【49話番外編】「お前はアメリカ人だ」
金属製のスプーンがテーブルに触れる、かすかな音。
それが、まるで爆発音のように頭の奥に響いた。
「いただきます」
──こいつは今、何を言った?
食堂の空気が凍りつく。
周囲の子供たちが息を呑み、視線を伏せる。
誰もが見て見ぬふりをするなかで、ただひとり、小さな少年がトレイの前で手を合わせていた。
──日本語。
喉の奥が焼けるように熱くなる。
違う。
それは怒りではなく、もっと冷たく、もっと苦い感情だった。
男は静かに立ち上がった。
足音が、重く響く。
少年はまだ気づいていない。
だが、周囲の子供たちは悟っていた。
どうなるかを知っていた。
この場所では、外国語は「死」を意味する。
それを守れなかった子供たちが、何人も闇の中に消えていった。
数ヶ月の訓練のうちにアメリカ人、アメリカ英語として適応できなかった者たちは、生き延びることさえ許されなかった。
男は知っていた。
この少年も、今ここで捨てなければ、いずれその道をたどる。
だから──心を鬼にした。
バンッ!!
テーブルを叩く音が、食堂に響く。
スープが波を打ち、パンが転がる。
少年がびくりと肩を震わせる。
「何を言った?」
静かに問いかける。
少年は答えない。
小さな拳をぎゅっと握りしめ、震えをこらえている。
──それでいい。
ここで反抗すれば、もっと酷いことになる。
何も言わず、従うことが生きる術だ。
しかし、少年は震える声で呟いた。
「Nothing……」
かすれた声だった。
それは、「間違った」と悟った者の声だった。
男はその目を見た。
──怯えている。
だが、それだけではなかった。
ほんのわずかに、消えかけの灯のようなものがあった。
それが消えるのは、まだ少し先かもしれない。
「お前はもう日本人じゃない」
少年の目が揺らいだ。
蛍光灯の冷たい光が、そのわずかな表情の変化を浮かび上がらせる。
それでも、男は続ける。
この言葉を刻みつけなければならない。
少年に罪は無い。
あまりにも理不尽だ。
しかし、この少年を、守るために必要だった。
「お前はアメリカ人だ」
少年の肩が、かすかに震えた。
小さな手が、スプーンを握り直す。
それを確認すると、男は黙って席に戻った。
──許してくれ。
本当は、もっと優しくしてやりたい。
言葉を選んでやりたい。
だが、それではこの子は生き延びられない。
心を鬼にするしかなかった。
それが、この世界で子供たちを生かす唯一の方法だった。
食堂には、それ以上の会話はなかった。
ただ、男の胸には、少年の怯えた目が深く突き刺さったままだった。




