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043:もう一度、朝を迎えるために


 意識が、浅い水面に浮かび上がるように戻った。


 ナンシーは、カーテンの隙間から差し込む細い朝光にまぶたを持ち上げた。

 ぼやけた視界。

 家具の輪郭が、まだ夜の名残を引きずっている。


 ――ソファで寝たんだ。


 背筋を起こすと、肩からブランケットがずり落ちた。

 誰が掛けたのかは分かっている。

 考えるまでもない。


 昨夜の記憶。

 痛みと、酒と、崩れた自分。


 声を殺して泣き、あの肩に身を預けた。

 ナンシーは額を押さえる。

 最悪だった。


 みっともない姿。

 なにを言ったかも曖昧だ。

 ただ、すべてを晒してしまった気がして、胃の奥が冷たくなる。


 そのときだった。

 微かな音。

 台所のほう――金属と油の、淡い生活音。


 顔を上げた。

 足裏に意識を戻し、静かに立ち上がる。

 まだ少しフラつく。


 キッチンの入り口。

 ナンシーの足が止まる。


 ジョージがいた。


 無言のまま、淡々と作業をしている。

 ボウルに残った生地をすくい、フライパンに流す。

 ジュッという音。

 パンケーキだ。


 その姿は、まるで何事もなかったかのようで、逆に胸を締めつけた。

 声をかけようとしたが、先に彼が言った。


 「……起きたか」


 背を向けたまま、低く。

 ただそれだけ。


 ナンシーは答えず、ゆっくりとキッチンに入る。

 テーブルの端に、整然と並べられた皿。

 バター。イチゴジャム。メープルシロップ。


 パンケーキはどれも小さかった。

 子どもが食べやすいサイズ。


 彼の背を見つめたまま、ナンシーは立ち尽くす。


 彼は、何も言わない。

 慰めも、詫びも、気遣いもない。


 しかし、


 静かに伝わってくる。

 「朝を迎えろ」と、背中が言っていた。


 ナンシーは皿に手を伸ばす。

 焼きたてのパンケーキに、ほんのりと熱が残っていた。

 指先にその温もりがじわじわと染みてくる。


 ナイフに手をかけかけて、やめた。


 ――これは、手で食べるべきだ。


 そう思った。


 パンケーキを小さくちぎり、そっと口に運ぶ。

 甘く、やさしい味が広がる。


 脳裏に浮かぶ。

 三年前の朝。

 夫トムと、まだ小さかったジェシカが、キッチンでふざけながら作っていた。

 焦げた生地、笑い声、溶けるバターの匂い。


 そしていま――


 ここにあるのは、静かな背中と、積み上がるパンケーキ。


 ナンシーは目線をあげた。

 ジョージは、変わらずフライパンの前に立ち、生地を流している。


 火加減を確認し、黙々と次の一枚を仕上げる。

 無駄のない動き。必要なことだけをやる男の、それだった。


 声にならない思いが、胸に滲んだ。


 「……ありがとう」


 ナンシーがかすかに呟くと、

 ジョージは振り返らず、短く答えた。


 「気にするな」


 その背中がすべてを背負っていた。

 言葉以上の、強さと、やさしさがあった。

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