②犠牲を払えば助かる? そんなものは、戦場では何の意味も持たん
撤収のサイレンが響く軍の仮設基地。
夜明け前の冷たい空気の中、兵士たちは無言で装備を片付けていた。
ジョージは医療テントで処置を受け、意識が朦朧としている。
その外では、ある男の怒声が響いていた。
「貴様、自分が何をしたのか理解しているのか!」
中隊長の声はまるで死体安置所の空気のように冷たかった。
誰の皮膚にも触れず、骨まで鋭く響いてくる。
仮設司令部のテントの中、ヴィンセントは硬い椅子に腰掛け、腕を組んでいた。
190センチを超える黒人の大男。
淡い褐色の肌と、光の加減で色を変えるヘーゼルの瞳――
いくつもの時代と民族の記憶が、彼という男の中で交わっていた。
ただ座っているだけで、周囲の空気が緊張する。
今、その全身が怒りの熱を孕み、沈黙の中で軋んでいた。
「ええ、もちろんです。
俺は、仲間を見捨てなかった」
「ふざけるな!」
中隊長は机を拳で叩いた。
「貴様の勝手な行動で部隊全体が危険に晒された!
戦場でのルールを忘れたのか!」
ヴィンセントは目を細め、鼻で笑った。
「へっ! ルールねぇ……
確かに俺は命令を無視しました。
でも、じゃあ聞きますよ」
椅子の背にもたれ、皮肉気な笑みを浮かべる。
「どれだけあいつから恩恵を受けてきたか、ちゃんと数えましたか?」
中隊長は眉をひそめた。「何の話だ?」
「何人の兵士があいつに命を救われたか、言えますか?」
ヴィンセントの声には怒りが滲んでいた。
「ジョージは戦場のルールを理解していた。
俺たちよりもずっとな。
必要なら殺す?
そんなもんじゃない。
アイツは《《必要だから殺す》》んだよ。
俺たちは無表情で敵を殺すアイツを気味悪がってた。
でも……アイツがいたから、何人の仲間が生き延びた?」
感情の昂りが抑えられず、所々に第二母語であるルイジアナ訛りのフランス語が滲む。
中隊長が口を開く前に、ヴィンセントは続けた。
「敵に包囲されていた時、あいつが突破口を作った。
負傷兵が出た時、アイツが最後まで援護した。
誰よりも前線で戦って、誰よりも敵を倒し、誰よりも多く手を汚した。
それでも……置いていけだと?」
ヴィンセントは鼻で笑った。
「ふざけるな。
あいつは俺たちを助けるために何度も命を張ったのに、心を削ったのに、いざあいつがやられたら、簡単に見捨てるのか?
そんなのクソみたいなルールだ」
中隊長の目が鋭く光る。
「我々は、全員を助けるヒーローじゃない」
声には一片の感情もなかった。
中隊長は無言のままヴィンセントを見据えた。
その目は人間ではなかった。
ヴィンセントは吐き出す。
「俺たちの役目は、自分だけ安全に撤退することじゃねぇ。
仲間と共に生き延びて、次の戦場に立つことだ。
俺は知ってるぜ、アイツがいなきゃこの部隊は何度も崩壊してた。
お前にとっては、何も感じずに命令に従うだけの、都合のいい道具だったんだろ。
人付き合いも感情もねぇから、壊れても誰もなんも痛まない。
だから、あっさり捨てられると思ったんだよな」
ヴィンセントは立ち上がり、部屋を見回した。
そこには他の兵士たちも数人いた。
「Et vous aussi, bande de lâches !!!!」
(テメェらも同じだ、腰抜けどもが!!!!)
突然の怒声に、兵士たちは身を竦める。
ヴィンセントの巨体が、まるで獣が威嚇するようにわずかに前傾し、その両肩は地響きのような怒気を纏っていた。
目が鋭く光を反射し、その色は怒りでより深く、より危うく染まっていた。
「ジョージからどれだけ恩恵を受けた?
どれだけ助けられた?
なぁ、言ってみろよおい!!
アイツがいたから生きてるヤツは何人いる?」
誰も何も言えなかった。
「怖かった?
気味悪かった?
処刑人だ?
ふざけるな!
戦場じゃ何が重要かはっきりしてる。
優秀なアイツがいたから俺たちは勝ち続けたんだろ?」
ヴィンセントは拳を握りしめる。
「ジョージが倒れた時、お前らは真っ先に言ったよな。
“置いていけ”って。……そんなに簡単に、切り捨てられるのか?」
誰も目を合わせようとしない。
「……俺にはできねぇ」
ヴィンセントは深く息をつき、中隊長を睨みつける。
すると、中隊長はゆっくりと口を開いた。
「助けられなかったわけじゃない」
ヴィンセントの眉がピクリと動く。
「……Quoi…?!」(……何!?)
「だが、助ける余裕がなかった」
中隊長は静かに続けた。
「撤退戦でなければ、あるいは戦線が維持されていたなら、救出の選択肢もあったかもしれん。
だが、あの状況で最優先すべきは部隊の安全だった。
犠牲を払えば助かる?
そんなものは、戦場では何の意味も持たん」
「……ふざけんなよ」
ヴィンセントは唇を噛み、拳を握りしめた。
「意味がねぇ?
じゃあ、テメェは戦場で何を見てきた?」
「戦争の現実だ」
中隊長は冷静に言った。
「お前がどう思おうと、我々は感情で動く組織ではない。
軍は理想で戦うものではない」
「……そんなクソみたいな組織、こっちから願い下げだ」
ヴィンセントは深く息をつき、中隊長を睨みつける。
「それが軍隊の規律だ」
「だったら、そんな規律は俺にはいらねぇ!!!
Allez vous faire foutre!!!」
ヴィンセントは両手をテーブルにつき、真っ直ぐに言い放つ。
――最上級の侮辱。
――フランス語に乗せた、痛烈な拒絶。
だが本人でさえも、何を言ったのか気がついていなかった。
怒りで体が震える。
奥歯が鳴る。
だが、指先は死人のように異様に冷たい。
血が巡らないほど、強く拳を握りしめていた。
「俺はジョージを助けた。
あいつは“処刑人”だったかもしれない。
でも、俺にとっては相棒だった。
あんたたちがなんと言おうと、それだけは変わらねぇ」
中隊長は沈黙した。
ヴィンセントは息を吐き、ゆっくりと直立する。
「もういい。俺はここを辞める」
「……本気か?」
「本気さ。ここにいたら、また同じことが起きる。
俺には、もうそんなのはごめんだ」
ヴィンセントは一瞬だけ中隊長を睨みつけ、踵を返した。
“ジョージを見捨てない” と決めたあの瞬間に、彼の軍人としての人生は終わっていたのかもしれない。
だが、それでいい。
ヴィンセントはジョージを見捨てなかった。
それが、彼の選択だった。
◇
BGM:
MILLENNIUM PARADE
“Fly with me”
平井堅
“グロテスク(feat.安室奈美恵)”