達していない少年を、試験に推薦して出す訳がないでしょう…?)
知らない間に大人びた奏を見て、春歌は急に奏との別れを実感してしまった。
分かっている…奏があんな事を言っていても、本当は落ちて帰ってくるつもりは、全くないという事に。
そんな淋しそうな顔が崩れない春歌を見ていたら、何故か奏まで淋しそうな顔になった。
(だめね…私…。自分の子供にまで、こんな顔させて…。)
春歌が言ったのだ、お前は姫様を、王女を守るために生まれてきたのだ、と。
本当に春歌は、これがこの子の運命と感じていた。嘘ではない。
だから、奏に剣を修業させたのだ。
いつか、息子が何も言わなくても、目指し始めるのは分かっていたから。
なら、何でも早めの方が…と思い、今までやらせてきた。
しかし、まさか、それがこんなにも早く親離れする事になろうとは。
春歌は自分が招いた事ながら、運命を呪った。まだ自分は息子を手放したくはない。
けれど、これは春歌の我儘だ。
これで永遠に離れ離れになるわけでもない。
なら、春歌が母として、しなければならない事はたった一つだった。
春歌は意を決し、奏の目線に合わせる為にしゃがむ。
そして、精一杯の笑顔で奏に言った。
「奏、あなたに伝えなければいけない事があるの。…これはいつか、あなたが本気で、自分の道を歩み始めた時、伝えるつもりだった事よ」
その言葉を真剣に聞く奏に、春歌は泣きそうな思いを必死で隠して、続けた。
「あなたの名前、どういう意味があるか…知ってる?」
急にそんな事を問われた奏は、頭の上に、はてなを浮かべる。
「え…奏でる、…とかじゃなくて?」
「確かに、そういう意味もあるみたいだけど、…あなたの名前にはね、“成し遂げる”、って意味があるのよ。」
「!!!」
春歌のその言葉だけで、奏には察しがついた。そして、同時に母の愛情を感じ取る。
拓もそんな意味があるのを知らなかったのか、すごく驚いていた。
「だから…だから…必死に頑張りなさい。名前に負けないように、強くっ……っ!」
最後に耐え切れなくなった春歌は、奏を強く抱き締め、泣き崩れてしまった。
奏はそんな春歌を抱き締め返し、心に誓う。
(必ず成し遂げてみせるから。必ずまた会いにくるから)
拓は、ぽんっと奏の頭に手を置く。見上げると、優しい笑顔で、拓は奏を見ていた。
それだけの事なのに、何故か奏は無性に泣きたくなる。
心のどこかには、まだ両親に甘えたい気持ちがあるのだろう。
けれど、何もかもが既に始まってしまったのだ。
自分の道を見つけてしまったから。
だから奏は、信じて前に進むだけ……。
*****
「奏ーーっ朝ご飯よ!早く食べなくちゃ、試験に間に合わないわ!」
春歌の呼び声で、奏は自分が長い間、思い出に浸っていた事に気付く。
「今行くよ!」
パタパタと音を立て、食卓に向かう。その背中には大きな決意が感じられた。