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044:守りたかっただけなのに、傷つけた

 パンケーキの甘さが、まだ舌の奥に残っていた。

 ナンシーは子どもたちの身支度をしながら、どこか上の空だった。


 あの背中と、焼きたての温もりが、頭の隅にまとわりついて離れない。


 ジョージは食卓に何も言わず、ただ手を動かしていた。

 朝食を作り終えると、リッジラインのキーを取り、玄関を出た。


 「周辺の様子を見てくる」


 低く、それだけ。

 今もまだ戻らない。


 ふとした瞬間、違和感が刺す。

 バッグがない。

 視線を巡らせる。

 定位置のフックにも、ソファの脇にもない。


 ――ああ。


 ローグの後部座席に置いたままだ。


 ナンシーは無言で立ち、キッチンを抜ける。


 ガレージへ通じるドアを開けると、ほんのわずかに冷たい空気が頬をなぞった。

 薄暗い空間。

 コンクリートに滲む油の痕と、うっすらと湿った匂い。

 ローグへと歩を進める。


 ドアハンドルに指をかけかけて――止まった。


 感覚が、何かを捉えた。


 運転席のボディに目を凝らす。

 違う。

 あの傷が、ない。


 フロントからリアにかけて、深く抉られていたはずの線。

 昨日、自分で確認していた傷跡が、跡形もなく消えている。


 ――まさか。


 思い当たる人物は一人だけだった。

 ジョージ。

 彼ならやる。言わず、見せず、痕跡も残さずに。


 修理か、カモフラージュか。それはわからない。

 ただ、確かにそこにあった痛みの痕が、今はもうない。


 ナンシーは、ボディに手を当てた。

 金属の冷たさの中に、ごく微かに残るぬくもり。

 その向こうに、彼の無言の手仕事が透けて見えるようだった。


 かすかに笑った。喉の奥で、小さく。


 そのとき。

 家の中から足音。小さく、弾む音。


「ママー! おはよう!」


 リリーの声が跳ねる。

 続いて、ジェシカ。まだ眠たそうな目で、ゆっくりと歩いてくる。


「おはよう、リリー。ジェシカ」


 ナンシーは自然な声で応じ、ガレージを後にした。


 が――


「……え?」


 リリーがリビングに入った瞬間、ぴたりと足を止めた。


「すごーい!」


 テーブルの上を見て、目がまんまるになる。

 パンケーキ。ベリー。バター。

 シンプルだが、どこか温かい、誰かの気配が残る朝食。


「ジョージィーが言ってたパンケーキだ!!」


 リリーは駆けて、椅子に飛び乗った。

 「ふわふわ!」と声を弾ませる。


 ジェシカも足を止めた。

 だが、視線は皿ではなく、ナンシーの顔を見ていた。


 目線が、頬に落ちる。

 ナンシーの心臓が一拍、遅れた。


 ――しまった。


 昨夜、冷やしたはずだった。

 だが、腫れはまだ残っていた。

 うっすらと青黒い痕が、頬に浮いている。


「……ママ、それ」


 ジェシカの声が静かに刺さる。


「転んだのよ」


 ナンシーは軽く笑ってみせた。

 だが、ジェシカの目は冷めていた。


「嘘だよね」


「嘘じゃないわ」


「そんな転び方しない。

 ……殴られたみたいじゃん」


 リリーが手を止めた。

 不安そうに、母と姉の顔を見比べる。


「ママ、いたいの……?」


「大丈夫よ、リリー」


 ナンシーは柔らかく微笑んだが、ジェシカは引かなかった。


「誰かにやられたんでしょ。言ってよ」


「……だから、違うってば」


「本当のこと言って!」


 声が強くなる。

 空気がピンと張る。

 リリーがびくっと肩をすくめた。


「お姉ちゃん……」


「ママが嘘ついてるの!」


「ジェシカ……やめなさい」


 ナンシーの声が硬くなる前に、ジェシカが食い下がる。


「じゃあなんでジョージがいるの?

 ボディーガードなんて必要あるの?」


 ナンシーの呼吸が止まった。

 喉の奥に、説明しきれない現実がひっかかる。


「……それは……」


「なにか隠してるんでしょ?

 ずっと思ってた」


 ジェシカの目は、怒りと怯えが混じっていた。

 ナンシーは言葉を飲み込んだ。

 キングスリーの名を出せば、すべてが瓦解する気がした。


 そのとき――


 玄関のドアが、静かに開いた。


 ジョージが帰ってきた。

 無言で一歩踏み入るその気配に、場の空気が一変する。


 ナンシーとジェシカがそちらを見る。

 リリーだけが、無垢な笑顔で彼を見上げた。


「ジョージィー! パンケーキおいしいよ!」


 一瞬。

 ジョージの目が、わずかに細められた。

 リリーに向けられたそれは、かすかな微笑のようでもあった。


 だが、ナンシーとジェシカに視線が移った瞬間、彼の表情はもとに戻る。

 硬質な無表情。

 整えられた戦闘モードの顔。


 「……何かあったか」


 そのひと言が、朝の静けさを裂いた。

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