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【116話番外編】名前を生きる日

名前を捨てる日、名前を生きる日


 俺は、この仕事を長くやってきた。

 証人保護プログラム。

 何百人、何千人もの証人を新しい人生へ送り出してきた。

 彼らの命を守り、過去を消し、別の人生を与える。

 たとえ、それが望んだものではなくとも。


 ——あの少年も、そのひとりだ。


 マジックミラー越しに、部屋の中を見た。

 8歳の少年。

 日本人。

 名前は「的居誠」。


 もう、その名前は使えない。

 今日、この瞬間から。


 資料の情報では、「痩せ型」「身長はやや低め」とだけ書かれていた。

 だが実際に見ると、もっと小さく、もっと弱々しく、もっと惨めに見えた。

 暗い部屋の片隅で縮こまり、肩を震わせている。

 顔は上げない。

 目も合わせようとしない。

 けれど、泣いてはいなかった。


 泣く力すら残っていないのか、それとももう諦めているのか——。


 俺はふと、数週間前に初めて顔を見た孫のことを思い出した。

 まだほんの小さな赤ん坊だった。

 温かくて、泣き声がうるさくて、力いっぱい小さな手を動かしていた。

 「生きよう」としていた。


 だが、今ミラー越しに見ている少年は、その真逆だった。

 死んでいないだけの存在。

 呼吸をし、心臓を動かしているだけの生き物。

 生きようとする意思が、どこにも感じられなかった。


 俺はファイルを閉じ、静かに扉を押し開ける。

 鉄の軋む音が、部屋の中に響いた。


 少年は動かない。


 金属製のテーブルの前に座り、目の前に書類を置く。

 「お前の名前は、今日から変わる」

 低く、静かな声で告げた。

 感情は込めない。

 込める意味はない。


 少年がわずかに顔を上げた。

 黒い瞳が俺を見る。

 まるで、空っぽの井戸の底を覗き込むような目だった。

 何の感情もない。

 希望も、怒りも、絶望すらない。


 リストを差し出す。

 「ここから選べ」


 少年は黙って紙を見つめた。

 目は動かず、指先だけがわずかに震えていた。


 やがて、低くかすれた声が漏れる。

 「……ウガジン……?」


 目をやると、そこにそんな名前はない。

 だが彼は、確かにそう言った。


 「Ugajin」

 ――記録にはないが、聞き覚えのある響き。

 日本語の姓だ。プログラムの基準からすれば不適格。


 だが、その声には、微かだが確かな意思があった。

 与えられることに慣れきった子どもが、初めて自分の手で拾い上げた何か。


 俺は迷ったが、却下する気にはなれなかった。

 黙って余白に、その名を記す。


 UGAJIN


 「……それでいい」


 少年は目を伏せ、静かに頷いた。


 「名前は?」


 少年は再びリストを見る。

 しばらく、じっと見つめていたが、不意に顔を上げた。


 「ジョージ」


 「理由は?」


 少年は少し躊躇し、それからぽつりと答えた。


 「……おさるのジョージ……好きだった」


 ——おさるのジョージ。


 俺は、ほんの一瞬だけ息を詰めた。

 この子供が、そういうものを見て笑っていた時間が、かつてはあったのだろう。

 家族と、安心して過ごせる時間が。

 けれど、今は。


 今は、こんな暗い部屋で、たった一人で、新しい名前を選ばされている。


 俺は書類に目を落とし、冷静な声で言った。

 「分かった。今日から、お前の名前は『ジョージ・ウガジン』だ」


 少年は、小さく頷いた。

 それだけだった。


 俺は立ち上がる。

 椅子を引く音が、無機質な空間に響いた。

 振り返らず、扉へ向かう。

 そこを出たら、俺の仕事は終わる。

 この子供の人生がどうなるかは、俺の知るところではない。


 ——そう、割り切るべきだった。


 だが、手をかけた扉の前で、ふと振り返る。

 少年は、こちらを見ていた。

 だが、その瞳には何もなかった。


 俺の顔など、すぐに忘れるのだろう。

 数年後には、俺のことなど何も覚えていない。

 だが、俺は、今日のことを忘れない気がした。


 自分の孫は、名前を呼ばれ、抱きしめられて、笑って生きていく。

 でも、この少年は。


 「……せめて、名前だけは、お前が選んだものだからな」


 独り言のように呟き、俺は扉を開けた。


 ——それきり、二度と会うことはなかった。



 現在


 新聞をめくるたびに、指先に乾いた紙の感触が残る。

 このホスピスに来てから、毎朝の習慣だ。

 読むスピードは落ちたが、活字を追うことはまだできる。

 世間のニュースに興奮することも、怒ることもなくなったが、こうして目を通していると、まだ世界の一部にいるような気がする。


 大統領選、経済動向、海外の戦争、どれも今の俺には関係のない話だ。

 ここにいる人間は皆そうだろう。

 静かに余生を過ごし、最後の日を待つ。


 俺はもうじき死ぬ。

 自分でも、それを驚くほど冷静に受け入れている。

 そう遠くない未来、俺の名前も消える。

 そういうものだ。


 ふと、ページをめくったとき、小さな記事が目に留まった。

 「少女を救ったボディーガード、ジョージ・ウガジン」


 思わず指が止まる。

 ΩRMという会社の男が、車に轢かれそうになった幼い少年を庇って怪我をしたらしい。

 些細な美談。

 だが、そこにあった名前——ジョージ・ウガジン で、俺は息を詰まらせた。


 まさか。


 偶然かもしれない。

 世界には似たような名前の人間などいくらでもいる。

 しかし、「ジョージ・ウガジン」という名前を俺が知っているのは、たったひとり。

 20年前、俺が名前を与えた少年。


 あの時の、あの小さな、惨めに震えていた子供。

 顔は思い出せない。

 ただ、冷たい瞳と、か細い声だけが記憶に残っている。


 「……ジョージ・ウガジン」


 俺はぼんやりと呟いた。


 ——あの時の少年が、本当に生き延びていたのか?

 そして、今、誰かを救うような大人になったのか?


 もしそうなら、それは……良かったのかもしれない。


 俺は新聞をそっと折り、窓の外を見た。

 空は澄んでいて、木々の葉が風に揺れている。

 庭のベンチでは老人たちが静かに座り、介護士がゆっくり歩行器を押す手助けをしていた。


 あの少年は、今どこにいるのだろう。

 俺のことなど、とうに忘れているだろう。

 それでいい。

 俺もまた、彼の人生に関わる資格はない。


 だが、もし——もし彼が、本当にこの世界で生き続け、誰かを救える大人になっていたのなら。


 俺は、ほんの少しだけ、安堵した。


 名前を選ばせて、よかったのかもしれんな。


 窓の外の青空を見つめながら、俺は静かに新聞を閉じた。


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