【066話番外編】13歳ジョージ:少年は、奪われた尊厳を、無言のまま、再構築した。
ロッカールームには、湿った熱気と濡れた布の臭いがこびりついていた。
シャワーの音が壁に跳ね返り、生徒たちの笑い声が混じる。
その中を、ジョージは黙って歩いた。視線は前だけを見ている。
彼はシャワーを使わない。
必要ない。汗は拭けばいい。
ロッカーの前でタオルに手をかけた、そのとき。
「なあ、ジョージ」
低い声。
振り返ると、同じ学年の男がいた。上背のある体育会系。
その背後に、さらに2人。シャワーの音が、どこか遠くなった。
空気が、一気に冷えた。
「そのシャツ、今欲しいんだよな。
なあ、ちょっと貸してくんね?
ついでにズボンも」
笑っていた。悪意を隠す気配はなかった。
それが一番寒気を誘った。
冗談めかして伸びた手。
ジョージは動いた。
無言のまま、わずかに重心をずらし、柔道の崩しで落とす。
バランスを奪い、床へ。
鈍い音。
だがすぐ、両脇から別の腕が伸びた。
後ろにも気配。囲まれていた。
肘で払い、捻る――が、数が勝つ。
踏みつけられ、押さえつけられる。
指が喉元を掴む。呼吸が詰まる。
暴れることはできても、自由はなかった。
タオルが剥がされ、シャツが引き裂かれる。
冷たい空気が肌に触れた。
ぞっとするほどの無防備。
「わっ、マジで脱がしたー!」
「やべー、こいつ腹筋すげぇじゃん!」
笑い声が弾けた。
その声が、どこから聞こえているのか分からなかった。
ただ、頭の奥に響いていた。
大人は来ない。誰も止めない。
目が合っても、誰も、何もしなかった。
ジョージの指が、床を探った。
何も掴めなかった。
抵抗は無意味だった。
奪った衣服を手に、3人は廊下へ逃げていった。
誰も追わない。誰も止めない。
湿った沈黙だけが残された。
一糸纏わぬ姿のまま、ジョージはそこにいた。
音も、動きもなく。
彼はゆっくりと息を吐いた。
怒りでも、羞恥でもない。
「次にどう動くか」を考えていた。
体は乾いていた。だが、着るものがない。
その事実だけが、冷静に頭を満たす。
ジョージは黙ってロッカーを閉じ、裸足のまま歩き出した。
小石を踏んだが、無視した。
向かう先は隣の保健室。
人の気配はなかった。
整然と並んだ白いカーテン。
“誰のための”整然だったのか、もはや分からなかった。
ジョージは、無言でその端に指をかけた。
そして――一気に、レールごと引きちぎった。
鋼のような沈黙の中で、金属が軋みを上げる。
それは、怒鳴ることも泣くことも許されなかった少年の、
たった一度きりの、無言の抵抗だった。
ジョージはその布を手に取り、レールを外し、肩にかけた。
腰に結び、もう一方を肩から斜めに背中へ回す。
古代ローマ人のような姿。
鏡で確認する。
そこに映るのは、裸を隠した少年ではなかった。
奪われた尊厳を、自分で包みなおした人間の姿だった。
そのままドアを開けた。
誰にも目を向けず、黙って廊下を歩いた。
視線を感じたが、気にしなかった。
笑い声も、追ってはこない。
教室に入った瞬間、空気が変わった。
教師が立ち上がる。ざわつきが走る。
「ジョージ……!? それ、どうしたんだ?」
「服、奪われたので」
声は静かだった。
表情には何も浮かんでいない。
怒られる覚悟は済んでいた。
必要なのは、「次の手段」だった。
誰かが笑った。
だが、ジョージは反応を返さなかった。
その笑いは、もう敵ではなかった。
◇
校長室
「君は、何を考えているんだね、ジョージ!」
ドアが閉まると同時に、怒声が飛んだ。
灰色の口髭。整ったスーツ。
老校長が机の向こうから睨んでいる。
「学校の備品を破壊し、それを着用して教室に現れるなんて!
どういうつもりだ!」
ジョージは椅子に座り、背筋を伸ばしたまま無言だった。
口元も、動かない。
「これは器物損壊だ!
保健室に無断で侵入し、カーテンを破壊。
挙句、それをまとって授業?
規律違反にも程がある!」
校長が拳で机を叩いた。
その瞬間。ジョージが初めて口を開く。
「――質問、していいですか」
静かな声だった。
校長は言葉を止める。
「……なんだね」
「服がなくなったとき……どうすればよかったんですか」
「は?」
老校長の眉がぴくりと動く。
「全部、奪われたんです。
シャツもズボンも下着も。
奪われて、まわりにも先生いなかった。
このまま裸で出たら、それこそ“もっと怒られる”って思いました」
「……だからって、備品を……!」
「じゃあ、どうすればよかったんですか?」
再び、沈黙。
ジョージの声には怒りも悲しみもなかった。
だが、冷ややかな事実だけが積み上げられていく。
「笑われるのもイヤでした。
裸で歩くのもダメ、って言うなら、
カーテン使うしかなかったんです」
一拍置いて。
「違反って言うなら、怒られるのはわかってます。
でも、自分としては……しょうがなかったと思ってます」
校長の声が、わずかに落ちた。
「……学校にはルールがある。
皆が安全に過ごせるように……」
「……じゃあ聞きますけど」
ジョージは視線を逸らさずに、静かに言った。
「“ちゃんと安全に過ごせなかった”生徒がいたときって、そのルールって、
《《誰のためにあるんですか?》》」
校長は反論しかけて、言葉を飲み込んだ。
ジョージの目が、それを射抜いていた。
「……たぶん、大人が考えてるルールって、“何も起きない”って前提なんですよね。
でも、“起きた後のこと”は、書いてない」
しばらく沈黙があった。
校長の目が、机の端に置かれた時計を泳ぐ。
だが、時間は止まってなどいなかった。
「……なら、なぜ先生を呼ばなかった。
なぜ、すぐに職員室に駆け込まなかった」
「すぐに? あの状態で?」
ジョージの声が、わずかに鋭さを帯びた。
「裸で? 誰かに見つかるまで走って?
僕が“悪い”って言われる未来しか、想像できませんでした」
「……それでも!」
校長が感情をあらわにした瞬間、
ジョージは、わずかに口角を下げ、低く言った。
「僕は、“裸で歩いて笑われても仕方ない子”だったんですね」
一瞬、空気が止まった。
「“正しいことをすれば、守ってもらえる”っていうなら、
僕はとっくに救われてました」
校長は口を開きかけたが、言葉が続かなかった。
叱る顔のまま、声だけが止まった。
ジョージは淡々と続ける。
「カーテン使うか、裸で歩くか、2択しかなかったんです。
僕は、カーテンを選びました。
でも、それがルール違反って言うなら……次は、裸で歩きます」
わずかに肩を上げて、息を整えた。
「どっちがマズいか、はっきり決めてください。
ちゃんと紙に書いてくれたら、それ守ります」
声に怒気はなかった。
だが、その“《《従う姿勢を装った拒絶》》”は、
大人にとって最も扱いづらい沈黙を生んだ。
声はまだ幼かった。
だがその従順は、鋭い拒絶だった。
その中で、ジョージがふと言った。
「僕の服を奪った彼らには……特に処分は、ないんですね」
校長が言葉を探している間に、続ける。
「まあ、期待してないです。
里親のとこから来てる子なんて、“扱いやすい方”ですからね。
先生方も大変です。順番、ありますもんね。
でも僕は、僕で決めたんです。
自分のことは、自分で守るって」
声色は穏やかだった。
けれど、言葉の刃は鋭かった。
「君は、自分が正しいとでも言うのか?」
ジョージは立ち上がる。
「謝れって言うなら、言います。
でも……反省は、しません。
だって僕は、逃げたわけじゃない。
自分で立って、自分で決めたことですから」
頭を下げ、ドアへ向かう。
足音は静かだった。
だが、背中には一切の屈服がなかった。
ドアノブに手をかけたその背中を、校長が呼び止めた。
「ジョージ……君は、何年生だったか?」
「7年生です」
「……まるで、戦争を何度も経験した軍人のようだな」
ジョージは何も言わず、ドアを開け、廊下へと消えた。




