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048:戦うな。ためらうな。逃げろ

 ジムの扉が、乾いた音を立てて跳ね上がった。


「ここにいると聞いて! ジョージさん!!」


 朗々と響く声。場の空気が揺れた。


 ナンシーが振り返り、ジェシカが身を起こし、リリーが瞬きをする。

 入り口に立っていたのは、190センチの巨体――ワラビーだった。


 額には汗。顔には満面の笑み。

 本人だけが平常運転だった。


 ジョージは眉間にわずかなシワを寄せた。


「……ジェシカ」


 疑いを含んだ視線を送る。

 ジェシカは口元を押さえて笑いを堪えていた。


「だって、ワラビーも護身術に興味あるって言ってたし」

「興味本位でやるものじゃない」


 乾いた声で返す。

 だがワラビーは構わず一直線にジョージの正面まで歩み寄る。


「ジョージさん! ……いや、師匠!! オレにも教えてください!」


「師匠?」


 耳慣れない単語に、首を傾ける。

 ナンシーが小さくため息をついた。


「ちょっと、部外者に教えるのは……」

「お願いします!!」


 拳を握ったまま、ワラビーは勢いよく頭を下げた。

 その直線的な動きに、ナンシーの口が一瞬、止まる。


「……あなた、本当にやるつもりなの?」

「はい!」


 即答。呼吸すら挟まなかった。

 ナンシーがジョージを見る。


「ここは君のジムだ。君の判断にまかせる」


 ジョージは短く頷いた。

 ナンシーがワラビーに向き直る。


「学生向けのジム会員があるけど、それに入ってくれれば正式に教えられるわ」

「もちろん入ります!

 今すぐ申し込みます!」


 その即決ぶりに、ナンシーは苦笑し、カウンターへ向かった。

 ワラビーが改めて振り返る。


「お願いします!

 師匠に教わりたいんです!」


 ジョージは無言で、ワラビーの耳元を見た。

 ピアスがひとつ、鈍く光っていた。


「ファッションなのは構わないが、やるならまずその耳につけたピアスを外せ。怪我をする」


「えっ!? ってことは…」


 返事の代わりに、ジョージは小さく頷いた。

 ワラビーは即座にピアスを外し、ポケットへしまう。

 顔を上げたときには、満面の笑みが戻っていた。


 ジョージは小さく息をついた。


「……わかった」



 マット中央に立たせる。


「……まずは“倒れ方”を覚えろ」


 低い声が空間を締めた。

 ジムの空気が、一段深くなる。


「え、倒れ方?」

「受け身だ。予想できない角度で吹き飛ばされることもある。

 受け身が取れなければ、命を落とす」


 ジョージは正面に立ち、肩へ手を伸ばす。


「軽く押す。力を抜いて、背中で落ちろ」

「は、はいっ!」


 合図と同時、軽く肩を押す。

 だが巨体は耐え切れず、尻から落ちた。

 マットが低く唸る。リリーが小さな声をあげた。


「……背中で受けろ。力を抜け。頭を打ったら終わりだ」


 その瞬間、過去が脳裏を横切る。

 視線が天井に逸れた。


「……俺が15の時だ。道場仲間が車に撥ねられた。目の前だった」


「えっ?!」


 ワラビーの目が見開かれる。


「それで、どうなったんですか?」


「完璧な受け身だった。

 ボンネットの上を転がり、衝撃を逃して、軽傷で済んだ。

 彼女は俺より柔道がうまかった。

 ……あのとき、技術が命を救った。

 倒れ方を知らなければ、あいつは死んでた」


 静かな声に、誰も言葉を挟まなかった。


 ワラビーが小さく頷く。

 ジェシカの横顔に影が落ちる。何かを察した表情。


「まず倒れ方を覚えろ。立ち方は――そのあとだ」


 視線で4人を捉える。

 静かに言った。


「だが護身術は、戦うためのものじゃない」


 ナンシーの息が止まり、ジェシカが耳を澄ます。


「最優先は逃げることだ」


 淡々と続けた。


「どうしても逃げられない時だけ、相手を怯ませる。

 そのための手段を教えている」

「でも、もし追いかけられたら?」


 ジェシカが口を開いた。声に不安がにじむ。


「だから、一発で決めろ」


 ジョージは短く切り返す。


「ためらわず動け。

 相手の足を踏め。

 喉を狙え。

 目を突け。

 迷うと捕まる」


 リリーが小さく呟く。


「リリーは?」

「君は大きな声を出すんだ」


 リリーが大きく息を吸って、叫ぶ。


「たすけてー!」


 ジムに響く幼い声。

 ジョージはわずかに頷いた。


「それでいい」


 ナンシーが息を吐き、ジェシカもワラビーも、無言で頷く。


「忘れるな。戦うな。ためらうな。逃げろ」


 それだけ言い残し、ジョージは再び指導に戻った。



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