071:俺は暗くて印象に残らない人間の方が向いてる
クラブ・ドミニオン 午前11時前
昼でも暗い。
照明は落とされ、厚手のカーテンが光を遮断している。夜の残滓を引きずるような薄闇が、フロアに沈殿していた。
その中を、清掃ワゴンのキャスターが静かに滑る。
裏口から入ってきたのは、作業着姿の男。
無地のグレー。
企業ロゴすらない。
猫背。キャップを深くかぶり、顔は髪と影に埋もれていた。
口は半開きで、締まりがない。
肌は浅黒く焼け、アジア系とも中東系ともつかない雰囲気をまとっている。
──誰も、“ジョニー・ウー”の仮面の下に、この男の骨格を見出すことはない。
「ちょっと、誰? 昨日の人と違うけど」
スタッフの女が足を止める。
ジョージは無言で頭を下げ、胸に片手を添えた。礼儀の形をなぞるだけの動作。
そして、舌足らずな発音で絞り出すように話す。
「……スミマセ……午前、点検ダケ……エアコン、水、落ちる……掃除モ……する、デス」
声はかすれて高く、訛りは東南アジア系。
わざとらしさはなく、逆に現実味があった。
「……まあ、いいけど。
昨日VIPが暴れてめちゃくちゃ。
ちゃんとやっといてよ」
女は興味を失ったように手をひらひらさせ、その場を離れた。
会話するだけで疲れそうな相手だったのだろう。
ジョージはかすれ声で「ハイ」と返し、ワゴンを押してフロアを抜ける。
VIPルームの扉を閉めた瞬間、空気が変わった。
アルコールと革張りソファのにおい。
空調のうなる音。
数日前と、同じだった。
部屋を一瞥。動きはない。
確認を終えると、唇だけが動いた。
「……よし」
その声には、もう訛りも作り笑いもなかった。
無駄を削いだ動作で、ワゴン脇に立つ。テーブルに上がるのも、音一つない。
ターゲットは、梁の裏──エアコン吹き出し口近くに仕込まれたカメラ。
通信機能を持たない独立型。microSDに記録された映像は、この場でしか奪えない。
ピックも工具も不要。指だけで、静かに解体。
回収したカメラを、ワゴンの二重底に滑り込ませる。
続けて、別の隠し機材へ。
手順は速い。だが、目だけは止まらない。
ドアの隙間。天井の角。わずかな音にも反応できるよう、神経を張り詰める。
──残るは2つ。
個室内。スタッフすら入れない“外”の区画。
今の偽装では突破不可能。
ジョージは何も言わない。
乱雑なグラスと皿をまとめ、トレイにのせる。テーブルを一拭きし、床にモップを走らせる。
清掃員としての“痕跡”を仕上げ、用具を整えて扉を開ける。
通路のスタッフがこちらを一瞥したが、スマホに目を戻した。
その視線に含まれていたのは、興味ですらなかった。
ただの異物を視界から追い払うような、無関心。
「……終わったんなら、さっさと出てって」
投げられた言葉にも、ジョージは反応を見せない。
顔を上げることなく、ひとつ小さく頭を下げ、猫背のまま裏口を抜ける。
誰にも気づかれず。
誰の記憶にも残らず。
その背中は、湿った朝の路地裏に溶けるように、音もなく消えた。
◇
クラブ・ドミニオン裏手
白いバンがひっそりと停まっている。
側面のロゴは、ローカル清掃会社のもの──だが、磁石で貼り付けた偽物。
荷台にはモップ、バケツ、洗剤。すべてが完璧なカモフラージュ。
ジョージはバンに近づき、周囲を一度だけ確認。
荷台のドアを開け、音もなく滑り込む。
運転席で振り返るのは、レイチェル・カーター。
目元の緊張はそのままに、言葉だけが少しくだけていた。
「追跡なし。通報もゼロ。通信もクリーン」
ジョージはうなずき、二重底の袋を取り出す。
SDカード。小型カメラ。集音マイク。──すべて揃っていた。
「回収完了。……例の2つは、あえて残した」
「了解。“王様”の目が泳ぐのが、見ものね」
ジョージは応えず、キャップを外す。
前髪を撫でる指先に、日焼けスプレーの皮膜が剥がれる。
ウェットティッシュでそれを乱暴に拭いながら、鼻で笑った。
「……こっちのほうが、性に合う」
レイチェルがミラー越しにちらりと目をやる。
「どっちの?」
「……声が小さくて、存在感がなくて……
誰にも覚えられないやつだ」
ティッシュを放り捨て、シートに身を沈める。
エンジンがかかる音が、低く車内を震わせた。
白いバンは朝焼けの街を滑るように走り出す。
誰にも見られず、誰にも知られず。
影のまま、任務は終わった。