036:誰にも守られなかった日々に、君がいたら
家の中が眠りに沈む。
ガレージの奥に、微かな電子音と金属が擦れる音がこだましていた。
テーブルにはパーツの山。
その前でジョージは、静かに指を動かしていた。
手先は正確だった。
薄暗いランプの光の中、迷いのない動きが続いていた。
そのとき、背後でわずかな足音。
ジョージは視線を作業から離さず、気配だけを拾う。
躊躇いのにじむ歩み。声より先に誰かが立ち止まった。
「……ジョージ」
声が小さい。だが聞き覚えがある。
振り返るまでもなく、ジェシカだった。
ジョージは溜めていた息をそっと吐き、作業を続けた。
「まだ起きてたのか」
「……うん」
ジェシカは静かにガレージへ入ってくる。
いつもの勢いはない。足取りが控えめだ。
ジョージの隣に立ち、手を握りしめながらぽつりとこぼす。
「……ごめん」
ジョージの眉がわずかに動いた。
だが、手は止めなかった。
「もう終わったことだろ」
「でも……」
「謝るのはもう十分だ」
声は淡々としていた。乾いたようでも、突き放すものでもない。
「ナンシーにも怒られただろ? 俺がこれ以上言うことはない」
ジェシカは口を開きかけて、閉じる。
そのまま視線を横にずらし、ジョージの横顔を盗み見る。
「……本当に強いのね」
ジョージは手を止めた。
わずかに間を置いて、作業を再開する。
「何がだ?」
「何がって……」
ジェシカは肩をすくめる。
「今日、ワラビーを軽く投げたし、何されても全然動じなかったし……
それに、さっきみたいに何も気にしてないし」
ジョージは小さく鼻を鳴らす。
「強いってのは、そういうもんじゃない」
「じゃあ、どういうの?」
ジェシカが身を乗り出す。
好奇心の温度が少しだけ上がった。
ジョージは手を止め、ドライバーを静かにテーブルへ置く。
視線を前に泳がせながら、低く言った。
「……俺は、元々は弱かった」
ジェシカの目が大きくなる。
「え?」
「子供の頃、痩せてて、体が小さかった。
今でも小さいけど、あの頃はもっとな」
「へぇ……身長、なんで伸びなかったの?」
問いは純粋だった。無邪気なまま。
「……伸びるタイミングを、間違えたんだろうな」
淡々とした口調だった。
成長は10歳前後で鈍っていた。
医者に言わせれば、彼の場合、原因は飢餓とストレス。
見えない複数の手が背骨を1本ずつ、じわじわと押し潰していた。
「だから、よくいじめられたよ。
転校も多かったし、性格も暗かった。
……周りにアジア人もほとんどいなかったしな。目立ったんだろう」
言葉に感情の起伏はない。ただ事実の並列。
「殴られるのも、押し倒されるのも日常だった。
抗おうとしても、力じゃどうにもならなかった」
ジェシカが眉を寄せる。
「助けてくれる人はいなかったの?」
少し間を置いて、ジョージは言った。
「いなかったわけじゃないが、自分でどうにかするしかなかった」
「それって辛かったでしょ?」
「……そうだったかもな」
まるで他人の人生を語るような声だった。
「私なら、ジョージのこと助けたのに」
その言葉に、ジョージはゆっくり瞬きをした。
口角が、わずかに上がる。
純粋な言葉は、時に一番鋭い。
“なぜ誰も助けなかったのか”と、過去の自分に問うように響いた。
「それは頼もしいな」
言葉だけをそっと返す。
ジョージは彼女を責めない。ただ、そこにいた。
「……それで? いじめられて、どうなったの?」
ジェシカが訊いた。
ジョージは語りを継ぐ。
「最初は、仕方ないと思ってた。
体が小さいなら勝てない。抗えない。
そういうもんだって、自分に言い聞かせてた」
言いながら、拳を軽く握る。
「でも、ある時、柔道を知った」
「……」
「力で押し返すんじゃない。
相手の力を使って崩す。
自分の体をどう動かせば、どう倒れるか――
“正面突破だけが戦い方じゃない”って、そこで知った」
ジェシカは息を殺して聴いていた。
「真っ直ぐ進めないなら、横道でも探せばいい」
そこでふと、呟くように付け足した。
「……どこかで見たな、
“挫折しそうなときは、左折しよう”(※)
絵本のタイトル、だったかもしれない」
声に感情はなかったが、そこには諦めとは違う静かな意志があった。
「体が小さくても、方法さえ知っていれば抗える」
「それで、いじめられなくなったの?」
ジョージは目を細めた。
「そう簡単にはいかなかったけどな」
わずかに笑う。その笑みは、過去と距離を取るためのものだった。
「だが少なくとも、ただ殴られて終わる日は確実に減っていった。
もっと強くなるために、他の武術も学んだ」
ジェシカはうつむき、考えるように黙った。
沈黙。
だが、ふと視線を上げた彼女は、唐突に訊いた。
「ねえ、そういえば、ジョージ。……彼女いるの?」
◇
※同タイトルで実在