処刑前夜、悪役令嬢は牢番に一杯の紅茶を振る舞った
「紅茶を一杯、いかがですか?」
明日の朝には処刑されるというのに、私は牢番へそう尋ねた。
鉄格子の向こうに立つ若い牢番は、すぐには答えなかった。
王城の地下牢は暗い。
通路に立つ燭台も、牢の中に置かれた一本の蝋燭も、顔を見分けるには頼りない明るさしかなかった。
牢番は深くかぶった帽子の下に影を落とし、口元を灰色の布で覆っている。
「……俺に、ですか?」
押し殺した低い声だった。
私はティーポットへ目を落とした。
「ほかに誰がいるのです。こちらには私とあなたしかおりませんわ」
牢内にあるのは、粗末な寝台と小さな机。
そして、銀の盆に載せられたティーポットと二つのカップだけだった。
死刑囚への最後の慈悲として、望む食事を一つだけ用意すると告げられた。
私は食事ではなく、紅茶を頼んだ。
茶葉は東方から取り寄せた上等なものではない。王城の厨房で日常的に使われている、ごく普通の茶葉だ。
それでも、最後に口にするものとしては十分だった。
「毒が入っているかもしれません」
牢番が言った。
「あら」
「王太子毒殺未遂で処刑される方から、飲み物を受け取るのは不用心でしょう」
「もっともですわね」
私は自分のカップへ紅茶を注いだ。
手首にはめられた鎖が、机の縁へ触れて音を立てる。
今朝まで侯爵令嬢だった手には、ひどく似合わない音だった。
一口飲む。
ベルガモットの香りが、冷え切った牢内に広がった。
「これで安心なさった?」
「自分だけ、毒の入っていないほうを飲んだ可能性があります」
「慎重な方ですこと」
私は二つのカップを並べ、その中身を互いに移し替えた。
もう一度、自分のカップから飲む。
「これなら?」
「そこまでして、俺に飲ませたいんですか」
「せっかくカップが二つございますもの」
牢番が銀の盆を見る。
「なぜ二つ頼んだんです?」
「一人で飲む紅茶は、寂しいでしょう?」
その答えを聞いた牢番は、右手を握った。
親指で、人差し指の付け根をゆっくりとなぞっている。
私は視線をカップへ戻した。
「それに、明日の朝には使う者がいなくなります。残しても仕方ありませんわ」
「そんな言い方をするものではありません」
「どのように言えばよろしいの?」
「分かりません。ただ……そんなに簡単に、自分が死ぬ話をしないでください」
牢番の声に、わずかな震えが混じった。
私は紅茶をもう一口飲んだ。
「牢番に向いておりませんわね」
「今日が初めてなので」
「あら。初日から死刑囚の見張りとは、お気の毒に」
「ええ。本当に」
返事が少しだけ苦かった。
私は二つ目のカップを持ち、鉄格子の隙間から差し出した。
「どうぞ」
牢番は受け取らない。
「私が怖い?」
「……いいえ」
「でしたら、お受け取りなさい。腕が疲れます」
ようやく牢番が手を伸ばした。
指先が一瞬触れる。
冷たい手だった。
牢番はカップを口元の布の内側へ運び、一口飲んだ。
すぐに眉間へしわを寄せる。
「渋い」
「あら」
「苦くて、渋いです」
「処刑前の令嬢が振る舞った最後の一杯に、ずいぶん正直な感想ですこと」
「すみません」
「謝るくらいでしたら、最初からおいしいと言えばよろしいのに」
「あなたに嘘をつくのは、もう……」
牢番は言葉を切った。
私はカップの水面を見つめる。
「もう?」
「いえ。何でもありません」
「そうですか」
問い詰めることはしなかった。
言葉には、口にした者が最後まで責任を持たなければならない。
途中で飲み込んだ言葉まで、こちらから暴く必要はない。
「茶葉を蒸らしすぎましたわね。考え事をしていたものですから」
「明日、処刑されるからですか」
ずいぶん直接的な質問だった。
「そうですわね」
今度は笑えなかった。
明日の朝。
鐘が六つ鳴るころ、私は王都の中央広場へ連れ出される。
そこで王太子毒殺未遂の罪により処刑されることになっている。
もちろん、私は毒など盛っていない。
むしろ王太子が口をつけようとした杯を取り上げ、その命を救ったのは私だった。
けれど、杯から毒が見つかった。
私の部屋からは、同じ毒薬の瓶が発見された。
王太子の婚約者だった私には、動機があるとされた。
王太子が聖女セシリアへ心を移し、私との婚約解消を望んでいたからだ。
嫉妬に狂った悪役令嬢。
聖女を憎み、王太子を独占しようとした侯爵令嬢。
人々が望む筋書きに、私はあまりにも都合がよかった。
「怖くないんですか」
牢番が尋ねた。
「怖いですわ」
私は素直に答えた。
「逃げ出したいほどに」
「そうは見えません」
「泣き叫べば、扉を開けてくださる?」
「それはできません」
「でしたら、紅茶を飲むほうが有意義でしょう」
牢番は自分のカップを強く握った。
「誰も、助けに来ないんですか」
「父は領地におります。知らせが届くころには、すべて終わっているでしょう」
「侯爵家の人間なら、王都にもいるはずだ」
先ほどより強い口調だった。
「ええ」
「使用人も、護衛もいたでしょう。なぜ誰もここにいない」
「私が近づかないよう命じました」
「なぜ?」
「私に味方をすれば、同罪と疑われますから」
「あなたが死ねば、その人たちは悲しむ」
「そうでしょうね」
「分かっているのに遠ざけたんですか」
「私の処刑に巻き込まれて死ぬよりは、悲しむほうがましですわ」
口にすると、胸の奥が痛んだ。
侍女のマリーは、きっと泣くだろう。
護衛騎士のガストンは、自分が王都を離れていたことを責めるだろう。
老執事のハンスは、私が子供のころ好きだった焼き菓子を、二度と作らなくなるかもしれない。
それでも、生きていてくれる。
私の死に巻き込まれず、生き続けてくれる。
それでいい。
「優しいんですね」
牢番が、ぽつりと言った。
「私が?」
「自分より、使用人の命を心配している」
「主人として当然です」
「王都では、あなたを悪女だと言う者ばかりです」
「評判というものは、事実より足が速いのですわ」
「腹は立ちませんか」
「もちろん立ちます」
私はカップを置いた。
「聖女セシリアを階段から突き落とした。ドレスを破いた。夜会から締め出した。私はずいぶん多くのことをしたらしいですわ」
「していないんですか」
「階段から落ちそうになった彼女の腕をつかんだことならあります。ドレスの裾を踏んでいたので、転ばないよう教えたことも。夜会で体調を崩した彼女を、別室へ運ばせたこともあります」
「それが、どうして逆の話になる」
「皆、幸福な聖女と意地悪な侯爵令嬢の物語がお好きなのでしょう」
王太子の隣で微笑むセシリアは、誰からも愛されていた。
平民の生まれでありながら、類いまれな聖なる力を持つ少女。
失敗しても素直に謝り、誰にでも笑顔を向けることができる。
対する私は、侯爵家に生まれ、幼いころから王太子妃となるための教育を受けてきた。
礼儀を学び、歴史を学び、法を学んだ。
間違いを指摘しなければならない場面では、相手が誰であろうと指摘した。
笑うべきでない場所では笑わなかった。
立場によって誰かを特別扱いすることもしなかった。
そんな私より、セシリアのほうが愛されるのは当然だ。
だからといって、ありもしない罪まで背負いたくはなかったけれど。
「聖女を嫌っているんですか」
「嫌ってはいません」
「婚約者を奪われたのに?」
「人は物ではありません。奪われるという表現は不適切です」
「では、王太子を恨んでいる?」
私は答える前に、紅茶を一口飲んだ。
すっかり冷めていた。
「少しだけ」
「少し?」
「毒を飲みかけたあの方を助けたのに、私の言葉を信じてくださらなかったことは、恨んでおります」
「少しで済むのですか」
「今夜のところは」
「もっと怒っていい」
「あなたが怒ることではありませんわ」
「それでも」
牢番の右手が、また人差し指の付け根へ触れた。
「それでも、俺なら許せない」
「ご自分のことのようにおっしゃるのね」
牢番の手が止まった。
私は穏やかに微笑んだ。
「正義感の強い方なのでしょう」
「……そうではありません」
「では、怒りっぽい?」
「そうでもありません」
「困りましたわね。では、どのような方なのかしら」
「俺が誰なのか、気になりますか」
ついに、その問いが来た。
私は牢番の帽子の下へ視線を向けた。
薄暗い地下牢。
灰で汚された頬。
口元を覆う布。
普段とは違う、押し殺した声。
随分と念入りな支度だった。
「いいえ」
私は答えた。
牢番が息をのむ。
「気にならない?」
「名乗りたくなったら、名乗るでしょう」
「もし、名乗る資格がないと思っていたら?」
「資格の有無まで、私が決めることではありません」
「あなたを傷つけた人間だったとしても?」
「なおさら、ご本人の口から聞くべきですわ」
牢番は黙った。
私は空になりかけたティーポットを傾け、自分のカップへ最後の紅茶を注いだ。
「ただし、一つだけ忠告いたします」
「何ですか」
「名乗るのが遅すぎれば、聞いてくださる相手がいなくなることもあります」
天井から雫が落ちた。
水音が、冷たい地下牢へ響く。
「明日の朝には、私もいなくなりますから」
牢番がうつむいた。
帽子の影の中に、表情が隠れる。
「あなたは、王太子に会ったら何を言うつもりですか」
「もう会うことはないでしょう」
「もしも、会えたら」
「そうですわね」
私は少し考えるふりをした。
答えは、ずっと前から決まっていた。
「私の部屋から毒が見つかったことも、証人がそろっていたことも事実です。立場ある方として、疑うこと自体は仕方がなかったのでしょう」
「では、許す?」
「いいえ」
牢番が顔を上げた。
「疑うことと、話を聞かないことは別です。あの方は一度も、私へ直接お尋ねにならなかった」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「長く婚約者であった私より、周囲が用意した証拠を信じた。私がどのような人間なのか、最後まで知ろうとはなさらなかった」
「……すまない」
牢番の口から、かすれた言葉が落ちた。
「なぜ、あなたが謝るのです?」
私は首を傾げてみせた。
牢番は返事をしなかった。
「謝る相手を、お間違えになっておりますわ」
「では、どうすればいい」
「何がです?」
「取り返しのつかない間違いをしたとき、どう謝ればいい」
「謝罪のお作法なら、貴族学院で習わなかったの?」
「形ではなく、中身の話です」
必死な声だった。
私は鉄格子の向こうにいる牢番を見つめた。
「謝罪とは、自分が楽になるためにするものではありません」
「では、何のために?」
「傷つけた相手へ、判断を返すためです」
「判断?」
「許すか。許さないか。もう一度話すか。二度と会わないか。それを選ぶ権利を、傷つけた相手へお返しするのです」
「許されなくても?」
「当然ですわ」
「怖くないんですか」
「怖いでしょうね」
私は残り少ない紅茶へ口をつけた。
「それでも、何も言わずに相手を失うより、よろしいのではなくて?」
牢番が立ち上がった。
急な動きで、紅茶がカップから少しこぼれる。
「確かめなければならないことがあります」
「今から?」
「はい」
「私の見張りはどうなさるの?」
「すぐに戻ります」
「職務放棄ですわよ」
「初日なので、大目に見てください」
「あまり向いていないようですから、転職をおすすめいたします」
「そうします」
牢番は鉄格子へ近づいた。
何かを言おうとして、やめる。
結局、空になったカップを持ったまま、背を向けた。
「そのカップは?」
「借ります」
「借りたものは、返すものですわ」
「必ず返します」
「明日の朝までに?」
牢番の足が止まった。
「必ず」
今度の返事は、押し殺した声ではなかった。
ほんの一言だけ。
けれど、聞き間違えるはずのない声だった。
私は何も言わず、その背中を見送った。
◇
牢番は戻ってこなかった。
夜が深くなったころ、代わりに現れたのは無言の兵士二人と、鍵束を持った年老いた看守だった。
「時間だ」
「処刑は、鐘が六つ鳴ってからでは?」
「予定が変わった」
私は窓のない地下牢を見回した。
外の時刻は分からない。
けれど、夜明けにはまだ早い。
「予定が変わったのではなく、予定を知られたのですね」
「黙れ」
牢の扉が開く。
兵士は私の手首へ、先ほどまでより太い鎖をかけた。
「少しだけ、お待ちいただけます?」
「何だ」
「カップを一つ、返していただいておりませんの」
「来い」
兵士に腕を引かれる。
私は抵抗しなかった。
刑が早められた理由は明らかだった。
誰かが、証拠を調べ直すことを恐れている。
誰かが、夜が明ける前に私の口を閉ざしたがっている。
あの牢番が何を確かめに行ったのか。
間に合うのか。
それを考えないようにしながら、地下牢を出た。
連れていかれたのは、王都の中央広場ではなかった。
王城の裏手にある、小さな刑場だった。
立ち会う民衆もいない。
聖職者さえいない。
用意されていたのは、顔を隠した兵士と、黒い衣の執行人だけだった。
これは正式な処刑ではない。
口封じだ。
「ひざまずけ」
私は命じられたとおり、冷たい石畳へ膝をついた。
「最後に、何か言い残すことは」
執行人が尋ねる。
「今さら、私の言葉を聞いてくださるの?」
「決まりだ」
「でしたら、一つだけ」
私は背筋を伸ばした。
「今夜、私と紅茶を飲んでくださった方へ、ありがとうとお伝えください」
「何の話だ」
「借りたカップは、きちんと返すようにとも」
「地下牢に見張りは置いていない」
兵士たちが不審そうに顔を見合わせた。
私は小さく笑った。
「存じております」
執行人の動きが止まる。
「何?」
「正式な牢番ではないことくらい、最初から」
「ならば誰だ」
「ご本人が名乗っておりませんもの。私の口から明かすことではありませんわ」
「ふざけるな」
執行人が片手を上げる。
兵士が剣を抜いた。
私は目を閉じなかった。
海を見てみたかった。
幼いころ、書物でしか知らなかった、地面の先まで空が続くという場所。
昼の光を砕く青い波。
夜空の星を運ぶ黒い海。
いつか一人でも構わないから見てみたいと思っていた。
それだけが、少し心残りだった。
兵士の剣が持ち上がる。
「その処刑を中止しろ!」
聞き慣れた声が刑場へ響いた。
今度は、隠されていない声だった。
門が開き、王家の近衛騎士が雪崩れ込んでくる。
先頭に立つ人物は、もう牢番の制服を着ていなかった。
濃紺の正装。
金糸で刺繍された王家の紋章。
朝の薄明かりを受ける銀色の髪。
レオンハルト王太子。
昨夜、名もない牢番として私の紅茶を飲んだ方が、今度は自分の名と身分を背負い、私の前へ現れた。
「王太子殿下!」
執行人が声を上げる。
「なぜ、ここへ」
「近衛騎士団へ通達する。クラリス・レシュタールの身柄を保護せよ。抵抗する者は反逆者とみなす!」
兵士たちが武器を構える。
しかし、近衛騎士に囲まれると、一人、また一人と剣を捨てた。
手首の鎖が外される。
私はゆっくりと立ち上がった。
レオンハルトは私の前まで歩いてくると、息を切らしたまま尋ねた。
「無事か?」
「ええ」
「間に合った……」
「ぎりぎりでしたわね」
「すまない」
「謝罪は、事情を伺ってからにいたしましょう」
レオンハルトはうなずき、背後を振り返った。
近衛騎士が一人の男を引き出す。
王宮薬師長だった。
「君の部屋で見つかった毒薬の瓶を調べ直した。底の封蝋に、王宮薬師長の管理印が残っていた」
「簡単に消せる印では?」
「本来はな。だが、君が毒杯を取り上げたとき、杯の中身が瓶へ跳ねたらしい。毒に反応した封蝋だけが変色していた」
「それで?」
「薬師長を問い詰めた。自白した」
レオンハルトの母方の伯父は、王太子と聖女セシリアを結婚させ、聖女の力を自派閥へ取り込もうとしていた。
私との婚約が邪魔だった。
そこで王太子の毒殺未遂を装い、私を犯人に仕立て上げた。
王太子には恩を売り、私は排除する。
処刑が早められたのは、薬師長が調べられていると知った伯父の一派が、私を先に消そうとしたためだった。
「セシリアは?」
「何も知らなかった。彼女も利用されていた」
「そうですか」
胸の奥に、小さな安堵が広がった。
セシリアまで敵であったなら、私はもう誰を信じればいいのか分からなくなるところだった。
「君の無実は、正式な裁判で明らかにする」
「お願いいたします」
レオンハルトは剣を近衛騎士へ預けた。
そして、罪人の衣を着た私の前で片膝をついた。
「君は私の命を救った。それなのに、私は君を信じなかった」
「殿下」
「証拠があると言われ、自分で確かめようともしなかった。君が冷たい人間だという噂を、心のどこかで信じていた」
王太子が、公の場で頭を下げる。
「婚約者でありながら、君がどのような人間なのかを知ろうとしなかった。申し訳なかった」
昨夜、私自身が語った言葉が胸によみがえる。
謝罪とは、自分が楽になるためにするものではない。
傷つけた相手へ、判断を返すためにするもの。
「許してほしいとは言わない」
レオンハルトが顔を上げた。
「婚約を戻してほしいとも言わない。ただ、君の未来を奪おうとしたことを、謝らせてほしい」
私はすぐには答えなかった。
許せるかと聞かれれば、まだ分からない。
無実の私を処刑台へ送った人だ。
長く婚約者でありながら、私より周囲の噂を信じた人だ。
一杯の紅茶で、すべてを水に流すことなどできない。
「謝罪は受け取ります」
私は答えた。
「ですが、許すかどうかは、まだ決められません」
「ああ」
「婚約も白紙のままでお願いいたします」
「分かった」
「それから」
「まだ何か?」
「借りたものがございますでしょう?」
レオンハルトは一瞬きょとんとし、それから正装の胸元へ手を入れた。
取り出したのは、小さな銀のカップだった。
「持っていらしたの?」
「必ず返すと言った」
「走っていらしたのに、落とさなかったのですね」
「何度も胸元を確かめた」
「その時間があれば、もう少し早く到着できたのでは?」
「……すまない」
「謝罪ばかりですわね」
「今の私には、ほかにできることがない」
私は銀のカップを受け取った。
縁に小さな傷がついている。
昨夜、牢番が立ち上がったときに鉄格子へぶつけたのだろう。
レオンハルトが私の顔を見た。
「聞いてもいいだろうか」
「何でしょう?」
「いつ、気づいた?」
「何に?」
「昨夜の牢番が、私だったことに」
周囲の近衛騎士たちが息をのむ。
私は傷のついたカップを、朝の光へかざした。
「最初の一言からですわ」
レオンハルトが目を見開いた。
「声は変えた」
「変えていることが分かりました」
「顔も隠していた」
「殿下は罪悪感を抱くと、右の親指で人差し指の付け根をこすります」
レオンハルトが自分の右手を見る。
「それに、紅茶を飲んだとき、眉間へしわを寄せる癖も変わっておりませんでした」
「では、すべて知っていて」
「ええ」
「なぜ、言わなかった?」
「殿下が名乗らなかったからです」
「それだけか?」
「王太子として私にお会いになるのでしたら、正装でいらっしゃればよかった。名を隠し、牢番としていらしたのなら、私もそのつもりでお相手しようと思いました」
私はカップを胸元へ戻した。
「それに、殿下が何を知りたくていらしたのか、分かっておりましたから」
「何を?」
「王都中が悪女と呼ぶクラリス・レシュタールが、本当はどのような人間なのか」
レオンハルトは答えられなかった。
「殿下は、最後までご自分の目で確かめなかったことを後悔なさった。だから牢番に変装し、私が誰も見ていない場所で、どのように振る舞うのか確かめにいらした」
「すまない」
「私は、そのことにも傷つきました」
レオンハルトの表情が固まる。
「最後の最後まで、私を信じて会いに来たのではない。私が信じるに値する人間かどうか、確かめるためにいらしたのでしょう?」
「ああ」
レオンハルトは否定しなかった。
「最初は、そうだった」
「正直ですこと」
「だが、君と話して分かった。間違っていたのは君ではない。私だ」
「だから、証拠を調べ直した?」
「ああ」
「私が牢番へ紅茶を出さなければ?」
レオンハルトは沈黙した。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
「殿下」
「はい」
「命を救ってくださったことには感謝いたします。けれど、それで昨夜のことまで美しい思い出にはなりません」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ。君が何も責めなかったからといって、傷ついていなかったことにはならない」
私はレオンハルトを見つめた。
少なくとも今は、私の言葉を聞いている。
言葉の奥にあるものまで、知ろうとしている。
それでも失った信頼は、すぐには戻らない。
今は、それでよかった。
「いつか、もっとおいしい紅茶をお出ししますわ」
レオンハルトが目を見開いた。
「それは」
「許すという意味ではありません」
「分かっている」
「婚約を戻すという意味でもございません」
「分かっている」
「一杯の紅茶だけです」
私は銀のカップについた傷を指先でなぞった。
「昨夜の紅茶は、蒸らしすぎてしまいましたから」
レオンハルトはしばらく黙り、それから小さく笑った。
「次は、最初に名乗る」
「そうなさってください」
「私はレオンハルト。職業は王太子。牢番は昨夜限りで辞めた」
「存じておりますわ」
「君は?」
「クラリス。職業は、元悪役令嬢といったところでしょうか」
「元?」
「無実を明らかにしてくださるのでしょう?」
「ああ。必ず」
「でしたら、今夜限りで返上いたします」
東の空から、朝の光が差し込んだ。
刑場の石畳を照らし、私の足元まで伸びてくる。
もう二度と見ることはないと思っていた朝だった。
◇
半年後。
私は海辺の小さな町に屋敷を借りた。
王都へ戻らなかったのは、誰かを恨んでいたからではない。
十八年間、王太子妃になるために生きてきた。
これから何をしたいのか、自分で選ぶ時間が欲しかったのだ。
初めて見た海は、幼いころに本で読んだとおりだった。
地面の先まで空が続き、昼には光が砕け、夜には黒い波が星を運んでくる。
私は屋敷の一階を、小さな茶館にした。
貴族も平民も関係ない。
一人で来た客にも、できるだけ声をかける。
一人で飲む紅茶は寂しいと、私は知っているからだ。
ある雨の日。
閉店間際の扉が開いた。
濡れた外套を着た旅人が、一人で入ってくる。
深くかぶった帽子。
簡素な旅装。
しかし今回は、口元を布で隠してはいなかった。
「私はレオンハルト」
旅人は、扉の前で真っ先に名乗った。
「職業は王太子。今だけは休暇中の旅人だ」
「存じておりますわ」
「まだ紅茶は飲めるだろうか」
「申し訳ございません。本日はもう閉店です」
「そうか」
「ですが、一杯だけでしたら」
私は奥の棚から、二つの銀のカップを取り出した。
一つには、小さな傷がついている。
レオンハルトは、そのカップを見ても何も言わなかった。
この半年、毎月一通ずつ手紙が届いた。
返事を求める内容ではない。
王宮で何が起きたか。
冤罪を生んだ裁判制度をどう変えたか。
私に罪を着せた者たちを、法に従ってどう裁いたか。
セシリアが聖女という立場を利用されないよう、どのような制度を整えたか。
そして最後には必ず、自分が何を誤り、次はどう正そうとしたのかが書かれていた。
私は一度も返事を出さなかった。
それでも、すべての手紙を読んだ。
「渋くないものを頼む」
「お客様がお話を邪魔しなければ、蒸らしすぎることはありませんわ」
「では、黙っていよう」
「それでは、少し寂しいですわね」
レオンハルトは困ったように笑った。
私はポットへ湯を注いだ。
茶葉が開くのを待つ。
急がない。
苦くならないように。
渋くならないように。
けれど、味が薄くなりすぎないように。
「手紙は届いていただろうか」
「ええ」
「読んでくれた?」
「すべて」
「そうか」
レオンハルトは、それ以上尋ねなかった。
許してくれとも、戻ってきてくれとも言わない。
私は紅茶を二つのカップへ注いだ。
琥珀色の水面から、柔らかな香りが立ち上る。
一つをレオンハルトの前へ置く。
「どうぞ」
レオンハルトが紅茶を口にした。
眉間にしわが寄る。
「また渋かったかしら?」
「いや」
「では、なぜそのようなお顔を?」
「癖が出た」
レオンハルトは右の親指で、人差し指の付け根をこすりかけた。
しかし、すぐに手を止める。
「緊張している」
「正直ですこと」
「今度は、最初から正直にすると決めてきた」
「それで?」
「紅茶は、とてもおいしい」
「そう」
「それから、この半年、君へ会いたかった」
私は自分のカップを持ち上げた。
「一杯の紅茶に、多くを期待しすぎですわ」
「分かっている」
「私はまだ、すべてを許したわけではありません」
「ああ」
「王都へ戻るとも、婚約を結び直すとも申しません」
「それも分かっている」
「それでも、こちらへ?」
「選ぶ権利は君にある。だが、もう一度話したいと伝える責任は、私にあると思った」
どうやら、半年前の言葉を覚えていたらしい。
謝罪とは、相手へ判断を返すためにするもの。
許すか。
許さないか。
もう一度話すか。
二度と会わないか。
その選択は、私の手元にある。
「でしたら、私からも一つだけ」
「何だろう」
「次にいらっしゃるときは、事前に知らせてください」
レオンハルトが瞬きをする。
「次が、あるのか?」
「今日の焼き菓子は、もう売り切れてしまいましたから」
「それは」
「紅茶だけでは、口寂しいでしょう?」
レオンハルトは何かを言いかけた。
けれど、期待を言葉にすることはせず、静かにうなずいた。
「ああ。次は手紙を送る」
「返事がなくても?」
「突然訪ねるよりはいい」
「学習なさいましたのね」
「半年かかった」
「まだ半年です」
「そうだった」
レオンハルトは紅茶をもう一口飲んだ。
私も同じようにカップへ口をつける。
窓の外では、雨が海を細かくたたいている。
鉄格子を挟んでいた夜とは違い、今は同じ机についている。
あの夜、私は最初から牢番の正体を知っていた。
それでも知らないふりをしたのは、レオンハルトが王太子の身分を捨てなければ、私へ本心を尋ねられなかったからだ。
そして私もまた、彼が名を隠していなければ、あれほど素直に恨みを口にできなかったかもしれない。
だからといって、あの夜が必要だったとは思わない。
もっと早く話せていればよかった。
互いに役割を脱がなくても、言葉を交わせていればよかった。
失った信頼を取り戻すには、まだ多くの時間が必要だろう。
一度の救出でも。
半年分の手紙でも。
二杯の紅茶でも足りない。
それでも、三杯目のために手紙を送ってもよいと、私は伝えた。
今は、それで十分だった。




