君の守る世界 無国編―5―
更新大幅に遅れてすみませんでしたm(__)m
最初にこの沈黙に耐えられなくなったヤズラは、居たたまれない思いを抱え、脇目も振らずに部屋を飛び出した。
「ヤズラ中尉!?」
奏の呼び声さえも、もはや彼には届いていなかった。
心臓が激しく脈打つと体中にその音だけが響き、心に焦燥感、罪悪感が襲ってくる。
廊下を走っている間に何人かにぶつかったが、謝罪もそこそこに何かから逃れるように走り続けた。
気が付くと心臓の音ではなく、雨の音が耳に届くようになっていて、そこで初めて自分の体が雨に濡れているのだと気付いた。
やみくもに走っていたヤズラは城門を越えて城の周りに生い茂る森の中でやっと足を止める。
「……もう…だめだ……。」
思わず洩れた弱々しい声は雨音に邪魔され遠くまで響かずに消えていく。
空を仰ぎ、木々の間から見える暗い色を見つめる。
濡れた服や髪が肌にへばりつくが、全く気にならなかった。頬や肩などに落ちてくる雨の雫の感触だけを感じる為に目を閉じる。
脳裏に過るのは先程の光景。
(どうして……耐えられなかったんだ。……叫んだってどうしようもないことなのに。)
自分が一番よくわかっていた。
(あんな事言ったって…余計に惨めになるだけなのに……。)
でも止められなかった。
「これじゃ俺はただ…あいつを傷つけただけじゃねぇか。」
大嫌いだと告げた時の奏の表情が頭に焼き付いて離れない。
薄い紅色を悲しげに揺らして、それでも決して目を逸らさずに真っすぐにヤズラを捕えていた。
どれだけ傷ついたのかが伝わってきて、それがヤズラの中の罪悪心を煽った。
それを自覚した時、その場を逃げ出してしまったのだ。
「最低だな、俺。」
いったいどこまで自分の醜さを痛感しなければならないのだろう。
雨が容赦なくヤズラの体を打ち付ける。
その冷たさが今は逆に有り難かった。
ゆっくりと両手を広げ、天へと向ける。
雨が全てを流してくれるなら本当に何もかもを流してくれればいいのに。
「汚すぎて流れないってか……?」
冷たく悲しい微笑みを浮かべた。
スッと上げていた手を元に戻し、それを見つめながら時間が元に戻ればいいのにと埒もあかない考えを巡らせる。
「このままどこかへ消えるのもいいかもな……。」
あれだけ大声を張り上げたのだから誰か一人は聞いていただろう。
そうなれば事が大きくなるのは目に見えている。
明日から上を向いて廊下を歩けないかもしれない。
誰もが白い目で見てくるかもしれない。
そう思うと、一気に気が滅入っていく。
「どうせ、いつも俺は一人だけどな。」
自嘲しつつ、止まっていた足をあてもなく進め始めた。
一般的な森に比べて木の本数が少ないので普通の森よりは視界が明るいが、天気が悪いのでやはりいつもよりは暗い。
ゆっくりとその中を歩いていると段々と悲しくなっていく。
本当に一人なのだと思い知らされた。
「…………。」
もう言葉は出ない。
雨の音だけが世界を包んでいる中ひたすら前に進んでいくと、とうとう奏の仕事部屋から見えた湖にまで辿り着いた。
木が一切なくなったその場所は森の中よりは明るいが薄暗い光に満ちている。
水際まで歩いていくと、いつもなら周りの木々や山々を映しているはずの湖面も、雨によって乱され鏡のような美しさを感じられなかった。
その場を動かずに想像していたよりも大きな湖をゆっくりと見渡す。
しばらくすると先程よりも雨が激しく降り体に痛みが走るようになったので、近くの木の根に座り、また湖を眺めた。
木の葉のおかげで雨を浴びる事はなくなったが、次第に熱が奪われて体が震え始め、体温を保つために膝を抱えると顔を埋めて目を閉じた。
*****
そうしてから、いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか……。
辺りが天気のせいだけでなく本当に暗くなりかけていた時、ヤズラは自分を呼ぶ声がしたような気がして顔を上げた。
「……空耳?」
自分を探しにくる者などいない。
そう思い、再び顔を埋める。
雨はいつのまにか止んでいた。
「……ラちゅういっ!」
さっきより確かに大きくなった声が耳に届いた。
今度こそ本当に空耳でないことを知ったヤズラは驚いて声がした方を見る。
「この声……。」
耳がおかしくなったのかと思った。
まさかそんなはずはない、と。
なぜなら脳裏に浮かんだその声の持ち主は、先程ヤズラが怒りのままに言葉をぶつけた相手なのだから。
「ヤズラ中尉!!」
決して迎えに来るはずがないのだと……。
「な……んで……。」
しかし考えに反して、目の前に現れたのは、雨の中を探していたのであろう、ずぶ濡れになりながら息を荒げている奏だった…。
「やっと見つけた……。探しましたよ……。」
心臓がゆっくりと、しかし力強く跳ねていく。
目の前の光景は本物なのか、それとも罪から逃れたいという思いが見せる幻影なのか。
もしかしたらまだ夢の中にいるのかもしれないと思った。
「こんな天気の中で夜を過ごしたりなんかしたら体を壊しますよ。」
奏は、そんな何も答えないヤズラに臆する事もなく近づいてきた。
それでこれが現実なのだと頭が理解すると、心にヤズラ自身も分からない感情が芽生えてくる。
「さぁ、帰りましょう……?」
そう言った奏は、以前と変わらない優しい微笑みのままだった。
ヤズラがあんなに悩んで心を傷めていたのに、何事もなかったかのように笑顔で手を差し伸べてくる奏を見て、芽生えた感情が怒りへと変わった。
まるで全く気にしていないかのようで。
汚れのなさを示されているかのようで。
また……苦しくなる。
「どうして……笑えるんだよっ!」
……思いを抑えられなかった。
そんな事はしたくないのに、しなければならないような気がした。
そうでなければ自分が保てない程に。
ヤズラが奏と同じ状況だったなら絶対迎えになんて来ない。
いや、来れないだろう。
なのに何故彼は笑顔で来れたのか。
「俺はお前を嫌いだって言ったのに、どうしてそうやって笑いかけて来れるんだよ!?」
ヤズラは自分でも、先程は理不尽な物言いをしたと思っていた。
それなのに奏は怒ってこないどころか、優しい態度を取ってくる。
それが心苦しくてたまらない。
いっそのこと責めてくれる方がよっぽど楽だ。
雨で冷やされたはずの心はいつしか、また怒りに燃えている。
「……。」
けれどそんな怒りを受けても尚、奏の表情は変わらなかった。
それがまた怒りを煽る。
「前々から思ってたが、本当お前って可愛げねぇよな。ガキならガキらしくしてろよ。妙に大人振ったりする所も気に入らなかったんだよな。」
なんと醜悪な言葉を吐いたのだろう。
6歳も年が離れている子供に。
はっとした瞬間に気持ちが冷めて、また罪悪感に襲われた。
何でこうなるとわかっていながら止められないのかと自己嫌悪に陥る。
今度はヤズラの方が言葉を失った。
(何もかもメチャクチャだっっ!)
ギュッと拳を握り締めて俯いていると目の前が真っ暗になっていく。
そんなヤズラを黙って見ていた奏がやっと口を開いた。
「……何も言えませんよ。」
困った表情をして静かに言葉を告げていく。
まるで慎重に、ヤズラを傷つけない言葉を探すかのように。
「確かに言われた事はとても乱暴で、はっきり言ってしまえば辛かったし腹は立ちました。……けど、それ以上にあなたは辛そうな表情をしているから……。」
その言葉に目を見開く。
思ってもみない言葉だった。
「気付いていらっしゃらないかもしれませんが、ずっと泣きそうな顔をなさっていますよ……。」
「!!」
思わずバッと顔に両手を当てた。
それにふと笑みを溢しながら奏は続けていく。
「昔、師に教わりました。悪意のある言葉は凶器になって人を襲うが、その中には時に人に助けを求めている声もあるのだと。そんな風にしか助けを求められない人もいるのだと。」
荒んだ心に染み込むような声だった。
「神守は上に立つ者。ならばそんな風に浴びせられる言葉の中の小さい助けの声もちゃんと聞き分けないといけない。言葉という凶器に曝されて大切な事を見逃してはならないと。それが出来た時、初めて本当に神守になれる。そう言われました。」
薄い紅色の瞳は遠くを見つめていた。
どこかにいるであろう自分の師に思いを馳せているのだろうか。
「俺にはヤズラ中尉の言葉が助けを求めているように聞こえたんです。こんな言い方をしたら、また生意気だと思われるかもしれませんが。」
そう言って頭を掻いた後、視線がヤズラに向けられると、その光を放つ瞳にヤズラが映る。
すると体が石になったかのように動けなくなって、それから目を離せなくなる……。
周りの音が消えて、また二人の間の時が止まったような気がした。
「俺の思い過しなら今のは聞き流して下さい。」
静寂の中、奏の声だけが響いていた。
声が震えそうになるのを必死で抑えて言葉を探す。
「俺は……汚いんだ。」
やっと口から出た言葉は脈略がなく、これでは意味が分からなかっただろう。
それでも奏は黙って聞いてくれていた。
「皆に慕われて、必要とされているお前に嫉妬して、苦しくて……でも誰にも言えなくて……。」
なぜ本人にこんな事を言っているのだと思ったが、一度口が滑りだしたら止まらなかった。
「一人なんだと思い知った。……そうしたらお前との違いを感じて……余計に自分が……嫌いになっ……!」
途中で涙が流れて、それは堪えようにも堪えられなかった。
情けない気持ちと泣きたい気持ちが入り交じって、どうすればいいのか分からない。
手で目を塞ぐと、今までの記憶が甦る。
辛かった事や悲しかった事。
それを全部一人で耐えぬいてきた。
けれどそれはもう限界で、心は悲鳴を上げている。
ふと、もう片方の手に温もりを感じた。
それは自分よりも一回りは小さい奏の手だった。
「話して下さってありがとうございます。」
ヤズラは自分の心が信じられないくらいに震えたのを感じた。
目の前には今までに見たことがない慈愛に満ちた顔があったから……。
奏はその顔のまま、ヤズラの手を引っ張って城へと向かう。
「ヤズラ中尉は汚くなんかないですよ。……ちゃんと自分を見て目を逸らしていない。そりゃぁ俺に言った言葉はひどかったですけどね。」最後の方は冗談めかして言いながら、すっかり暗くなった道を躊躇わずに進んでいく。
その小さい背中は頼もしくさえ感じた。
「それにあなたは一人じゃないです。」
言葉の意味が分からず内心首を傾げていると、遠くに自然のものではない光が見えた。
それを見つけると同時にヤズラの名前を呼ぶ、沢山の声が聞こえてくる。
その状況が示す事態をすぐには信じられなかった。
「嘘だ……そんなはずはない。だって!俺はいつも……!」
一人だったのに。
そう言うはずの言葉は飲み込んでしまった。
振り向いていた奏の顔が、またあの顔だったから。
「皆、知っています。あなたが、人が嫌う仕事や大変な作業も文句を言わずにしている事。」
遠くにあった光が段々と近づいてくる。
「人一倍頑張って仕事を完璧にこなしている事。」
誰にも気付かれていないと思っていた。
「皆あなたに一目於いていて、姿を見かける度に褒め合っていました。」
笑われているのだと思っていた。
「あなたは皆の憧れなんですよ。声をかけるのを躊躇う程に。」
それは今までで一番信じられない言葉だった。
「俺が皆の憧れ…‥? そんな訳がない……。」
思わず鼻で笑うが、奏の目には嘘はなく、どこまでも澄み切っていた。
「隣の花は赤いだけです。自分の花をちゃんと見てください。」
最近勉強して覚えた言葉なんです、と年相応の笑顔を浮かべ、握っていた手をより強く握り直した。
「俺もその憧れている内の一人ですけどね。」
「……!!?」
気付いた時には、城の者たちが持っているのであろうランプや松明の光が大分近くまで来ていた。
「そんなあなたに嫉妬してもらえるなんて、俺も神守冥利につきますよ。」
また冗談めかしながら、奏はヤズラを引っ張り、光へと走りだした。
その前を走る彼の横顔は美しかった。
雨に濡れたはずの髪は、重さを感じさせないくらいに軽やかに舞っている。
森の中を駈けていくと、段々と光が大きくなり始めた。
「ヤズラ中尉!」
奏がヤズラを呼ぶ。
その姿は光を受けて、輝いているように見えた。
「俺はあなたの事好きですよ!」
振り向いて、いたずらに笑った笑顔にじんときた。
(……あぁ、負けた。完全に俺の負け。)
奏は知っている。
ヤズラが彼の事を本気で嫌いと言った訳ではないことを。
本当はヤズラも奏に憧れていたことを。
憧れているからこそ、辿り着けないもどかしさを感じ、いつも目で追う。
けれどつまらない自尊心が邪魔をして、それを認められなかったのだ。
(これはもう、認めないといけないよな。)
実際この手にある温もりを嬉しく感じている自分がいた。
苦笑を浮かべながら、今度はヤズラから手を強く握り返す。
あれほど暗くて悲しく見えた森が、今は明るく優しい光景に見えるようになっていた。
闇はもう終わりを告げた―…。
いつか夜は明け、朝が来る。
光は世界を照らし、人々に出口を指し示す。
温もりは誰かを救い、優しく包み込む。
その温もりを創るのは心であり、言葉である。
きっと誰もがその心に涙する。
その大きさに、その優しさに。
いつか……いつか……その心に気付けたら、変われるかもしれない。
無くしてから大切だと気付くのではなくて、無くす前に大切なものを見つけられるように。
自分だけの花を見つけられるように。
いかがでしたでしょうか??描いていなかった四年の間にはこんな事がありました。ちょっと設定を加えると奏は本当に悪意しかない言葉を浴びせられた事もあったので、ヤズラの言葉の中の微妙な感情に気付きました。一件落着しましたが、まだ無国編は続きますが、お付き合い下さると嬉しいです。