↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

処刑前夜、悪役令嬢は牢番に一杯の紅茶を振る舞った

作者: 石崎さかな
掲載日:2026/08/29

「紅茶を一杯、いかがですか?」


 明日の朝には処刑されるというのに、私は牢番へそう尋ねた。


 鉄格子の向こうに立つ若い牢番は、すぐには答えなかった。


 王城の地下牢は暗い。


 通路に立つ燭台も、牢の中に置かれた一本の蝋燭も、顔を見分けるには頼りない明るさしかなかった。


 牢番は深くかぶった帽子の下に影を落とし、口元を灰色の布で覆っている。


「……俺に、ですか?」


 押し殺した低い声だった。


 私はティーポットへ目を落とした。


「ほかに誰がいるのです。こちらには私とあなたしかおりませんわ」


 牢内にあるのは、粗末な寝台と小さな机。


 そして、銀の盆に載せられたティーポットと二つのカップだけだった。


 死刑囚への最後の慈悲として、望む食事を一つだけ用意すると告げられた。


 私は食事ではなく、紅茶を頼んだ。


 茶葉は東方から取り寄せた上等なものではない。王城の厨房で日常的に使われている、ごく普通の茶葉だ。


 それでも、最後に口にするものとしては十分だった。


「毒が入っているかもしれません」


 牢番が言った。


「あら」


「王太子毒殺未遂で処刑される方から、飲み物を受け取るのは不用心でしょう」


「もっともですわね」


 私は自分のカップへ紅茶を注いだ。


 手首にはめられた鎖が、机の縁へ触れて音を立てる。


 今朝まで侯爵令嬢だった手には、ひどく似合わない音だった。


 一口飲む。


 ベルガモットの香りが、冷え切った牢内に広がった。


「これで安心なさった?」


「自分だけ、毒の入っていないほうを飲んだ可能性があります」


「慎重な方ですこと」


 私は二つのカップを並べ、その中身を互いに移し替えた。


 もう一度、自分のカップから飲む。


「これなら?」


「そこまでして、俺に飲ませたいんですか」


「せっかくカップが二つございますもの」


 牢番が銀の盆を見る。


「なぜ二つ頼んだんです?」


「一人で飲む紅茶は、寂しいでしょう?」


 その答えを聞いた牢番は、右手を握った。


 親指で、人差し指の付け根をゆっくりとなぞっている。


 私は視線をカップへ戻した。


「それに、明日の朝には使う者がいなくなります。残しても仕方ありませんわ」


「そんな言い方をするものではありません」


「どのように言えばよろしいの?」


「分かりません。ただ……そんなに簡単に、自分が死ぬ話をしないでください」


 牢番の声に、わずかな震えが混じった。


 私は紅茶をもう一口飲んだ。


「牢番に向いておりませんわね」


「今日が初めてなので」


「あら。初日から死刑囚の見張りとは、お気の毒に」


「ええ。本当に」


 返事が少しだけ苦かった。


 私は二つ目のカップを持ち、鉄格子の隙間から差し出した。


「どうぞ」


 牢番は受け取らない。


「私が怖い?」


「……いいえ」


「でしたら、お受け取りなさい。腕が疲れます」


 ようやく牢番が手を伸ばした。


 指先が一瞬触れる。


 冷たい手だった。


 牢番はカップを口元の布の内側へ運び、一口飲んだ。


 すぐに眉間へしわを寄せる。


「渋い」


「あら」


「苦くて、渋いです」


「処刑前の令嬢が振る舞った最後の一杯に、ずいぶん正直な感想ですこと」


「すみません」


「謝るくらいでしたら、最初からおいしいと言えばよろしいのに」


「あなたに嘘をつくのは、もう……」


 牢番は言葉を切った。


 私はカップの水面を見つめる。


「もう?」


「いえ。何でもありません」


「そうですか」


 問い詰めることはしなかった。


 言葉には、口にした者が最後まで責任を持たなければならない。


 途中で飲み込んだ言葉まで、こちらから暴く必要はない。


「茶葉を蒸らしすぎましたわね。考え事をしていたものですから」


「明日、処刑されるからですか」


 ずいぶん直接的な質問だった。


「そうですわね」


 今度は笑えなかった。


 明日の朝。


 鐘が六つ鳴るころ、私は王都の中央広場へ連れ出される。


 そこで王太子毒殺未遂の罪により処刑されることになっている。


 もちろん、私は毒など盛っていない。


 むしろ王太子が口をつけようとした杯を取り上げ、その命を救ったのは私だった。


 けれど、杯から毒が見つかった。


 私の部屋からは、同じ毒薬の瓶が発見された。


 王太子の婚約者だった私には、動機があるとされた。


 王太子が聖女セシリアへ心を移し、私との婚約解消を望んでいたからだ。


 嫉妬に狂った悪役令嬢。


 聖女を憎み、王太子を独占しようとした侯爵令嬢。


 人々が望む筋書きに、私はあまりにも都合がよかった。


「怖くないんですか」


 牢番が尋ねた。


「怖いですわ」


 私は素直に答えた。


「逃げ出したいほどに」


「そうは見えません」


「泣き叫べば、扉を開けてくださる?」


「それはできません」


「でしたら、紅茶を飲むほうが有意義でしょう」


 牢番は自分のカップを強く握った。


「誰も、助けに来ないんですか」


「父は領地におります。知らせが届くころには、すべて終わっているでしょう」


「侯爵家の人間なら、王都にもいるはずだ」


 先ほどより強い口調だった。


「ええ」


「使用人も、護衛もいたでしょう。なぜ誰もここにいない」


「私が近づかないよう命じました」


「なぜ?」


「私に味方をすれば、同罪と疑われますから」


「あなたが死ねば、その人たちは悲しむ」


「そうでしょうね」


「分かっているのに遠ざけたんですか」


「私の処刑に巻き込まれて死ぬよりは、悲しむほうがましですわ」


 口にすると、胸の奥が痛んだ。


 侍女のマリーは、きっと泣くだろう。


 護衛騎士のガストンは、自分が王都を離れていたことを責めるだろう。


 老執事のハンスは、私が子供のころ好きだった焼き菓子を、二度と作らなくなるかもしれない。


 それでも、生きていてくれる。


 私の死に巻き込まれず、生き続けてくれる。


 それでいい。


「優しいんですね」


 牢番が、ぽつりと言った。


「私が?」


「自分より、使用人の命を心配している」


「主人として当然です」


「王都では、あなたを悪女だと言う者ばかりです」


「評判というものは、事実より足が速いのですわ」


「腹は立ちませんか」


「もちろん立ちます」


 私はカップを置いた。


「聖女セシリアを階段から突き落とした。ドレスを破いた。夜会から締め出した。私はずいぶん多くのことをしたらしいですわ」


「していないんですか」


「階段から落ちそうになった彼女の腕をつかんだことならあります。ドレスの裾を踏んでいたので、転ばないよう教えたことも。夜会で体調を崩した彼女を、別室へ運ばせたこともあります」


「それが、どうして逆の話になる」


「皆、幸福な聖女と意地悪な侯爵令嬢の物語がお好きなのでしょう」


 王太子の隣で微笑むセシリアは、誰からも愛されていた。


 平民の生まれでありながら、類いまれな聖なる力を持つ少女。


 失敗しても素直に謝り、誰にでも笑顔を向けることができる。


 対する私は、侯爵家に生まれ、幼いころから王太子妃となるための教育を受けてきた。


 礼儀を学び、歴史を学び、法を学んだ。


 間違いを指摘しなければならない場面では、相手が誰であろうと指摘した。


 笑うべきでない場所では笑わなかった。


 立場によって誰かを特別扱いすることもしなかった。


 そんな私より、セシリアのほうが愛されるのは当然だ。


 だからといって、ありもしない罪まで背負いたくはなかったけれど。


「聖女を嫌っているんですか」


「嫌ってはいません」


「婚約者を奪われたのに?」


「人は物ではありません。奪われるという表現は不適切です」


「では、王太子を恨んでいる?」


 私は答える前に、紅茶を一口飲んだ。


 すっかり冷めていた。


「少しだけ」


「少し?」


「毒を飲みかけたあの方を助けたのに、私の言葉を信じてくださらなかったことは、恨んでおります」


「少しで済むのですか」


「今夜のところは」


「もっと怒っていい」


「あなたが怒ることではありませんわ」


「それでも」


 牢番の右手が、また人差し指の付け根へ触れた。


「それでも、俺なら許せない」


「ご自分のことのようにおっしゃるのね」


 牢番の手が止まった。


 私は穏やかに微笑んだ。


「正義感の強い方なのでしょう」


「……そうではありません」


「では、怒りっぽい?」


「そうでもありません」


「困りましたわね。では、どのような方なのかしら」


「俺が誰なのか、気になりますか」


 ついに、その問いが来た。


 私は牢番の帽子の下へ視線を向けた。


 薄暗い地下牢。


 灰で汚された頬。


 口元を覆う布。


 普段とは違う、押し殺した声。


 随分と念入りな支度だった。


「いいえ」


 私は答えた。


 牢番が息をのむ。


「気にならない?」


「名乗りたくなったら、名乗るでしょう」


「もし、名乗る資格がないと思っていたら?」


「資格の有無まで、私が決めることではありません」


「あなたを傷つけた人間だったとしても?」


「なおさら、ご本人の口から聞くべきですわ」


 牢番は黙った。


 私は空になりかけたティーポットを傾け、自分のカップへ最後の紅茶を注いだ。


「ただし、一つだけ忠告いたします」


「何ですか」


「名乗るのが遅すぎれば、聞いてくださる相手がいなくなることもあります」


 天井から雫が落ちた。


 水音が、冷たい地下牢へ響く。


「明日の朝には、私もいなくなりますから」


 牢番がうつむいた。


 帽子の影の中に、表情が隠れる。


「あなたは、王太子に会ったら何を言うつもりですか」


「もう会うことはないでしょう」


「もしも、会えたら」


「そうですわね」


 私は少し考えるふりをした。


 答えは、ずっと前から決まっていた。


「私の部屋から毒が見つかったことも、証人がそろっていたことも事実です。立場ある方として、疑うこと自体は仕方がなかったのでしょう」


「では、許す?」


「いいえ」


 牢番が顔を上げた。


「疑うことと、話を聞かないことは別です。あの方は一度も、私へ直接お尋ねにならなかった」


 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「長く婚約者であった私より、周囲が用意した証拠を信じた。私がどのような人間なのか、最後まで知ろうとはなさらなかった」


「……すまない」


 牢番の口から、かすれた言葉が落ちた。


「なぜ、あなたが謝るのです?」


 私は首を傾げてみせた。


 牢番は返事をしなかった。


「謝る相手を、お間違えになっておりますわ」


「では、どうすればいい」


「何がです?」


「取り返しのつかない間違いをしたとき、どう謝ればいい」


「謝罪のお作法なら、貴族学院で習わなかったの?」


「形ではなく、中身の話です」


 必死な声だった。


 私は鉄格子の向こうにいる牢番を見つめた。


「謝罪とは、自分が楽になるためにするものではありません」


「では、何のために?」


「傷つけた相手へ、判断を返すためです」


「判断?」


「許すか。許さないか。もう一度話すか。二度と会わないか。それを選ぶ権利を、傷つけた相手へお返しするのです」


「許されなくても?」


「当然ですわ」


「怖くないんですか」


「怖いでしょうね」


 私は残り少ない紅茶へ口をつけた。


「それでも、何も言わずに相手を失うより、よろしいのではなくて?」


 牢番が立ち上がった。


 急な動きで、紅茶がカップから少しこぼれる。


「確かめなければならないことがあります」


「今から?」


「はい」


「私の見張りはどうなさるの?」


「すぐに戻ります」


「職務放棄ですわよ」


「初日なので、大目に見てください」


「あまり向いていないようですから、転職をおすすめいたします」


「そうします」


 牢番は鉄格子へ近づいた。


 何かを言おうとして、やめる。


 結局、空になったカップを持ったまま、背を向けた。


「そのカップは?」


「借ります」


「借りたものは、返すものですわ」


「必ず返します」


「明日の朝までに?」


 牢番の足が止まった。


「必ず」


 今度の返事は、押し殺した声ではなかった。


 ほんの一言だけ。


 けれど、聞き間違えるはずのない声だった。


 私は何も言わず、その背中を見送った。


     ◇


 牢番は戻ってこなかった。


 夜が深くなったころ、代わりに現れたのは無言の兵士二人と、鍵束を持った年老いた看守だった。


「時間だ」


「処刑は、鐘が六つ鳴ってからでは?」


「予定が変わった」


 私は窓のない地下牢を見回した。


 外の時刻は分からない。


 けれど、夜明けにはまだ早い。


「予定が変わったのではなく、予定を知られたのですね」


「黙れ」


 牢の扉が開く。


 兵士は私の手首へ、先ほどまでより太い鎖をかけた。


「少しだけ、お待ちいただけます?」


「何だ」


「カップを一つ、返していただいておりませんの」


「来い」


 兵士に腕を引かれる。


 私は抵抗しなかった。


 刑が早められた理由は明らかだった。


 誰かが、証拠を調べ直すことを恐れている。


 誰かが、夜が明ける前に私の口を閉ざしたがっている。


 あの牢番が何を確かめに行ったのか。


 間に合うのか。


 それを考えないようにしながら、地下牢を出た。


 連れていかれたのは、王都の中央広場ではなかった。


 王城の裏手にある、小さな刑場だった。


 立ち会う民衆もいない。


 聖職者さえいない。


 用意されていたのは、顔を隠した兵士と、黒い衣の執行人だけだった。


 これは正式な処刑ではない。


 口封じだ。


「ひざまずけ」


 私は命じられたとおり、冷たい石畳へ膝をついた。


「最後に、何か言い残すことは」


 執行人が尋ねる。


「今さら、私の言葉を聞いてくださるの?」


「決まりだ」


「でしたら、一つだけ」


 私は背筋を伸ばした。


「今夜、私と紅茶を飲んでくださった方へ、ありがとうとお伝えください」


「何の話だ」


「借りたカップは、きちんと返すようにとも」


「地下牢に見張りは置いていない」


 兵士たちが不審そうに顔を見合わせた。


 私は小さく笑った。


「存じております」


 執行人の動きが止まる。


「何?」


「正式な牢番ではないことくらい、最初から」


「ならば誰だ」


「ご本人が名乗っておりませんもの。私の口から明かすことではありませんわ」


「ふざけるな」


 執行人が片手を上げる。


 兵士が剣を抜いた。


 私は目を閉じなかった。


 海を見てみたかった。


 幼いころ、書物でしか知らなかった、地面の先まで空が続くという場所。


 昼の光を砕く青い波。


 夜空の星を運ぶ黒い海。


 いつか一人でも構わないから見てみたいと思っていた。


 それだけが、少し心残りだった。


 兵士の剣が持ち上がる。


「その処刑を中止しろ!」


 聞き慣れた声が刑場へ響いた。


 今度は、隠されていない声だった。


 門が開き、王家の近衛騎士が雪崩れ込んでくる。


 先頭に立つ人物は、もう牢番の制服を着ていなかった。


 濃紺の正装。


 金糸で刺繍された王家の紋章。


 朝の薄明かりを受ける銀色の髪。


 レオンハルト王太子。


 昨夜、名もない牢番として私の紅茶を飲んだ方が、今度は自分の名と身分を背負い、私の前へ現れた。


「王太子殿下!」


 執行人が声を上げる。


「なぜ、ここへ」


「近衛騎士団へ通達する。クラリス・レシュタールの身柄を保護せよ。抵抗する者は反逆者とみなす!」


 兵士たちが武器を構える。


 しかし、近衛騎士に囲まれると、一人、また一人と剣を捨てた。


 手首の鎖が外される。


 私はゆっくりと立ち上がった。


 レオンハルトは私の前まで歩いてくると、息を切らしたまま尋ねた。


「無事か?」


「ええ」


「間に合った……」


「ぎりぎりでしたわね」


「すまない」


「謝罪は、事情を伺ってからにいたしましょう」


 レオンハルトはうなずき、背後を振り返った。


 近衛騎士が一人の男を引き出す。


 王宮薬師長だった。


「君の部屋で見つかった毒薬の瓶を調べ直した。底の封蝋に、王宮薬師長の管理印が残っていた」


「簡単に消せる印では?」


「本来はな。だが、君が毒杯を取り上げたとき、杯の中身が瓶へ跳ねたらしい。毒に反応した封蝋だけが変色していた」


「それで?」


「薬師長を問い詰めた。自白した」


 レオンハルトの母方の伯父は、王太子と聖女セシリアを結婚させ、聖女の力を自派閥へ取り込もうとしていた。


 私との婚約が邪魔だった。


 そこで王太子の毒殺未遂を装い、私を犯人に仕立て上げた。


 王太子には恩を売り、私は排除する。


 処刑が早められたのは、薬師長が調べられていると知った伯父の一派が、私を先に消そうとしたためだった。


「セシリアは?」


「何も知らなかった。彼女も利用されていた」


「そうですか」


 胸の奥に、小さな安堵が広がった。


 セシリアまで敵であったなら、私はもう誰を信じればいいのか分からなくなるところだった。


「君の無実は、正式な裁判で明らかにする」


「お願いいたします」


 レオンハルトは剣を近衛騎士へ預けた。


 そして、罪人の衣を着た私の前で片膝をついた。


「君は私の命を救った。それなのに、私は君を信じなかった」


「殿下」


「証拠があると言われ、自分で確かめようともしなかった。君が冷たい人間だという噂を、心のどこかで信じていた」


 王太子が、公の場で頭を下げる。


「婚約者でありながら、君がどのような人間なのかを知ろうとしなかった。申し訳なかった」


 昨夜、私自身が語った言葉が胸によみがえる。


 謝罪とは、自分が楽になるためにするものではない。


 傷つけた相手へ、判断を返すためにするもの。


「許してほしいとは言わない」


 レオンハルトが顔を上げた。


「婚約を戻してほしいとも言わない。ただ、君の未来を奪おうとしたことを、謝らせてほしい」


 私はすぐには答えなかった。


 許せるかと聞かれれば、まだ分からない。


 無実の私を処刑台へ送った人だ。


 長く婚約者でありながら、私より周囲の噂を信じた人だ。


 一杯の紅茶で、すべてを水に流すことなどできない。


「謝罪は受け取ります」


 私は答えた。


「ですが、許すかどうかは、まだ決められません」


「ああ」


「婚約も白紙のままでお願いいたします」


「分かった」


「それから」


「まだ何か?」


「借りたものがございますでしょう?」


 レオンハルトは一瞬きょとんとし、それから正装の胸元へ手を入れた。


 取り出したのは、小さな銀のカップだった。


「持っていらしたの?」


「必ず返すと言った」


「走っていらしたのに、落とさなかったのですね」


「何度も胸元を確かめた」


「その時間があれば、もう少し早く到着できたのでは?」


「……すまない」


「謝罪ばかりですわね」


「今の私には、ほかにできることがない」


 私は銀のカップを受け取った。


 縁に小さな傷がついている。


 昨夜、牢番が立ち上がったときに鉄格子へぶつけたのだろう。


 レオンハルトが私の顔を見た。


「聞いてもいいだろうか」


「何でしょう?」


「いつ、気づいた?」


「何に?」


「昨夜の牢番が、私だったことに」


 周囲の近衛騎士たちが息をのむ。


 私は傷のついたカップを、朝の光へかざした。


「最初の一言からですわ」


 レオンハルトが目を見開いた。


「声は変えた」


「変えていることが分かりました」


「顔も隠していた」


「殿下は罪悪感を抱くと、右の親指で人差し指の付け根をこすります」


 レオンハルトが自分の右手を見る。


「それに、紅茶を飲んだとき、眉間へしわを寄せる癖も変わっておりませんでした」


「では、すべて知っていて」


「ええ」


「なぜ、言わなかった?」


「殿下が名乗らなかったからです」


「それだけか?」


「王太子として私にお会いになるのでしたら、正装でいらっしゃればよかった。名を隠し、牢番としていらしたのなら、私もそのつもりでお相手しようと思いました」


 私はカップを胸元へ戻した。


「それに、殿下が何を知りたくていらしたのか、分かっておりましたから」


「何を?」


「王都中が悪女と呼ぶクラリス・レシュタールが、本当はどのような人間なのか」


 レオンハルトは答えられなかった。


「殿下は、最後までご自分の目で確かめなかったことを後悔なさった。だから牢番に変装し、私が誰も見ていない場所で、どのように振る舞うのか確かめにいらした」


「すまない」


「私は、そのことにも傷つきました」


 レオンハルトの表情が固まる。


「最後の最後まで、私を信じて会いに来たのではない。私が信じるに値する人間かどうか、確かめるためにいらしたのでしょう?」


「ああ」


 レオンハルトは否定しなかった。


「最初は、そうだった」


「正直ですこと」


「だが、君と話して分かった。間違っていたのは君ではない。私だ」


「だから、証拠を調べ直した?」


「ああ」


「私が牢番へ紅茶を出さなければ?」


 レオンハルトは沈黙した。


 その沈黙だけで、答えは十分だった。


「殿下」


「はい」


「命を救ってくださったことには感謝いたします。けれど、それで昨夜のことまで美しい思い出にはなりません」


「分かっている」


「本当に?」


「ああ。君が何も責めなかったからといって、傷ついていなかったことにはならない」


 私はレオンハルトを見つめた。


 少なくとも今は、私の言葉を聞いている。


 言葉の奥にあるものまで、知ろうとしている。


 それでも失った信頼は、すぐには戻らない。


 今は、それでよかった。


「いつか、もっとおいしい紅茶をお出ししますわ」


 レオンハルトが目を見開いた。


「それは」


「許すという意味ではありません」


「分かっている」


「婚約を戻すという意味でもございません」


「分かっている」


「一杯の紅茶だけです」


 私は銀のカップについた傷を指先でなぞった。


「昨夜の紅茶は、蒸らしすぎてしまいましたから」


 レオンハルトはしばらく黙り、それから小さく笑った。


「次は、最初に名乗る」


「そうなさってください」


「私はレオンハルト。職業は王太子。牢番は昨夜限りで辞めた」


「存じておりますわ」


「君は?」


「クラリス。職業は、元悪役令嬢といったところでしょうか」


「元?」


「無実を明らかにしてくださるのでしょう?」


「ああ。必ず」


「でしたら、今夜限りで返上いたします」


 東の空から、朝の光が差し込んだ。


 刑場の石畳を照らし、私の足元まで伸びてくる。


 もう二度と見ることはないと思っていた朝だった。


     ◇


 半年後。


 私は海辺の小さな町に屋敷を借りた。


 王都へ戻らなかったのは、誰かを恨んでいたからではない。


 十八年間、王太子妃になるために生きてきた。


 これから何をしたいのか、自分で選ぶ時間が欲しかったのだ。


 初めて見た海は、幼いころに本で読んだとおりだった。


 地面の先まで空が続き、昼には光が砕け、夜には黒い波が星を運んでくる。


 私は屋敷の一階を、小さな茶館にした。


 貴族も平民も関係ない。


 一人で来た客にも、できるだけ声をかける。


 一人で飲む紅茶は寂しいと、私は知っているからだ。


 ある雨の日。


 閉店間際の扉が開いた。


 濡れた外套を着た旅人が、一人で入ってくる。


 深くかぶった帽子。


 簡素な旅装。


 しかし今回は、口元を布で隠してはいなかった。


「私はレオンハルト」


 旅人は、扉の前で真っ先に名乗った。


「職業は王太子。今だけは休暇中の旅人だ」


「存じておりますわ」


「まだ紅茶は飲めるだろうか」


「申し訳ございません。本日はもう閉店です」


「そうか」


「ですが、一杯だけでしたら」


 私は奥の棚から、二つの銀のカップを取り出した。


 一つには、小さな傷がついている。


 レオンハルトは、そのカップを見ても何も言わなかった。


 この半年、毎月一通ずつ手紙が届いた。


 返事を求める内容ではない。


 王宮で何が起きたか。


 冤罪を生んだ裁判制度をどう変えたか。


 私に罪を着せた者たちを、法に従ってどう裁いたか。


 セシリアが聖女という立場を利用されないよう、どのような制度を整えたか。


 そして最後には必ず、自分が何を誤り、次はどう正そうとしたのかが書かれていた。


 私は一度も返事を出さなかった。


 それでも、すべての手紙を読んだ。


「渋くないものを頼む」


「お客様がお話を邪魔しなければ、蒸らしすぎることはありませんわ」


「では、黙っていよう」


「それでは、少し寂しいですわね」


 レオンハルトは困ったように笑った。


 私はポットへ湯を注いだ。


 茶葉が開くのを待つ。


 急がない。


 苦くならないように。


 渋くならないように。


 けれど、味が薄くなりすぎないように。


「手紙は届いていただろうか」


「ええ」


「読んでくれた?」


「すべて」


「そうか」


 レオンハルトは、それ以上尋ねなかった。


 許してくれとも、戻ってきてくれとも言わない。


 私は紅茶を二つのカップへ注いだ。


 琥珀色の水面から、柔らかな香りが立ち上る。


 一つをレオンハルトの前へ置く。


「どうぞ」


 レオンハルトが紅茶を口にした。


 眉間にしわが寄る。


「また渋かったかしら?」


「いや」


「では、なぜそのようなお顔を?」


「癖が出た」


 レオンハルトは右の親指で、人差し指の付け根をこすりかけた。


 しかし、すぐに手を止める。


「緊張している」


「正直ですこと」


「今度は、最初から正直にすると決めてきた」


「それで?」


「紅茶は、とてもおいしい」


「そう」


「それから、この半年、君へ会いたかった」


 私は自分のカップを持ち上げた。


「一杯の紅茶に、多くを期待しすぎですわ」


「分かっている」


「私はまだ、すべてを許したわけではありません」


「ああ」


「王都へ戻るとも、婚約を結び直すとも申しません」


「それも分かっている」


「それでも、こちらへ?」


「選ぶ権利は君にある。だが、もう一度話したいと伝える責任は、私にあると思った」


 どうやら、半年前の言葉を覚えていたらしい。


 謝罪とは、相手へ判断を返すためにするもの。


 許すか。


 許さないか。


 もう一度話すか。


 二度と会わないか。


 その選択は、私の手元にある。


「でしたら、私からも一つだけ」


「何だろう」


「次にいらっしゃるときは、事前に知らせてください」


 レオンハルトが瞬きをする。


「次が、あるのか?」


「今日の焼き菓子は、もう売り切れてしまいましたから」


「それは」


「紅茶だけでは、口寂しいでしょう?」


 レオンハルトは何かを言いかけた。


 けれど、期待を言葉にすることはせず、静かにうなずいた。


「ああ。次は手紙を送る」


「返事がなくても?」


「突然訪ねるよりはいい」


「学習なさいましたのね」


「半年かかった」


「まだ半年です」


「そうだった」


 レオンハルトは紅茶をもう一口飲んだ。


 私も同じようにカップへ口をつける。


 窓の外では、雨が海を細かくたたいている。


 鉄格子を挟んでいた夜とは違い、今は同じ机についている。


 あの夜、私は最初から牢番の正体を知っていた。


 それでも知らないふりをしたのは、レオンハルトが王太子の身分を捨てなければ、私へ本心を尋ねられなかったからだ。


 そして私もまた、彼が名を隠していなければ、あれほど素直に恨みを口にできなかったかもしれない。


 だからといって、あの夜が必要だったとは思わない。


 もっと早く話せていればよかった。


 互いに役割を脱がなくても、言葉を交わせていればよかった。


 失った信頼を取り戻すには、まだ多くの時間が必要だろう。


 一度の救出でも。


 半年分の手紙でも。


 二杯の紅茶でも足りない。


 それでも、三杯目のために手紙を送ってもよいと、私は伝えた。


 今は、それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。