041:あんな金、受け取るべきじゃなかった。でも、ジムを続けたかった
ジョージはリビングに戻り、冷蔵庫を開けた。
水のボトルを取り出し、キャップをねじる。
無言で口をつけ、喉を通る冷たさを確認する。
そのとき。耳が、何かを拾った。
ガレージから、車の音。
エンジンの低い振動。日産・ローグ。
ヘッドライトの光が窓越しに揺れ、室内を切り取るように照らした。
ボトルをキッチンカウンターに置く。数秒。
ドアが開いた。
ナンシーだった。
視線を向けた瞬間、違和感が走る。
眉間がわずかに動いた。
頬のあざ。
うっすらと腫れ、青黒く変色している。
新しい傷――殴られた跡。
言葉はなかった。
ただ、冷凍庫を開け、保冷剤を取り出す。
タオルで包み、手渡した。
「……どうした?」
ナンシーは視線を落とした。
「……別に」
そのまま、ジョージの横をすり抜けていく。
保冷剤を頬に押し当てながら、冷蔵庫からウォッカのボトルを引き出した。
グラスは使わない。
キャップをひねり、そのまま喉へ流し込む。
ジョージは動かなかった。
「……飲みすぎだ」
苦笑。
ナンシーはさらに一口、煽る。
「放っといて」
かすかに震える声。
沈黙が、キッチンを包んだ。
だが、長くは続かない。
笑った。
短く、乾いた音。
「……バカみたい」
ぽつりと、落ちた。
「全部……最初から分かってたのに」
ジョージは視線を向ける。
ナンシーの手が震え、ボトルがテーブルに打ちつけられた。
肩が、小刻みに揺れる。
涙を拭こうとするが、間に合わない。
指先で乱暴に目元をこする。
「最初から分かってた……
あんな金、受け取るべきじゃなかった。でも……
どうしようもなかった……ジムを続けたくて……」
声が崩れる。
言葉の狭間に、息が混じる。
抑えきれないものが、ひび割れてこぼれていた。
ジョージは黙っていた。
「……でも、もう客は減る一方。
あの男のせいで……出資者?
違う、支配者よ……
好き勝手に振る舞って、私のことも――」
言葉を切った。
目を閉じ、かぶりを振る。
「もうやだ……」
そこで、何かが壊れた。
ナンシーは、力を抜いた。
ゆっくりと、重力に従うように、ジョージの方へ寄ってくる。
抱きつくでも、手を伸ばすでもない。
ただ、倒れるように。
ジョージは、一瞬迷った。
動けば支えられた。
だが、動かなかった。
そのまま、受け止めた。
ナンシーの額が、肩に触れる。
湿った髪が首筋にかすかに触れた。
濡れたシャツ越しに、震えが伝わる。
泣き濡れた肌の匂い。呼吸の熱。
ジョージは、息をひとつ吐いた。
軽い。
だが、背負ってきた重さは――そうではなかった。
ナンシーは泣いていた。
肩を震わせ、音を立てずに、ただ静かに。
しばらくして、嗚咽が収まっていく。
涙が乾き、呼吸が落ち着いてくる。
「……」
ジョージはそっと、ナンシーの肩を揺らす。
「ナンシー」
返事はなかった。
視線を向ける。
――おかしい。
寄りかかっていただけの身体が、完全に預けられている。
呼吸は深く、重さが増している。
――寝たか。
ジョージは、深く短く息を吐いた。
言葉はひとつ。
「……仕方ねぇな」
気配を崩さぬよう、体をわずかに沈める。
右腕をナンシーの背に回し、左手で膝裏を探る。
ゆっくりと持ち上げた。
重さはなかった。
けれど、力の抜けた身体には輪郭がなかった。
崩れものを抱えるような、柔らかくも不穏な手応え。
一歩踏み出す。
床のきしみを避け、足音を殺す。
呼吸が浅くなりすぎないように整えながら、
ジョージは、慎重にソファへと歩を進めた。
膝をつく。
動きを止め、重心を下ろす。
そのままナンシーを預ける。
クッションが静かに受け止めた。
彼女の腕がわずかに動く。反射か、記憶か。
ブランケットを手に取り、肩から胸まで覆う。
生きている。そう感じるだけの、微かな熱が残っていた。
終わったはずだった。
だが――
ナンシーの指先が、シャツの裾をつかんだ。
眠ったまま、確かに、握った。
反射でも、無意識でもなかった。
何かを失わないように、掴む動きだった。
「……トム」
かすれた声が落ちた。
空気に混じって消えていくような、か細い響き。
だが、そのひと言は、しがみつくような強さを持っていた。
ジョージはしばらく動かなかった。
視線だけを、そっと下げる。
指が、自分の服を離そうとしない。
そっと、手を重ねた。
冷えていた。
汗と涙に濡れた肌。夜の湿度が絡んだ指。
自分の掌が、わずかに反応した。
震えた。
刹那。
制御の届かない領域が、微かに揺れた。
自覚する前に、指先が動いていた。
ジョージは、すぐに息を整えた。
呼吸を深く。
震えは、手のひらに押し込んだ。
力を込め、指をそっと外す。
ブランケットの端を整え、肩までかけ直す。
無言で立ち上がる。
振り返らない。
余計な視線も言葉もない。
ただ、背中の奥に残った感触だけが、
確かに“何か”を刻んでいた。




