君の守る世界 無国編―1―
無国というのは、どこの国の領地でもない場所である事を意味しています。
真っ暗な闇が広がっていた。
届く限りに手を伸ばしても、そこには何もない。
そのうち、手を伸ばしているのだという感覚さえなくなっていく。
(ここは…どこだ…?)
声に出しているはずなのに、それは音にならない。
だた静かな闇がそこにある。
(俺は……どこにいる……?)
もう一度声に出してみるが、それは体の中で響くだけで、やはり音にはならなかった。
そしてふいに自分の中で疑問が湧く。
(俺………?)
底知れぬ恐怖が胸のうちに湧いてくるのを感じた。
(…俺…って誰だ…?)
その疑問が自分の中に溢れた瞬間、全てがいっきに分からなくなっていく。
ここはどこなのか。
自分は誰なのか。
そして…
ここに自分は存在しているのか。
「俺は誰なんだ―……!!?」
*****
「!!!」
奏はがばっと起き上がり、布団を払いのける。
額には嫌な汗が滲んでいた。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…。」
荒い息を整えながら、奏は汗を拭い、寝巻きから制服に着替える。
そして一緒に寝ていた部下達を起こさないようにテントから出て行った。
今度こそ本当に香椎国を出発した奏たちは、次の国へとむかっている途中だった。
次の目的地の菫国までは長い道のりであるため、途中にある村や町に泊まったり、それがなければキャンプをしている。
そして、昨日は近くに村や町が無かったため、キャンプをした。
「………。」
もうすぐ冬となる季節の夜明け前は、かなり冷え込む。
木々に囲まれた辺りは、まだ夜中のようだった。
奏の体もガチガチと震えている。
しかし、その震えが寒さだけのせいではない事を奏は知っていた。
それは、身の内に溢れてくる恐怖。
逃げ出したくなるような気分だった。
「…ここ何年かは見なかったのに…。」
ぽつりと呟いた言葉は木々に吸い込まれるように消えていく。
先程から、奏は自分の名前を口にしてみるが、何故だか、それが自分の名前だとは思えない。
奏がこんな風になってしまったのは、ある夢が原因だった。
それは“自分を忘れる”夢。
今までも何度か見てきたが、神守になって以来、余り見なくなったはずなのに、何故か最近、またよく見るようになった。
そしてそれは、小さい頃に見た時には、一度も感じた事のなかった恐怖が襲ってくる夢だった。
その夢のせいで、奏は闇へと飲み込まれていくような、二度と戻って来れないような気にさせられる。
「なんなんだ…。」
奏は自問する。分かるはずもないが、そうせざるを得ない。
そうでもしないと、心が落ち着かないのだ。
奏が空を見上げると、空に太陽の光が差し始める。吐く息が白くなった。
温かい光を見ていると、奏の心は、ほっとする。
「…奏?」
奏の後ろから、小さな声が聞こえてきた。
「どうしたの…?」
その声が近くなったと思ったら、ふわりと優しい匂いが、奏の鼻を掠める。
そして、空に差す光と同じような、温かい光を宿した瞳を持つ少女が奏の目の前に現れた。
その彼女の反対の瞳は、穏やかな淡い光を放っている。
「………。」
しかし、奏は彼女の問いに答えない。ただ、じっと彼女の顔を見る。
「えっと…あの…。」
彼女はそんな様子の奏に困っていた。
「…姫…様…?」
確かめるように呟くと、彼女、輝夜奈が笑顔になる。
「なぁに?…って私が質問してるんだけど。」
笑顔だったのに、今度は怒った顔になった。
くるくると表情が変わる彼女に、奏は思わず頬が緩むのを感じる。
「…ねぇ、本当にどうしたの?顔、真っ青よ。」
奏の異変を感じている輝夜奈は、心配そうに奏の顔を覗き込む。奏はまたそれに答えない。
いや、答えられなかったのだ。上手く言葉にできなかった。
尋常ではないと感じた輝夜奈は、奏が自分から口を開くのをただ黙って待っていた。
冷たい風が2人の間をすり抜けていく。それは冬の匂いがした。
「……奏…。」
輝夜奈が静かに名前を呼ぶ。その瞬間に奏は目を見開いた。
「もう一度…!」
「えっ?!」
急に奏が顔色を変えて輝夜奈に詰め寄ったので、輝夜奈が驚く。
そんな彼女の肩を掴み、奏は頼んだ。
「もう一度名前を…。」
急な要求に、首を傾げながらも輝夜奈は奏という彼の名前を呼ぶ。
「奏?」
「もう一度。」
不思議に思いながらも、もう一度、奏の願いに答える。
「奏…?」
名前を呼びながら奏の表情をちゃんと見るために、近付いて、すっかり自分より背が高くなった彼を見上げる。
するとそこには、迷子になった子供のような目をした奏がいた。
こんな様子の奏を、見たことがない輝夜奈は、驚きが隠せない。
そして、奏にこんな顔をさせたままにしたくなくて、今度は頼まれてもいないのに、何度も彼の名前を呼んだ。しっかりと彼を見つめたままで。
「奏……奏………奏…………。」
輝夜奈の呼び声だけに集中するように、奏は目を閉じる。
「奏。」
輝夜奈が本当に心を込めて奏と呼んだ。
すると、奏はゆっくりと閉じていた目を開ける。
「…ありがとうございます。」
そう呟いた奏の顔はいつもの優しい笑顔に戻っていた。
その様子に、輝夜奈も安心する。
奏は輝夜奈に名前を呼ばれることで、“奏”が本当に自分の名前であると感じられ、呼ばれる度に心に湧いてくる恐怖や不安が徐々に消えていき、今は全く恐怖がなくなっていた。
「よかった…。いつもの奏に戻ったみたい。でも、本当にどうしたの…って、奏っ!!」
輝夜奈が今度こそちゃんと奏に話を聞こうとしていたら、安心して気を抜いた奏が、急に意識を失い、後ろに倒れた。
輝夜奈は慌てて奏に駆け寄り、奏の顔に触れる。
「熱い…!だっ、誰か来てーーっ!!奏がぁっ!」
テントの方に助けを求めて大声で叫ぶ。それはもう悲鳴に近い声だった。
その声を聞き付けて、見張り番の者たちや、寝ていた者たちが慌てて駆け付けてきた。
「奏様っ!」
「神守殿っ?!」
倒れている奏を見て、みんな顔を強ばらせている。
「熱があるみたいなのっ!誰か急いでテントに運んで!」
輝夜奈が集まってきた部隊の者たちへ指示をすると、わかりました、と部隊の中でも一番力持ちな男が、奏を抱き上げ、急いでテントに運んだ。
「多分、最近香椎国で流行していた悪性の風邪を引かれたのだと思います。」
部隊の中に配属されている医者が、奏を診察しながら、心配している輝夜奈に病状を説明する。
「これは我々の持っている薬では効果がありません。」
男が言いにくそうに、重苦しく言った。
その言葉で輝夜奈の顔は真っ青になる。
「そんな…っ!それじゃぁどうするの?!」
「私と数名の護衛で今すぐ香椎国へと戻り、急いで処方薬を貰ってきます。」
医者は真剣な顔つきで輝夜奈に告げる。
「それなら私たちも香椎国へ戻って…。」
「今、奏様を連れて戻るのは危険です。絶対安静が必要ですから、動かしてはならない。…だから私たちだけで行きます。」
医療の専門家がそう言い切ったので、彼の言葉に従うを得なかった。
「けれど、せめて先生はここに残って奏を診ていて。奏の容体が、急に悪くなったりするかもしれないし。」
輝夜奈が医者の白衣を掴み、頼んだ。
「私もそうしたいのは山々ですが、今から貰いに行く薬は、用途の仕方によっては大変危険である為に、扱うのは医師免許を持つものしか許されていないのです。だから私が行かねば薬が貰えません。」
「…残された道は、それしかないのね。」
俯きながら輝夜奈は悲しそうに言った。
医者は輝夜奈の不安を察し、背を屈めて、輝夜奈の顔を見る。
「王女様…私を信じて下さい。必ず早く帰ってきますから。」
医者の力強い言葉に、輝夜奈は顔を上げる。
「それに奏様の事も。彼は史上最年少で竜虎族の神守になった少年。他の人とは比べものにならない程、体力があるから大丈夫なはずです。」
努めて明るく言う医者に、輝夜奈はうん、と頷く。
危険で、一刻も早く急ぐ必要があるのは輝夜奈にも分かっていたが、彼が輝夜奈の不安な気持ちを少しでも楽にしようとしてくれているのも、分かっていた。
「どうか…お願いします、先生。奏を助けて。」
輝夜奈は真っすぐに彼を見た。
「わかりました。」
医者はしっかりと答え、すぐに香椎国へ向かう準備を始めた。