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049:お前はもう日本人じゃない

 店内は騒がしかった。

 子どもの笑い声。食器が擦れる音。

 ファミレス特有の柔らかい照明が、料理を照らしていた。


 ナンシーの前にはグリルサーモンとマッシュポテト。

 ジェシカはチーズバーガーに山盛りのフライ。

 リリーは、マカロニ&チーズをフォークでかき回している。

 ジョージの皿には、チキンサラダとスープだけ。


 その向かい。

 ワラビーのテーブルには、ダブルチーズバーガーとベビーバックリブ。

 そして山盛りのポテトフライ。

 明らかにオーバーだった。

 最初は値段を気にしていた。

 だがジョージが一言、口にした。


「お前のは俺が奢る。好きなものを、腹一杯食え」


 それでこの量だった。


「ワラビー、なんでいるの?」


 ジェシカの声に呆れが混じる。


「いや~、なんか流れでついてきちゃった〜」


 頬をかきながら、ポテトを一本くわえる。

 緊張感という概念が欠落している。


 ナンシーがふと思い出したように言った。


「そういえば、日本ってご飯を食べる前に言う言葉があるわよね?」


 ジェシカが顔を上げた。


「え? 何それ?」

「いた……なんだっけ?」


 視線が、自然とジョージに向かう。


「ジョージ、日本語でなんて言うの?」


 リリーも、スプーンを握ったまま見上げてくる。


「しってる? しってる?」


 ワラビーも無邪気に口を挟む。


「へぇ、日本語ってそんなルールあるんすね。ジョージさん、教えてくださいよ」


 ジョージはフォークを手にしたまま、視線を落とした。


 一瞬、時が止まる。


 ──いただきます。


 それだけのことだった。

 だが、喉が詰まる。

 声が、出なかった。


 違和感。

 言葉が、口の奥にひっかかっていた。


 舌に、妙な苦味が滲んでいく。


 ◇


 ステンレスのトレイ。

 冷えたパンとスープ。

 殺風景な食堂。無言の列。


 8歳の自分。

 椅子に座り、小さな手を合わせた。


 ただの癖だった。無意識だった。


「いただきます」


 スプーンがテーブルに当たる。

 他の音は、すべて消えた。


 ──空気が変わった。


 目線が突き刺さる。

 喋ってはいけない何かを口にした感覚。


 向かいの少年が、目を伏せてスプーンを置いた。

 隣の少女は、音もなく席を立ち、背を向けた。


 足音が背後から迫る。


 反射で背筋が伸びる。

 次の瞬間――


 机が叩かれた。

 乾いた音が、身体を揺らす。

 スープが波打ち、パンが転がる。


「何を言った?」


 静かな声だった。

 だが、胸を押し潰すほど重い。


 口が勝手に動いた。


Nothing(なにも)……」


 かすれた声。

 喉が絞まる感覚。


 拳が震えた。


 誰も何も言わなかった。

 だが、空気が言っていた。


 ──日本語を話すな。

 ──命を失うぞ。


 足元が、音もなく沈む。

 ぬかるみのように。終わりのように。


「お前はもう日本人じゃない」


 静寂が、耳を締め付ける。


「お前はアメリカ人だ」


 否定も拒否も許されなかった。


 スプーンを握り直す。

 言葉を飲み込み、沈黙を選んだ。

 スープをすくい、喉に流す。

 それだけ。


 会話は、なかった。


 ◇


「ジョージ?」


 ナンシーの声。

 遠くで誰かが名前を呼ぶ。


 気づくと、全員の視線がこちらを向いていた。

 ジェシカ、リリー、ワラビー。

 誰もが何かを察したような目をしていた。


 ジョージは視線を落とす。

 フォークを持った指が、わずかに動いた。


 目の前には、ただのサラダ。

 温かい料理の匂い。

 人の笑い声。柔らかな照明。


 あの食堂ではない。

 これは、ファミレスだ。


 息を吐く。浅く、静かに。


 数秒の沈黙。


 喉の奥の詰まりを断ち切るように、声を出した。


「……イタダキマスだ」


 思った以上に、低い声だった。

 だがそれでも、誰も言葉を返さなかった。


 リリーが満足げに笑い、ジェシカが小さく頷く。

 ナンシーは何かを飲み込むように、穏やかに微笑んだ。


 ワラビーだけが、無邪気に肉を頬張りながら言った。


「へぇ、やっぱかっこいいっすね、日本語」


 ジョージは何も言わなかった。

 ただ、無言のまま、フォークを刺した。



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