第1話 目覚め
頭がズキズキする。
何かに追いかけられる夢を見ていた気がする。
だが内容は霧のように掴めない。
ただ、最後に――轟音が鳴ったことだけを覚えている。
ゆっくりと瞼を開けると、見慣れない天井が視界に映った。
木の梁が組まれた中世風の天井。
質素だが清潔なベッドに、自分は横たわっていた。
「あれ……ここはどこだ?」
上体を起こし、辺りを見回す。
石造りの壁。
小さな木製のテーブル。
そして壁に貼られた羊皮紙には、見知らぬ文字が並んでいる。
だが――なぜか、読める。
『冒険者ギルド支部 保護者用宿泊施設』
冒険者ギルド?
保護者用?
混乱する頭に疑問が次々と浮かんだ。
確かに俺は電車で学校に向かっていたはずなのに。
その時、ドアがノックされた。
「失礼いたします。お加減はいかがですか?」
澄んだ声が響き、ドアが開いた。
金髪を後ろで結んだ美しい女性が姿を現す。
白いブラウスに紺のスカート、腰には小さなポーチ。
まるで中世の記録から抜け出してきたような装いだった。
「あ、あの……ここはどこですか?」
「グランベル王国の冒険者ギルド支部です。あなたは三日前、街道で倒れているところを商人に発見されました」
三日前?
グランベル王国?
頭が追いつかない。
俺は田中太郎、埼玉県在住の高校三年生。
なのに、どうしてこんなファンタジーの只中に――?
「申し遅れました。私は職員のリーナと申します。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
状況を整理しろ。
「あ、俺は田中……田中太郎です」
「タナカ……タロウ様ですね。珍しいお名前ですが、もしかして東方の国のご出身でしょうか?」
東方の国?
それは日本のことを指しているのか?
ならば、ここは本当に異世界なのか。
「記憶が曖昧で……自分がどこから来たのか、よく覚えていないんです」
「そうでしたか。頭を強く打たれていましたから、記憶障害が起きているのかもしれません。でも大丈夫です。時間が経てば思い出すかもしれませんし、まずはご無事でいらっしゃることが一番です」
リーナは優しく微笑んだ。
その笑みは眩しすぎて、現実感が揺らいだ。
――現実世界では決して縁のなかったタイプの女性だ。
待てよ。
これは、もしかして――異世界転生?
だが、トラックに轢かれた記憶はない。
ただ電車に乗っていて……そこで記憶が途切れている。
「あの、ここは本当に『異世界』なんですか?」
「異世界? 申し訳ございませんが、その言葉の意味が分からないのですが……」
「いえ、こちらこそ変なことを聞きました」
そうか。
この世界の住人にとっては「異世界」という概念自体が存在しないのだ。
彼らにとっては、ここが唯一の現実なのだから。
♦
「あの……もしかして、この世界では冒険者になるとレベルが上がったり、スキルを覚えたりするんですか?」
「レベル? スキル? 申し訳ございませんが、その言葉の意味が分からないのですが……」
――やはりゲーム的なシステムは存在しないのか。
だが魔法くらいは……?
「魔法は使えるんですか?」
「魔法は存在します。でも……タロウ様からは魔力の反応を感じることができませんでした」
魔力なし。
まあ、最初から万能である必要はない。
成長していけばいいのだろう。
「それで、俺はこれからどうすればいいんでしょう?」
「記憶が戻るまで、こちらで療養していただければと思います。幸い、身分証がなくてもギルドが一時的に保護できますから」
「ありがとうございます。でも、何もしないでいるのも気が引けます。何か手伝えることはありませんか?」
「そうですね……まずは軽い仕事から始めてみますか? 薬草採りなど、危険の少ない作業があります」
♦
翌日。
リーナに連れられ、街の外に出た。
「薬草は街道沿いに生えています。この青い花がついた草がヒールハーブです。軽い傷の治療に使えます」
「なるほど」
説明を聞きながら歩いていた時――
ガサガサッ!
茂みから緑色のスライムが飛び出した。
リーナが慌てて俺をかばおうとした、その瞬間。
スライムは俺を一目見ると、急に方向を変えて逃げ去った。
「え?」
「あ、あの……今のは……」
「スライムが……逃げた?」
「普通は人を見ると攻撃してくるはずなのに……」
奇妙な出来事だった。
だが、それは始まりにすぎなかった。
ゴブリンの群れに遭遇した時も、オオカミの群れも、巨大なムカデさえも――。
俺を見た途端、怯えたような表情を浮かべ、逃げ出していった。
「すごいですね、タロウ様。モンスターがあなたを避けています」
「俺、何かしましたか?」
「いえ、何も……これは本当に珍しい現象です」
♦
夕方、ギルドに戻った俺たちは冒険者たちの視線を集めた。
「本当にモンスターが逃げたのか?」
「珍しいこともあるもんだな」
「でも実用的じゃないか。戦わずして道が開けるなんて」
確かに戦って倒すわけではない。
だが――これも一つの才能かもしれない。
少し得意になった。
♦
数日後。
街の人々が俺を見る目に違和感を覚え始めた。
記憶喪失の異邦人だから避けられていると思っていた。
だが違う。
その視線は――まるで人間ではない何かを見るようだった。
♦
酒場。
冒険者たちの会話が耳に入った。
「おい、あの『逃走モンスター』の件だが……」
「ああ、田中のことか。確かに不思議だ」
「ギルドの上では、あいつの正体について色々言われてるらしいぞ」
俺の正体?
心臓が高鳴った。
リーナに聞かなければならない。
♦
「リーナさん。俺について、何か隠していませんか?」
「え? どうして急に……」
「街の人たちの視線が妙に冷たいんです。まるで俺が人間じゃないみたいに」
リーナの顔が青ざめた。
「あの……タロウ様、実は……」
「やはり何かあるんですね。教えてください」
沈黙の後。
リーナは意を決したように口を開いた。
「この世界には、普通の人間以外に『役割持ち』と呼ばれる存在がいます」
「役割持ち?」
「はい。古い言い伝えによると、世界が創られた時から決められた役目を担う存在です。自分の意志で行動することはできないとされ、その中には、特定の行動を繰り返す者もいて……」
胸が締めつけられる。
「まさか……俺は……」
「タロウ様は『モンスターと遭遇すると、モンスターが逃げ出す現象を起こす役割持ち』として……存在しているようなのです」
世界が揺れた。
「つまり俺は……人間じゃない?」
リーナは辛そうに頷いた。
「ですが、不思議なことがあります。普通の『役割持ち』は決められたことしか話せません。けれどタロウ様は自由に考え、話すことができる。そして……」
「そして?」
「タロウ様の周囲の『役割持ち』たちも、徐々に自分の意志を持ち始めています」
愕然とした。
俺が役割持ちであるだけでなく、他の役割持ちまで覚醒させる存在だったなんて。
♦
「ギルドでは、この現象をどう捉えているんですか?」
「正直に言うと……意見が分かれています。危険視する者もいれば、新しい可能性として歓迎する者も」
その時だった。
「緊急事態! 北の森に古代ドラゴンが出現! このままでは街が焼き払われる!」
伝令の叫びに、酒場がざわめいた。
冒険者たちが慌ただしく武器を取る。
「タロウ様……」
リーナが俺を見つめた。
「もしかすると、あなたの能力なら……」
「追い払えるかもしれない、ということですか」
だが、それは同時に――俺が役割持ちとしての運命を受け入れることになる。
逃げれば、自分の意志で生きる道を探せるかもしれない。
だが、その間に街の人々は――。
冒険者たちが次々と出陣の準備を整えていく。
街の命運がかかっている。
俺は選択の前に立たされていた。
果たして――役割持ちとしての宿命を受け入れ、ドラゴンに向かうのか。
それとも、自分の意志を貫き、別の道を選ぶのか。
どうする、田中太郎――
続く……