婚約者に新薬の特許を奪われた挙句婚約を破棄された子爵令嬢は、新進気鋭のやり手侯爵と手を組んで新薬の開発に邁進する
「オリヴァー様! 遂にニャポリアが完成しました!」
「っ!? 本当かい、グラディス!?」
私が婚約者であるオリヴァー様にそう報告すると、オリヴァー様は目の色を変えて立ち上がった。
「ハハハ!! 凄いじゃないかグラディス!! これは世紀の大発明だよ!!」
オリヴァー様は両手を広げながらこちらに駆け寄って来て、私の両肩をガシリと掴んだ。
その目はギラギラと輝いており、余程興奮していると見える。
――さもありなん。
ニャポリアは私が3年も掛けて開発した新薬で、世界初の緑血病ステージ4の特効薬なのだ。
緑血病はその名の通り、血液内の赤血球が段々と毒素を含んだ緑色の細胞に変質してしまう病気で、段階がステージ1から5まであり、ステージ5までいってしまうと、ほぼ例外なく数年で命を落としてしまうという、とても恐ろしい病気。
ニャポリアはそんな緑血病を、ステージ4までであれば治すことができる薬なのである。
オリヴァー様が仰る通り、これは我ながら世紀の発明と言えるだろう。
嗚呼、この3年、寝る間も惜しんでニャポリアの開発に心血を注いできた苦労が、やっと報われたわ――。
「やったねグラディス! 僕たちのニャポリアが、やっと形になったんだね!」
「……! え、ええ、そうですね」
オリヴァー様の「僕たちの」という言い方に若干引っ掛かりを覚えつつも、わざわざそれを否定するのも大人気ないかと思い、言葉を飲み込んだ。
今から3年前、ニャポリアの開発をオリヴァー様に進言した際、オリヴァー様は、「それはイイね! 僕も手伝うから、一緒に頑張ろうよ!」と口では言ったものの、それ以来、ニャポリアの開発は完全に私1人に丸投げだった。
その割には事あるごとに「進捗はどうだい?」と訊いてきて、そのたびに私は、「あなたが手伝ってくだされば、もっと早く完成するんですけどね!」という言葉をずっと飲み込んできたのだ。
「よおし、そうとなれば、早速特許を取得しなきゃね! 手続きは僕がやっておくから、任せてよ!」
「え? い、いえ、そんな、オリヴァー様のお手を煩わせるわけには……」
「大丈夫大丈夫! 君は疲れてるだろうから、ここは僕を頼ってよ!」
「あ、はぁ……、そういうことでしたら……」
まあ、実際特許申請書類の作成には莫大な手間が掛かるし、それをオリヴァー様が代わりにやってくださるというのであれば、確かに助かるわね。
こう言っては何だけれど、今までほとんど手伝ってくださらなかったのだから、最後くらいは頑張っていただきましょう。
――だが、いざ特許の申請書類が完成した段になって、それは起きた。
「――! オリヴァー様、これはどういうことでしょうか?」
「ん?」
私は震える手で、オリヴァー様に書類を差し出す。
「申請者の名前が、オリヴァー様になっていますが」
ニャポリアはあくまで、私が開発したものだ!
だというのに、これではまるでオリヴァー様が開発者のように、世間には思われてしまう――!
それに、特許の申請者がオリヴァー様になるということは、ニャポリアで得た利益は、全額オリヴァー様のものになるということでもあるのだ。
「……ああ、それね。ほら、今後ニャポリアを大量生産していくにあたっては、我がダウズウェル伯爵家の所有している工場を使用するだろ? そうなると、開発者はダウズウェル家の跡取りである、僕にしておいたほうが、何かと手続きが楽になるんだよ」
「……!」
オリヴァー様の言い分も、一理ある。
でも――。
「ですが、私は――」
「うんうん、グラディスの言いたいこともわかるよ。でもさ、どうせ僕らはもうじき夫婦になるんだから、ニャポリアの利益がどちらに入ろうが、同じことじゃないか。――それともグラディスは、僕のことが信用できないのかい? 特許を取った途端、僕が君のことを捨てるとでも?」
「――!」
そんな言い方をされてしまっては、これ以上私には何も言えなかった……。
元より弱小子爵家の娘である私と、名門伯爵家の跡取りであるオリヴァー様では、身分も圧倒的に違うのだ。
「……いえ、とんでもございません。では、手続きはよろしくお願いいたします」
「ああ、任せておいてよ!」
私は心の奥にモヤモヤしたものを抱えつつも、オリヴァー様に頭を下げた――。
――その後、無事特許を取得したニャポリアは、それはそれは飛ぶように売れた。
何せ今までは極めて致死率の高かった緑血病が、ステージ4までであれば治すことが可能になったのだ。
世界各地で緑血病が治ったというニュースを聞くたびに、私は自分のことのように嬉しくなり、そっと涙した。
「ウハハハハ!! 見てよグラディス! 今月の売上、また過去最高を記録したよッ!」
ニャポリアの売上明細を私に見せながら、いやらしい笑みを浮かべるオリヴァー様。
「そ、それは凄いですね」
「ん? 何だいグラディス? ノリが悪いなぁ。せっかく僕たちの功績が世間に認められたんだぜ? もっと喜ぼうよ!」
「あ、はい、喜んでますよ」
ただ、何かにつけて「僕たちの」という点を強調するオリヴァー様に、どうしても喉の奥に小骨が刺さったような感覚がしてしまうのだった。
「ふーん? ま、いっか」
オリヴァー様はニヤニヤしながら、また売上明細に目線を戻した。
――ふと窓の外を見ると、分厚い暗雲が空を覆いつくそうとしているところだった。
――そして、私とオリヴァー様の結婚式を間近に迎えたある日、それは起きた。
「オ、オリヴァー様……!?」
「あ」
私が1人で街中を散策していると、若い女性と手を組んで歩いている、オリヴァー様と鉢合わせしてしまったのだ。
厚化粧のその女性は、豊満な胸をオリヴァー様の左腕に押し当てている……。
そ、そんな――!!
「オリヴァー様! どういうことですかこれはッ!?」
「あー、まあ、どうせいつか僕から言おうと思ってたんだから、ちょうどいいか。――彼女の名前はシンシア。僕の真実の愛の相手さ」
「どうもー、シンシアでーす」
「――!?」
真実の……愛……!?
「君には本当に悪いと思っているよグラディス。でも君だって、他の女性に想いを寄せている男と結婚するのは辛いだろう? だからこれを機に、僕たちの婚約は破棄しよう。それがお互いのためだよ」
何ですかその、私のためを思って言ってやってるみたいな言い草は――!
そもそもあなたが浮気しなければよかっただけの話じゃないですか――!!
――この瞬間、ただでさえ不信感が募っていたオリヴァー様に、私は心の底から失望した。
こんな人、こっちから願い下げよ――。
「……わかりました。その婚約破棄、謹んでお受けいたします。――ですが、相応の慰謝料は請求させていただきます。あと、ニャポリアの特許権と、それによって得た利益は全額返していただきますので、ご了承ください」
「ハァ? いやいやいや、慰謝料はまだしも、ニャポリアの特許は僕のものなんだから、そりゃ無理ってものだよ」
「――!?」
な、何ですって――!?
「フザけないでくださいッ!! ニャポリアは、私が開発したものですよッ!」
「でも特許の取得者は僕なんだから、ニャポリアは僕のものだよ。それがこの世のルールだ。文句があるなら、特許庁に言ってみれば? どうせ無駄だと思うけど」
そ、そんな……!
「じゃあ、僕らはこれからディナーを予約してるんで、そろそろ失礼するよ。またね」
「さようならー」
「……!」
2人は和気あいあいと甘い空気を醸しながら、スタスタと去って行った。
「う、うううぅぅ……!!」
私はそんな2人の背中を、血が出そうなほど拳を握り締めながら、いつまでも睨んでいた――。
――その後、私とオリヴァー様の婚約は、驚くほどあっさりと破棄された。
元々ダウズウェル伯爵家と私の実家では、身分が段違い。
相応の慰謝料を払うと言われては、こちらとしても文句は言えなかったのだ。
その上、ニャポリアの特許権も、どう足掻いても返してはもらえなかった。
特許庁にも何度も訴えたのだけれど、一度受理されてしまった特許は、そう簡単には変更はできないらしい。
これに関しては、私のミスでもある……。
何故あの時、申請者の名前を私にしなかったのか……。
どれだけ後悔しても、小説みたいに時間が巻き戻ったりすることはなかった。
結局私の手元に残ったのは、ニャポリアの利益に比べたら雀の涙ほどしかない慰謝料と、婚約を破棄された女という汚名だけ。
私も既に21歳。
貴族令嬢としては、行き遅れの部類だ。
まして経歴に傷がある私を、娶ってくれる変わり者などそうそういない。
私は人生の全てに絶望しながら、ただただ無気力に毎日を過ごしていた。
――そんなある日のことだった。
「グラディス!! たたた、大変だ!!」
「っ!?」
私のお父様が、血相を変えて私の部屋に入って来た。
「何があったのですか、お父様!?」
「ベックフォード侯爵閣下が、お前にどうしてもお会いしたいそうだ!」
「――!?」
あのベックフォード閣下が、私に――!?
――ベックフォード閣下といえば、先代侯爵閣下の病死により、若干18歳で爵位を継いで以来、僅か5年で領内の資産を倍増させたという風雲児。
そんな超有名人が、いったい私に何の用が……!?
とはいえ、私なんかにベックフォード閣下の要請を断る勇気も権利もない。
戦々恐々としながら、私はその日を待った――。
「ようこそおいでくださいましたグラディスさん。私はベックフォード家当主の、セシルと申します」
そして訪れた会見当日。
ベックフォード家が用意してくださった豪奢な馬車で、我が家の百倍は敷地面積がありそうなベックフォード家に到着した私を、当主であるベックフォード閣下自らが出迎えてくださった。
ベックフォード閣下はすらりと高い背に流れるような銀色の髪、そして女性かと見紛うほどにお美しいお顔をされていた。
そのあまりの神々しさに、思わず胸がトクンと一つ跳ねる。
ベックフォード閣下は私の2つ上の23歳だったはずだけれど、その洗練された佇まいは、海千山千の老獪な貴族を彷彿とさせた。
流石風雲児なだけあるわね……。
くぐってきた修羅場の数が、これだけで垣間見えるわ。
「あ、こちらこそ。本日はお招きいただき、大変光栄に存じます」
私は内心ドキドキしながらも、カーテシーを披露する。
「フフ、まあそう畏まらずに。お招きしたのはこちらなのですから、もっとリラックスしてください。はい、これは近々ベックフォード家から発売予定の、『ブタワシくん』というキャラクターのグッズです。よかったらどうぞ、差し上げます」
「っ!? あ、どうも……」
ベックフォード閣下から、手のひらサイズのキーホルダーを受け取る。
ブタワシくんは、顔が豚で顔から下が鷲という、何とも奇妙なデザインをしていた。
だが、その奇妙さが逆に癖になり、目が離せない。
これは売れそうね――!
……こうやってベックフォード閣下は、僅か5年で領内の資産を倍増させたというのね。
「どうぞこちらへ。些細なものではございますが、お茶をご用意してございますので」
「きょ、恐縮です」
「フフ、ほらまた強張ったお顔になられてますよ。リラックスリラックス」
「……!」
ベックフォード閣下は両手の人差し指で自らの頬を持ち上げ、変顔をした。
「ブフゥ!?」
そのあまりのギャップに、思わず吹き出してしまった。
「フフ、やっと笑ってくださいましたね。さあどうぞ、応接間にご案内いたします」
「あ、はい、ど、どうも」
ううん、どうやらこのお方、大分変わり者らしいわね……。
「早速ではございますが、ご用件をお伝えさせていただきます」
数々の高級品で彩られた応接間で、最高級茶葉の紅茶を振る舞われた私に、おもむろにベックフォード閣下がそう切り出した。
つ、遂にきたわね。
こんな私に用件とは、いったい……?
「単刀直入にお訊きしますが、ニャポリアを開発されたのは、あなたですね、グラディスさん?」
「――!?」
なっ!?
何故ベックフォード閣下が、それを――!?
世間的にはニャポリアの開発者は、オリヴァー様になっているはずなのに……。
「……どうして」
「どうして私がそれを知っているか、ですか? ……実は私も薬剤業界にはツテがありましてね。その関係で耳にしたんですよ、ニャポリアの真の開発者は、あなただと」
「……」
なるほど。
ベックフォード家が薬剤業界と関わりがあるという話は初耳だけれど、そういうことなら納得だわ。
私がニャポリアの件で特許庁に何度も訴えを出したこともあって、そういった噂が裏で流れていたとしても不思議ではないもの。
「……はい、確かにニャポリアの開発者は私です。……ですが、私の不注意で――」
「オリヴァー氏に特許を奪われてしまった、というわけですね?」
「――!」
どうやらベックフォード閣下には、全てお見通しみたいね。
「はい、つくづくお恥ずかしい限りです」
「いえいえ、悪いのはあくまでオリヴァー氏です。どうかご自分を責めないでください。あなたの立場では、オリヴァー氏には逆らえなかったのでしょう? まったく、人の研究成果を横から掠め取るなんて、同じ研究者として、とても許せるものではありません」
「え? 研究者……?」
今ベックフォード閣下、研究者と仰いましたか?
「……はい、実は私も、何年も前から緑血病の特効薬を開発するべく、自分なりに研究してきたのですが、なかなか思うような成果が出ず……」
そんな――!
ベックフォード閣下も、新薬の研究を――!?
「そうしている内に、ニャポリアが開発されたという噂を聞いたのです! しかもよくよく調べてみれば、真の開発者はオリヴァー氏ではなく、グラディスさん、あなただというではありませんか。――これは是非私のビジネスパートナーになっていただきたいと思い、こうして本日お呼び立てしたというわけです」
「ビ、ビジネスパートナー……!?」
私なんかが、ベックフォード閣下の……!?
「グラディスさん、ニャポリアではステージ4までしか治せません。――でも、あなたなら、ステージ5の患者でも治せる薬が開発できるのではありませんか?」
「――!!」
ベックフォード閣下は、刺すような視線を私に向けられた。
ステージ5の、患者を……。
――そうだ、それこそが私の悲願だった。
そもそも緑血病の特効薬を開発しようと思ったキッカケは、今から3年前に、私のお母様を緑血病で亡くしたことだった。
当時もステージ3までなら治せる薬はあったのだが、緑血病の進行速度には個人差があり、お母様は罹患が発覚した時点でステージ4だったため、既に手遅れだったのだ。
あの、段々と弱っていくお母様を前に何もできなかった無力感は、今でも夢に見る……。
だからこそ私は、1人でも多くの緑血病患者の命を救うため、特効薬の開発に心血を注いだのだ――。
……でも、ニャポリアではどうしても、ステージ4までの患者しか治せなかった。
もしもステージ5の患者も治せる薬が開発できたら、今度こそ緑血病は不治の病ではなくなる――。
「……はい、実はニャポリアを開発する過程で、ステージ5の患者も治せる可能性は見付けることができました。……ですが、そのためにはどうしてもとある貴重な材料が必要だということがわかり、そちらの研究は頓挫したのです」
「そのとある貴重な材料というのは、『エクフラ』ですね?」
「――!!」
な、何故ベックフォード閣下が、それを――!?
「エクフラならここにあります」
「っ!?」
ベックフォード閣下は懐から、透明な小瓶に入った赤い粉を取り出して、私に差し出した。
これは確かに――エクフラ――!!
エクフラとは、東方にあるジャポニという小さな島国にしか生息しない赤い植物を粉末にしたもので、様々な病気に効く万能薬だ。
だが、ジャポニは鎖国している関係上、余程太いパイプを持っていない限りはエクフラを仕入れることは不可能に近く、市場にも滅多に出回っていない。
それだけに、おいそれと研究に使えるものではなかったのだ。
私も何度かオリヴァー様にエクフラを取り寄せてもらえないか打診したことがあるが、「そんな成果が出る保証もないものに、手間は掛けられない!」と一蹴されてしまった……。
「私も緑血病の特効薬を開発するにあたり、エクフラが鍵だというところまでは何とか突き止めました。幸い私はジャポニの商人にも懇意にしている方が何人もいるので、エクフラは好きなだけ仕入れられましたし」
サラッととんでもないこと仰ってるわねこの方!?
鎖国している国の商人と複数のパイプを持つなんて、並みの貴族じゃ、いくらお金を積んだってそうそうできることじゃないのに……。
……どうやら私の目の前にいるこのお方は、変わり者なだけではなく、かなりのやり手らしい。
貴族界の風雲児の名は、伊達じゃないようね。
「……でも、私の拙い技術と低い魔力では、どうしてもそれを活かせませんでした。その点、グラディスさんならエクフラさえあれば、ステージ5をも治せる薬を作れる。――私はそう信じています」
「ベックフォード閣下……」
ベックフォード閣下の私を見つめる瞳は一切の濁りはなく、まるで無邪気な少年のように澄んでいた。
「エクフラならいくらでも私のほうで用意します。どうでしょうグラディスさん、私と一緒に、緑血病をこの世から無くしませんか?」
「――!」
「私と一緒に」というワードを聞いた瞬間、オリヴァー様にニャポリアの特許を奪われた時の記憶が蘇り、胸がズグンと重くなった。
ベックフォード閣下の申し出は、とても魅力的なものだ。
……でも、万が一またオリヴァー様みたいに、ベックフォード閣下が私を裏切ったとしたら――!
今度こそ私は人間という生き物に絶望し、自ら命を絶ってしまうかもしれない……。
「……失礼。こんな言い方では、あなたに不信感を抱かせてしまいますよね。――先にこちらをお見せするべきでした」
「え?」
ベックフォード閣下に差し出されたのは、一枚の契約書だった。
「――!?」
その契約書には、とても信じられないことが書かれていた。
――要約すると、『特効薬が完成した際は、特許の取得者は私個人とし、新薬によって得られた全ての利益は、全額私に帰属する』といった内容だったのだ。
しかもこの契約書には、強力な契約魔法がかけられているので、ベックフォード閣下は絶対にこれを反故にはできない。
こんなベックフォード閣下には何のメリットもない契約を、どうして――。
「こんな私に何のメリットもない契約をどうして、というお顔をされてますね?」
「……!」
ベックフォード閣下はニコリと微笑まれた。
そんなに顔に出てたかしら、私!?
「メリットなら十二分にあります。何故なら私の目的はあくまで緑血病をこの世から無くすことで、儲けは二の次だからです」
「――! 何故ベックフォード閣下は、そこまで緑血病にこだわるのですか?」
「……私について来ていただけますか」
「え? あ、はい」
おもむろに立ち上がって応接間から出て行かれたベックフォード閣下の後を、私は追った。
そしてとある部屋の前まで来たベックフォード閣下は、その扉をノックされた。
「ケイティ、起きてるかい?」
「あ、セシルお兄様、起きてるわよ」
セシルお兄様……!?
ということは、この中にいらっしゃるのは――。
ベックフォード閣下は私に無言でコクリと頷くと、扉を開けて中に入って行かれた。
私も続いて部屋に入ると、そこには――。
「あら? セシルお兄様、そのお方はどなた?」
大小様々なぬいぐるみが敷き詰められた大きなベッドの中心で、12歳くらいの銀髪の女の子が横になっていた。
そのお顔はベックフォード閣下にそっくりで、まるでお人形みたいに可愛い子だった。
女の子は自分と同じくらいの大きさの、ブタワシくんのぬいぐるみと添い寝している。
「この方は私のお友達のグラディスさんだ。グラディスさん、こちらは私の妹のケイティです」
ああ、やっぱりベックフォード閣下の妹さんでしたか。
「こ、こんにちは、グラディスと申します」
私はケイティ様に、おずおずとカーテシーを披露する。
「わあ! もしかしてセシルお兄様の恋人ですか!」
「ぶっ!?」
ケイティ様がガバリと上半身を起き上がらせて、身を乗り出してきた。
こ、ここここ、恋人!?!?
「いやいやケイティ、私の話を聞いてなかったのか? グラディスさんは私のお友達だ」
「えー、でも、今までセシルお兄様が女性を私に紹介したことなんてなかったじゃない。だから、特別な方なのかなと思って」
「……まあ、特別な方ではあるよ」
ベックフォード閣下!?!?
それはビジネスパートナーとしてという意味ですよね!?
ちゃんと説明していただかないと、ケイティ様に勘違いされてしまいますよ!?
「わあ! やっぱり! やっとセシルお兄様にも――ゲホッ! ゲホッ!」
「「――!!」」
その時だった。
ケイティ様が口元を手で押さえながら、激しく咳き込んだ。
するとケイティ様の手のひらに、緑色の血がべったりとついていた。
こ、これは……!!
「ケイティ、横になっていなさい。また後で、様子を見に来るからね」
ベックフォード閣下は懐からハンカチを取り出すと、ケイティ様の口元と手のひらの血を拭き、そっとケイティ様を寝かせた。
「はあい。グラディスさん、セシルお兄様をよろしくお願いしますね!」
「え? あ、ええと……はい」
何と答えていいものかわからず、曖昧な返事しかできない私。
いろいろと衝撃的なことが多く私の頭の中はパニックになっていたが、一旦私とベックフォード閣下はケイティ様のお部屋から辞去し、またさっきの応接間に戻ることになった。
「……お察しの通り、ケイティは緑血病に罹患しており、ステージ5まで進んでしまっております」
「――!」
応接間でメイドに命じて紅茶を淹れ直してくださったベックフォード閣下が、おもむろにそう仰った。
ああ、やっぱり……。
口から緑色の血を吐くのは、緑血病ステージ5の典型的な症状なのだ。
……私のお母様もそうだったから、よくわかる。
つまりケイティ様のお命のリミットは、あと数年ということ――。
「……実は私は両親も、緑血病で亡くしております」
「……なっ」
そ、そんな――!!
「7年前に母を、そして立て続けに5年前に父が、緑血病でこの世を去りました」
あ、あぁ……。
先代のベックフォード侯爵閣下の死因も、緑血病だったのですね……。
「緑血病は遺伝しやすい病気と言われていますからね。……現に私も、ついこの間まで緑血病だったのです」
「っ!?」
ベックフォード閣下も――!?
「ですが、私は発覚した時点でステージ4だったので、あなたの開発されたニャポリアのお陰で、間一髪治ったのです」
「そ、そうだったのですか……」
それは本当によかった――!
私の苦労は、決して無駄ではなかったのだ――。
「ですからあなたは、文字通り私の命の恩人なのです。この場をお借りして、深くお礼申し上げます」
ベックフォード閣下は深々と私に頭を下げられた。
「いえいえ! どうぞお顔をお上げください! ――私は研究者として、当然のことをしただけですから」
「フフ、あなたは本当に、研究者の鑑ですね」
「あ、いえ、そんな」
普段褒められ慣れてないので、何ともむずがゆい。
オリヴァー様は私がどれだけ成果を上げても、滅多に褒めてはくださらなかったし……。
「でもこれで、私がどうしてもステージ5の特効薬の開発をあなたにお願いしたい理由が、わかっていただけましたね?」
「――! ……はい、ケイティ様のためですね」
「そうです。ステージ5のケイティはニャポリアでも治せません。ケイティを救うためには、どうしてもあなたのお力が必要なんですグラディスさん! そのためだったら、私は全財産をあなたに捧げてもいいとさえ思っています」
「ベックフォード閣下……」
ベックフォード閣下の眼差しは真剣そのもので、今の発言が決して冗談ではないことが窺える。
――この瞬間、私の中の研究者魂に火がついた。
そうよ、オリヴァー様にニャポリアの特許を奪われてしまったことで今までウジウジしていたけれど、本来私が研究者を志したのは、1人でも多くの緑血病患者の命を救うためだったじゃない――!
利益なんて二の次だったはずよ!
ベックフォード閣下のお陰で、その初志をやっと思い出せたわ――!
「――わかりました。私でよければ、ご協力させていただきます」
「おお! ありがとうございます!」
「ですが、一点だけ契約内容を変更させていただきたく存じます」
「え? まだ何かご不満でしたでしょうか? もし追加のご要望がありましたら、何でも仰ってください」
「いえ、逆です。新薬の特許は私とベックフォード閣下の連名にしていただき、新薬で得た利益は折半にしていただきたいのです」
「――! それは、あなたに何のメリットもないではありませんか」
「いえ、メリットならあります。――私は、『あなた様と2人で新薬を開発した』という達成感を得たくなったのです。そのためには私1人の功績にするのではなく、あなた様と連名で特許を取得する必要があると、私は考えました」
「……フフ、フフフフフ、どうやら私の目に、狂いはなかったようですね」
ベックフォード閣下は心底楽しそうに笑いながら、口元を左手で押さえている。
「――わかりました。それでいきましょう。では、これで我々は、正式にビジネスパートナーになったということで、よろしいですね?」
ベックフォード閣下はそっと右手を私に差し出された。
心の中で確かな覚悟を決めてから、私はその手を握り返す。
「はい、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。フフ、パートナーになったのですから、今後は私のことは、セシルと名前で呼んでください」
「え!? で、でも、それは流石に……」
いくらパートナーになったとはいえ、私とベックフォード閣下では、あまりにも身分に差が……。
「対等な関係でなければ、効率的な研究はできませんよ。そうでしょう、グラディスさん?」
「うっ……!」
眩しいほどの神々しい笑顔でそう言われてしまっては、私にはもう、何も言い返す言葉は残っていなかった……。
「あ、はい……セ、セシル……様」
「フフフフ、まだ慣れていない感じが何とも愛らしいですが、まあそれは追々慣れていただくとしましょう」
あ、愛らしいとか言わないでください!
私ももう、子どもじゃないんですから……。
――こうしてこの日私に、心強いビジネスパートナーが出来たのであった。
「ここにあるものは、好きに使ってください」
「わ、わあ!?」
ベックフォード家の離れにある研究室に入った途端、変な悲鳴が出てしまった。
そこにあったのは最新型の研究機器の数々で、どれも売ったら当分遊んで暮らせるレベルのものばかり。
特にこの魔力計測器は、私がずっと欲しかったやつ!!
これさえあれば薬に魔力を込める際に、より繊細な調整が可能になる。
しかもエクフラも使い放題!
これなら本当に、ステージ5の特効薬も作れるかもしれない――!
「できれば今日からグラディスさんには、我が家に住み込みで研究に専念していただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「え!? そ、そんな、恐れ多いです!」
こんな豪邸に、私も住むなんて……!
「フフ、部屋はいくらでも余っておりますので、お気になさらないでください。――私には時間がないのです。ご無理は承知の上で、どうかお願いいたします」
「――!」
セシル様はまた私に頭を下げた。
……そうよね、ケイティ様の命が懸かってるんですもの。
私もなりふり構ってられないわよね!
「わかりました! では、お言葉に甘えさせていただきます」
「おお! ありがとうございます!」
「早速今から、研究室を使わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです! 私にできることでしたら何でもお手伝いいたしますので、お申し付けください」
「あ、じゃあ、まず試しにこの魔力計測器に、私が魔力を注入してみますので、セシル様には計測器のチューニングをお願いできますでしょうか」
「お任せください!」
そう言うなりセシル様は、テキパキとチューニングの準備を始められた。
ああ、この、誰かと協力して研究を進めていく感じ、いいなぁ。
……私は研究は、ずっと1人でやっていたから。
「ん? 私の顔に何かついてますか?」
「い、いえいえ! 何でもありません」
「フフ、そうですか」
さあて、私も準備しますか!
――この日私とセシル様は、夜遅くまで研究に没頭したのだった。
こうして二人三脚での研究の日々が幕を開けたわけだけれど、私は毎日のように、セシル様の優秀さに驚かされてばかりだった。
「え!? もう昨日のレポート纏めてくださったのですか!?」
「はい、こう見えて私、地道な作業は得意なんです」
私でも纏めるのに3日は掛かるだろう、膨大な量のレポートの束を差し出すセシル様。
しかも魔力出力量単位にファイルも仕分けされており、これなら後から見返しやすい!
「ありがとうございます! とても助かります!」
「いえいえ、魔力の低い私にできるのはこれくらいですから、雑用は私に任せて、どうぞグラディスさんは研究に専念してください」
「はい! 頑張ります!」
よし、セシル様の献身にお応えするためにも、一刻も早く新薬を完成させなきゃ――!
……しかし、現実はそう甘くはなかった。
あとはエクフラの成分を新薬と融合させれば完成というところまではこれたのだが、何度試行錯誤を繰り返しても、一向に融合させる糸口が掴めなかった。
そもそもエクフラは効果が強すぎるあまり、他の薬との融合には向いていないのだ。
とはいえ、今更エクフラ以外の薬で代用するには、あまりにも時間が足りない……。
ケイティ様に残された時間は、もう決して多くはないのだから――。
「ああもう! また失敗だわ……!」
私が魔力を込めた瞬間、エクフラが弾け飛んで私の白衣を真っ赤に染めた。
クッ、この方法でもダメか……。
いったいどうしたら……。
「……グラディスさん、今日はもう切り上げましょう」
「――!」
セシル様がそっと私の肩に手を置かれた。
「で、でも……」
こうしている間にも、ケイティ様の命が――!
「もう何日も、ろくに休まれてないじゃありませんか。明らかに魔力も乱れています。このまま続けても、良い成果は得られませんよ」
「……セシル様」
「今日はアップルパイを焼いてみたんです。気分転換も兼ねて、今からこれをケイティと3人で食べましょう」
セシル様はにこやかな笑みを浮かべながら、籠に入った大きなアップルパイを掲げた。
リンゴとパイの焼けた香ばしい匂いが、私の鼻孔をくすぐる。
わあ、美味しそう!
何とセシル様はお菓子作りも得意で、たびたびこうして手作りスイーツを振る舞ってくださるのだ。
本当にこのお方は、何でもできるわね……。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
「フフ、はい、では行きましょう」
私とセシル様は2人で、ケイティ様のお部屋に向かった。
「わあ! 今日はアップルパイねセシルお兄様! とっても美味しそう!」
部屋に入った途端、ケイティ様はブタワシくんぬいぐるみをギュッと抱きしめながら起き上がり、その宝石みたいな瞳をキラキラ輝かせた。
私がこのお屋敷に住むようになってから、こうして3人でたまにお茶をするようになった。
もちろんケイティ様の緑血病の経過観察を兼ねてのことなのだけれど、ケイティ様は私を姉のように慕ってくださっているので、ずっと妹が欲しかった私は、また一つ夢が叶った気分だった。
先日ケイティ様が手作りのブタワシくんぬいぐるみをプレゼントしてくださった時は、思わずその場で号泣してしまったっけ。
「私、セシルお兄様の作ったアップルパイだーい好き!」
「フフ、たくさんあるから、好きなだけお食べ」
「わーい!」
セシル様自らが切り分けたアップルパイを、ケイティ様は受け取る。
……だが、そのケイティ様の腕には、緑色の斑点が、ところどころに浮かんでいる。
これこそが、緑血病の末期症状。
ケイティ様のお命は、もってあと数ヶ月といったところだろう……。
クッ、私が不甲斐ないばかりに……!
「はい、グラディスさん、お紅茶をどうぞ!」
「あ、ありがとうございます! でも、自分でやりますから、大丈夫ですよケイティ様!」
ケイティ様がカップに紅茶を注いで、私に差し出してくださった。
ああもう、ご病気のケイティ様にこんなに気を遣わせてしまうなんて――!
「あっ!?」
「「っ!」」
その時だった。
焦って紅茶を受け取ろうとしたため、誤って零してしまい、私の白衣に紅茶がかかってしまった。
なっ!?
「あ! ごめんなさいグラディスさん!」
「今拭くものをお持ちしますので!」
「い、いえ、私の不注意ですから、どうかお気になさらず! ……え?」
「? どうかされましたかグラディスさん?」
白衣を見て、私は目を見張った。
私の白衣はつい先ほど、実験の失敗で大量のエクフラが付着して赤く染まっていた。
――だが、そのエクフラに紅茶がかかった部分だけ、ピンク色に変色していたのだ。
先述した通りエクフラの成分はとても溶けにくく、変色することはほぼない。
それが、こんな鮮やかなピンク色に――!
――そうか!
「セシル様、カフェインです!!」
「え?」
そうか、そういうことだったんだわ!
「おそらく紅茶に含まれるカフェインが、エクフラの成分を溶かしたんです! エクフラの唯一の弱点は、カフェインだったんです! ――これでエクフラの成分を、新薬に融合させることができます!」
「ほ、本当ですか!?」
「わあ! 凄いですグラディスさん!」
セシル様とケイティ様が、まったく同じ笑顔を私に向けられる。
ふふ、本当によく似てらっしゃるわね、このお二人は。
こうしてやっと解決の糸口を掴んだ私たちは、その後も試行錯誤を重ね、遂に――。
「……で、出来ました」
「おお!」
緑血病のステージ5をも治す特効薬――その名も『ニャッポリート』が完成したのである。
「ラットでの生体実験も成功し、魔力測定の結果もオールクリアしました。――これで、緑血病のステージ5も治ります」
「で、では、早速ケイティに――!」
「はい、ケイティ様にニャッポリートを飲んでいただきましょう」
――待っていてくださいね、ケイティ様。
「こ、これを飲めばいいんですか、グラディスさん?」
「はい、苦いとは思いますが、どうか一思いに全部飲んでください」
ケイティ様に小瓶に入った薬液のニャッポリートを手渡すと、ケイティ様は震える手でそれを受け取られた。
明らかに不安そうなお顔をされている。
……さもありなん。
これが最後のチャンスかもしれないのだ。
もしこれで治らなかったらと考えたら、その恐怖は、筆舌に尽くし難いものだろう。
「大丈夫だケイティ、グラディスさんと私を信じろ」
「セシルお兄様……」
そんなケイティ様の肩を、セシル様はそっと抱いた。
セシル様――。
「うん、そうよね! 私はお二人を信じるわ! いただきまーす」
ケイティ様はニャッポリートをグイと飲み干された。
すると――。
「――う、ううぅ……!!」
「っ!? ケイティ!?」
「ケイティ様!!」
ケイティ様は自らの胸を押さえながら、苦しみだした。
そ、そんな!?
もしかして――失敗……!?
「あ、あれ?」
「「――!!」」
が、次の瞬間、ケイティ様の全身に浮かんでいた緑色の斑点が、見る見るうちに跡形もなく消えてしまったのだった――。
う、うおおおおおおおおおおおおお!!!!
「わあ! 身体が軽い! アハハ! 凄い凄ーい!」
ケイティ様はベッドの上で、ピョンピョンと元気に飛び跳ねた。
あ、あぁ……!
よかった……!!
本当によかったわ……!!
「ケイティッ!!」
「っ!? セ、セシルお兄様……!?」
そんなケイティ様のことを、セシル様がギュッと抱きしめた。
「う、うわあああああん!!! ケイティ……!! ああぁ、ケイティィィ……!!!」
普段は常に飄々とされているセシル様が、そのお奇麗なお顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにされている。
「もう、苦しいよセシルお兄様」
ケイティ様もセシル様を抱きしめ返しながら、大粒の涙を零した。
「う、うううううぅぅ……!!!」
「アハハ、グラディスさんも泣きすぎー」
私も堪えきれず嗚咽する。
私たちはしばらく3人で、泣き笑いしていた――。
それから早速私とセシル様は、ニャッポリートの特許を取得した。
当然ながらニャッポリートは世界中で爆発的に売れ、末期の緑血病患者も次々に完治していった。
――遂に緑血病は、不治の病ではなくなったのだ。
「わあ、奇麗!」
今日私はセシル様と2人で、クリスマスマーケットに来ていた。
夜にはベックフォード家で、遅ればせながらニャッポリートの完成祝賀会が開かれるのだけれど、セシル様がその前に、2人でクリスマスマーケットを見に行きませんかと誘ってくださったので、二つ返事でオーケーしたのである。
研究者を志してからのここ数年はずっと研究尽くしで、こうしてゆっくり遊びに来ることなんてほとんどなかったので、キラキラした華やかな街並みを見ているだけで、心が踊る。
「ホットワインが売ってる屋台もあるみたいですね。グラディスさん、飲まれませんか?」
「ホットワイン! 飲んだことないですけど、是非飲んでみたいです!」
「フフ、承知いたしました。買ってきますので、ちょっとここでお待ちいただけますか」
「え!? そんな! 自分で買いますので、大丈夫ですよ!」
「いえいえ、私が買いたいんです。――あなたには、一生掛かっても返せないくらいのご恩があるのですから」
「セシル様……」
火傷しそうなほどの情熱的な瞳で見つめられ、私の胸がドクドクと早鐘を打つ。
あわわわわ……!?
な、何を勘違いしているのよ私!
セシル様にとって私はあくまで、ビジネスパートナーに過ぎないんだから――!
「あ、じゃあ、お言葉に甘えます」
「フフ、では行ってきます」
颯爽とホットワインを買いに行かれるセシル様。
私はそのセシル様の広いお背中を、ぼんやりと見つめていた。
「グラディス! グラディスじゃないかッ!」
「――!!」
その時だった。
聞き慣れた耳障りな声が、私の鼓膜を震わせた。
こ、この声は――!!
「……オリヴァー様」
そこにいたのは案の定、オリヴァー様だった。
だが、最後に会った時と比べると、驚くほどやつれている。
「酷いじゃないかグラディスッ! 僕に黙って、あんな薬を作るなんて!? 君のせいで、我が家は大量に売れ残ったニャポリアの在庫を抱えて、火の車なんだよ!?」
あんな薬というのは、当然ニャッポリートのことね。
まあ、ニャポリアの完全上位互換であるニャッポリートが発売されたことで、わざわざニャポリアを買う人はほとんどいなくなったものね。
「私にそう言われましても。私はただ緑血病で苦しむ人を救うために、尽力したに過ぎませんわ」
「クッ、奇麗ごとを……!! ふふふ、まあいいや。ちょうどいい。ここで君と会ったのも、神のお導きだろう。――これを機に、また僕と婚約を結ぼうじゃないか」
「――!!」
なっ!?
今更何を言ってるのよ、この人――!?
――そうやってまた、私から功績を掠め取るつもりなのね。
「ご冗談でしょう? そもそもあのシンシアさんという女性には、どう説明するのです?」
「フン! あの女なら、我が家の経営が傾いた途端、金目の物を盗んで、さっさと夜逃げしやがったよッ! まったく!! 散々贅沢させてやったってのに、とんだ恩知らずもいたもんだよッ!」
頭に特大ブーメラン刺さってますけど大丈夫ですか?
「……失礼ですが、その婚約のお話、丁重にお断りさせていただきます」
「アァ!?」
もう私は、二度とあんな過ちは犯したくないから……。
「……ククク、弱小貴族の娘の分際で、この僕に逆らえるとでも思ってるのか? ――君にその気がなくとも、君の父上は何と言うかな?」
「――!」
クッ……!
確かにダウズウェル伯爵家から圧力をかけられたら、我が家ではとても……。
「それは無理な話ですよ。何故ならグラディスさんは、私の婚約者ですから」
「「――!?」」
その時だった。
セシル様が私の前に立ちながら、にこやかにそう仰った。
セ、セシル様ああああああ!?!?
「なにィ!? 急に現れて、何だ貴様はッ!? ……ま、待てよ、その銀髪、あなた様はまさか――!」
「ええ、私はセシル・ベックフォードと申します」
「なっ!? あああああ、あなた様があの、ベックフォード侯爵閣下!?」
オリヴァー様はダラダラと脂汗を流しながら、奥歯をガタガタ鳴らしている。
いくらオリヴァー様でも、セシル様の前では赤子同然ね。
「私がいない間に、私の大事な婚約者を口説くとは――とても許せませんねぇ」
「――ヒッ!?」
セシル様は夜の闇よりも暗い瞳で、オリヴァー様を見下ろす。
わぁ、いつもは常にお優しいセシル様に、こんな一面が……!
その普段とのギャップに、私の胸はまたしても高鳴った――。
「いいですか、二度とグラディスさんの前に姿を見せないでください。――もしそれを破ったら、どうなるかおわかりですよね?」
「あ、あああああ……!! も、申し訳ございませんでしたああああああ!!!」
オリヴァー様は子どもみたいに泣きじゃくりながら、内股で逃げ去って行った。
うわぁ、あんな人が元婚約者だと思うと、今更ながら恥ずかしさで死にたくなってきた……。
「はい、グラディスさん、ホットワインをどうぞ」
セシル様は今の一件がまったくなかったかのようなていで、笑顔でホットワインを差し出してくださった。
実際セシル様からしたら、今のは羽虫を振り払ったくらいの感覚なのだろう。
「あ、ありがとうございます」
私は震える手で、ホットワインを受け取る。
まだワインは一口も飲んでいないのに、全身がポカポカと熱くなっている……。
「あっちに見晴らしのいい展望台があるんです。ワインを飲んだら、ちょっと行ってみませんか?」
「あ、はい、みますッ!」
「フフ」
ああ、まだ心臓がドキドキしてる……。
「わぁ……!」
セシル様に連れて来ていただいた人気のない展望台は、街が一望できる絶景スポットだった。
沈む夕陽色に染まっている街並みはどこか幻想的で、この世の景色ではないみたいだ。
「この景色を、ずっとあなたにお見せしたかったんです」
「セシル様……」
セシル様の横顔も夕陽に染まり、まるで絵画みたい……。
「ありがとうございます。私、この景色、一生忘れません!」
「フフ、それはよかった。……でも、先ほどは勝手にあなたを婚約者だと言ってしまい、申し訳ございませんでした」
「――!」
セシル様は私に頭を下げた。
「い、いえいえいえ! 私を助けてくださるためだったのですから、私はまったく気にしておりません! むしろセシル様こそ大丈夫だったのですか!? もしもオリヴァー様が私とセシル様を婚約者だと世間に言いふらしてしまったら、いろいろと厄介なことになるのでは……?」
「ああ、その点は問題ございません。どの道今夜あなたにプロポーズするつもりでしたから」
「…………は?」
んんんんんんんん????
私の聞き間違いですかね????
今セシル様、私にプロポーズするって仰った気がするんですが????
「本当は祝賀会の時にお渡しするつもりだったんですが」
「――!?」
セシル様は懐から小さな箱を取り出し、それを私の目の前で開けた。
――するとその中には、眩く輝くダイヤモンドの指輪が入っていた。
あ、ああああぁぁ……!!
「――グラディスさん、私はずっと前からあなたのことをお慕いしておりました。もう私は、あなた無しの人生は考えられません。どうか私の、人生のパートナーになってはいただけないでしょうか?」
「セシル様……!」
嗚呼、セシル様セシル様セシル様セシル様セシル様……!!
「ほ、本当に、私なんかでよろしいんですか?」
「はい、あなたでなくてはダメなんです、グラディスさん」
今やっと自分の気持ちに気付いた。
私も、ずっと前から――。
「ありがとうございます。私もセシル様を――お慕いしております」
「――! ……グラディスさん」
「……セシル様」
セシル様は指輪を取り、それを私の左手の薬指に嵌めてくださった。
いつの間に測ったのか、指輪のサイズはピッタリだった。
「わあい、おめでとー、2人とも!」
「「――!?」」
こ、この声は――!?
思わず振り返ると、そこにはブタワシくんぬいぐるみを抱いたケイティ様をはじめ、ベックフォード家の使用人のみなさんが、一堂に会されていた。
みなさん満面の笑みで、私たちを拍手で祝福してくださっている。
な、何故みなさんがここに!?
「なかなか2人が帰って来ないから、きっとここにいると思って!」
ケイティ様は無邪気に笑う。
あはは、流石兄妹。
何でもお見通しなのですね。
「グラディスさん! これで正式に、グラディスさんが私のお姉様になってくださるのね!」
駆け寄って来たケイティ様に、ガバリと抱きつかれる。
「あ、まあ、そういうことに、なるのかもしれませんね……」
「やったあ!」
「フフ、これから家族3人、幸せな家庭を築きましょう」
セシル様が、私とケイティ様の肩を抱く。
「はい」
「うん!」
セシル様とケイティ様となら、きっと笑顔の絶えない家族になれる。
――確かな未来のビジョンが、この時私には見えた。
拙作、『戦争から帰って来た婚約者が愛人を連れていた』がコミックグロウル様より2026年3月6日に発売される『選ばれなかった令嬢には、本命の彼が待っています!アンソロジーコミック』に収録されています。
よろしければそちらもご高覧ください。⬇⬇(ページ下部のバナーから作品にとべます)




