【番外編】女好きのチャールズ・フィンリー
高級ラウンジの奥、革張りのソファに沈みながら、3人の男たちはグラスを傾けていた。
ジョージ・ウガジン。
ヴィンセント・モロー。
そして、チャールズ・“チャット”・フィンリー。
チャットが狙ったのは、近くのテーブルにいた1人の女性。
目が合ったのはほんの一瞬だったが、それで十分だった。
彼は静かに立ち上がり、グラスを片手に歩み寄る。
明るい金髪は柔らかく整えられ、頬にかかる髪すら計算の一部。
彫刻のような顔立ち。笑えば頬に浅く影ができて、まるで昔の映画スターのような雰囲気を纏っていた。
何よりも危険なのは、その目――
グレイッシュなブルーグリーン。
明るい照明を受けると、海面のように淡く輝き、
角度を変えれば、ガラス玉の奥に濃いグレーが沈んで見える。
“すべてを知っているのに、あえて何も語らない目”。
しかし、その沈黙の奥には、計算と誘惑と――ほんの少しの退屈が混じっていた。
「ねぇ、君ってさ――笑うと世界の不幸が2秒くらい消えるよね?
……それ、才能だよ」
低くて柔らかい声。
甘さとスモーキーさを絶妙に混ぜた、“口説くための声”。
そして、グラス越しに相手の目を覗き込むような仕草。
女性は思わず笑い、頬を染めた。
「もしかして……口説いてます?」
「いやいや、これは純粋なリスペクト。
心が震えただけ」
チャットは片方の口角だけ上げて笑う。
そのクセのある笑い方が、またたまらなく色っぽい。
離れた席で、ジョージが怪訝そうに目を細めていた。
グラスの縁に指をかけたまま、完全に無言。
“何をやっているんだこいつは”という顔で、チャットをじっと見る。
ヴィンセントがそれに気づき、吹き出した。
「またかよ……ジョージ、お前また人を殺す直前の目してんぞ。
チャットが命落とすぞ、女じゃなくてお前に」
ジョージは短く言う。
「……依頼人じゃないよな?」
「違う違う。完全に民間人。プライベートです。」
チャットが片手を挙げて、ふざけた敬礼。
「つーかジョージ、お前もちったぁ人生楽しめ。
人生ってのはな、任務と任務の間に挟まれたバカ騒ぎでできてんだ」
ジョージは返さない。
ただ「無意味」と言いたげな顔で、再びグラスを取る。
ヴィンセントが肩をすくめた。
「チャットが女に絡んでんのは春の風みたいなもんだ。
気にすんな。そのうちどっか行く」
「聞こえてるぞ? 風は自由だから美しいんだぜ?」
チャットがニヤッと笑い、再び女性の方に向き直る。
「でさ、さっきの話の続きだけど――運命って、信じる?」
その瞬間、ジョージのグラスの氷が、「カラン」と冷たく鳴った。
◇
――数日後、ΩRMオフィス内、ミニバー。
深夜のオフィスは静かだった。
壁際の冷蔵庫が、時おり「ココン……」と音を立てている。
ヴィンセントは、誰もいないと思っていた。
だが、バーカウンターのスツールに、見慣れた背中があった。
「……チャット?」
「よぉ……兄貴ィ」
いつもより低い声。
口元にグラス。氷が半分だけ残って、薄いウイスキーを撫でていた。
「酔ってるのか」
「ちょいとだけなァ〜。
……どーせ、お前しか聞いてねぇし」
そう言ってチャットは、氷をカラカラと回した。
「俺さぁー、なんで女ばっかり追いかけてんだろーうな、って……ふと考えたんだよォ〜。今日」
ヴィンセントは黙って隣に座る。
チャットは視線を伏せたまま、続けた。
「たぶんさァ〜、男に褒められた記憶が、ねぇーんだわ、俺。
……まともなやつに、な」
笑った。けれど、目は笑っていない。
「男ってさ、命令すんのよ。褒める代わりに。
“もっとやれ”“黙ってろ”“そうじゃねぇ”ってなァ〜。
……そんで殴る。急にキレてさ。酒臭い拳で。
まぁ、俺の親父とか、そのギャンブル仲間とか、なんだけどさーァ」
静かに、グラスを置いた。
「でも女は違った。
あの頃、親父に連れていかれた夜の店にいるお姉さんたちは──俺のこと、“かわいぃ〜”って言ってくれた。
何にもしてないのに、抱きしめて、撫でて、キスしてくれてさァー。
……あれはヤバいぜ〜?
そりゃあ〜、好きになるだろ」
チャットは鼻を鳴らして笑った。
「それからずっと、俺は“愛されてるフリ”を探してる。
すぐ飽きられるって分かってても、やめらんねぇんだよ。
……バカみてぇ〜にな」
ヴィンセントは何も言わなかった。
ただ、氷の溶ける音だけが、部屋を満たしていた。
「……でもさ。たまーに思うんだよ」
「ん?」
チャットは、グラスの中の氷をじっと見つめながら言った。
「“この中のどれか、ほんとは俺のことずっと見ててくれる女なんじゃねぇか?”って。
──そう思った瞬間が、一番こえぇ〜のな」
「なんでだ?」
「その子のこと、本気で好きになっちまいそうだからだよ。
──そしたら俺、じぇーんぶバレちまうからさァ〜。
笑ってるのも、強がってんのも、さ。
本当はずっぅーと、誰かに抱きしめてほしかっただけだって──バレるだろ?」
ヴィンセントは、そっとボトルを手に取った。
何も言わずに、ただチャットのグラスに酒を注ぎ足した。
「……つーかさァ〜、ジョージのやつ」
唐突に名前を出したチャットに、ヴィンセントがわずかに眉を動かす。
「なんつーの……ぜってぇ感情見せねぇくせに、こっちの内臓だけ引っ張り出してくるじゃん、あの野郎。
腹立つくらい、静かで、怖いんだよなァ〜」
チャットは、ウイスキーをひと口、喉に流し込む。
「何にも言わねぇのに、見透かしてくんのよ。
笑ってても、嘘ついてても、女といちゃついてても。
──“で、ほんとは?”って目で見てきやがる」
氷をゆっくりと回した指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「……なのにさ。
アイツ、自分のことはぜっっったい喋んねぇの。過去も、傷も、望みも。
全部、黙って飲み込んで、それで済ませる。……どこまで自分に課してんだか」
チャットは少し笑った。
どこか、諦めと、憧れが混じった笑いだった。
「──だからさ。なんか、勝てねぇなって思っちまうんだよ。ああいうやつには。
……勝たなくていいのに、なァ〜」
氷が崩れて、2つ、静かにぶつかった。




