999:エピローグ後日談
朝の陽ざしが、キッチンの棚を斜めに照らしていた。
マルタが湯を沸かしていると、リビングのほうで新聞の紙音と、低く驚いた声が響いた。
「……おい、マルタ」
声の調子に、彼女はふと手を止めた。
「何?」
「見ろよ、これ……間違いねぇ。あの子だ」
ピーターはダイニングの椅子に腰かけたまま、新聞の一面を指差していた。
その先には、見慣れた顔――あの夜、自分たちの風呂で震えていた、小柄な男の写真。
《ビーンズヒーロー、命をかけた救出劇》
《元軍人、銃を使わず未成年を救出――ジョージ・ウガジン氏、現在も集中治療中》
記事の中には、彼が誘拐された少女を救出したこと。
爆発した際には少年と少女をかばい、銃を使わず脱出したこと。
その後、自分が囮になり敵を引きつけ、その後崖下に転落しながらも、奇跡的に生還したこと。
今も病院で意識が戻らないこと――
そして、その行為を称える声がSNSで急速に広がっていることが、簡潔に綴られていた。
マルタは椅子に腰を下ろし、新聞を覗き込む。
「……ジョージ」
彼女の声は、どこか遠くを見るように静かだった。
ピーターがコーヒーを一口すすった。
「間違いねぇ。顔つきも、目の奥も……あの時のまんまだ」
マルタはゆっくりと新聞に手を添える。
インクの匂いと活字のかたちが、昨夜の出来事をもう一度、現実に変えていく。
「まだ……意識が戻ってないのね」
「ああ。でも、生きてる。
記事には、そう書いてある」
ピーターは一瞬だけ目を伏せ、再び記事に目をやる。
「銃を持ってたのに、撃たなかった……
……自分の身体で、子どもを守ったってよ」
マルタの瞳が、ほんの少し潤んだ。
けれど、それを拭くことなく、ただ新聞を見つめ続けた。
「……怖かったのね。
あの夜、あんなに震えて……
あの子、自分が壊れるくらい、誰かを守ったのね」
ピーターは新聞をゆっくりとたたみ、テーブルの上に置いた。
その動きには、どこか慎重な、畏敬に近い所作があった。
「人間、壊れるほどの何かを背負った時だけ……あんな目になるんだな」
マルタは紅茶のカップを彼の横に置き、少しだけ微笑んだ。
「また、来てくれるかしら。元気になったら」
ピーターはしばらく窓の外を見ていたが、小さく頷いた。
「来るさ。無言で礼を言いにくるタイプだ。
その時ゃ、またワッフル焼いてやろうぜ」
ふたりのあいだに、言葉のいらない静寂が落ちた。
窓の外、風が木々を揺らし、陽が差し込んでくる。
その柔らかさが、新聞の活字を少しだけ温めていた。
◇
――1ヶ月半後
12月半ばの午後。
街路樹はすっかり葉を落とし、枝だけが空に突き出ていた。
風は冷たく、どこか湿った雪の匂いを運んでくる。
舗道には霜が降り、踏むたびに靴底が細かく鳴った。
白いサバーバンが、霜に縁どられた通りをゆっくりと曲がり、一軒の家の前で止まった。
エンジン音が消えると、風が木と家の隙間を縫う音だけが残る。
運転席から降りたヴィンセントが、助手席のドアを開けた。
中から現れたジョージは、グレーのトレンチコートの襟を立て、風を受けながらゆっくりと立ち上がった。
足元はレザーのブーツ。
表情に陰は残るが、その背筋はまっすぐだった。
その姿は、以前よりもやや痩せて見えたが、立っているだけで空気に“意志”のようなものをにじませていた。
まだ万全ではない。
だが今日ここに来たのは、誰かに言われたからではない。
自分の意思で、恩を返すために。
門の前で立ち止まり、深く息を吸う。
ヴィンセントがちらりと横目で見た。
「行くか?」
ジョージは無言で頷き、ゆっくりと歩き出した。
玄関のチャイムを押す前に、扉が開いた。
ピーターが、剪定ばさみを片手に立っていた。
その目が、ジョージを捉える。
一瞬、何かを測るような沈黙。
そして、口角がほんのわずか、上がった。
「遅ぇぞ」
そのひと言に、ジョージはかすかに眉を動かした。
「……はい。すみません」
ピーターは剪定ばさみを適当に脇に置き、扉を大きく開けた。
「上がれ。ワッフルは、焼いてある」
◇
ダイニングのテーブルには、暖かい紅茶と、焼き立てのストロープワッフル。
バターがわずかに溶け、香ばしい香りが漂っていた。
マルタはエプロン姿のまま、穏やかな笑みをたたえていた。
「よかった。来てくれて。
ずっと待ってたのよ」
ジョージは少しだけ、視線を落とした。
そして、椅子に腰を下ろし、ゆっくりと頭を下げる。
「あの時は、本当にありがとうございました。
助けていただいたのに、お礼も言えず……」
マルタがそっと、彼のカップに紅茶を注ぐ。
「お礼なんていらないのよ。助けられる人を助けただけ。
でも……来てくれたことが、一番嬉しいわ」
その言葉に、ジョージは一瞬だけ息を止めるような間を挟んだ。
そして、小さく、目を伏せて頷いた。
ピーターは新聞の切り抜きが貼られた冷蔵庫をちらりと見やった。
「お前の顔、ずっとここに貼ってあったんだぜ。
この家で、ずっと見張ってた」
ジョージは、それに気づいていた。
リビングから見える冷蔵庫に、自分の名前と顔がある。
活字の中の自分が、ここで、静かに生き続けていたのだと。
彼はほんのわずかに、口元を動かした。
「……照れますね、そういうの」
ピーターが鼻を鳴らすように笑った。
「いいだろ。たまには、誰かに見守られてるってやつも」
ヴィンセントが紅茶をすする音が、部屋に柔らかく響く。
日差しが、ゆるやかにカーテン越しに差し込んでいた。
ジョージはストロープワッフルを手に取り、しばらく見つめたあと――
静かにひと口、かじった。
甘さが、喉を通った。
あの夜は感じなかった“味”が、いま、確かに口の中に広がっていた。
マルタが穏やかに言った。
「……ね、美味しいでしょ?」
ジョージは、わずかに目を細めて頷いた。
「はい。とても」




