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116:名前を捨てた日

 医療機器の微かな電子音が、静まり返った病室に断続的に響いていた。


 白い天井。

 消毒液の匂い。

 薄く開けられた窓の隙間から、夜風がわずかにカーテンを揺らしている。


 ベッドの上、ジョージ・ウガジンは身じろぎひとつせず、静かに眠っていた。


 だが、その表情は穏やかではない。

 眉間にはうっすらと皺が寄り、薄く閉じられたまぶたの奥で、何かと闘うように、彼の意識は夢の底を漂っていた。



 空気はひどく重かった。

 鉄の扉の軋む音が耳に残っている。

 どこかで聞いたことのある声が、部屋の外から近づいてくる。


 ジョージ――いや、そのときの彼にとって、まだ“ジョージ”という名は存在しなかった。


 ただ、「的居誠」という過去だけが、かろうじて自分のものとして残っていた。


 部屋は薄暗く、寒い。

 金属の椅子の上で膝を抱え、彼は自分の体温だけを頼りに、小さく小さく身を縮めていた。

 視線は下。

 何も見たくなかった。

 誰とも目を合わせたくなかった。


 だが、男は来た。

 冷えた靴音。無表情の声。


「お前の名前は、今日から変わる」


 少年は、その言葉を聞いた瞬間、かすかに眉を寄せた。

 “変わる”というより、“失う”のだと――そんな実感が、胸の奥ににじんだ。

 だが、それを言葉にする気力もなかった。


 差し出されたリストには、どれも知らない名前が並んでいた。

 “使い捨ての人生”を支える、無個性な英字の羅列。


 少年はそれをじっと見つめていたが、しばらくして顔を上げた。


「……ここに、“ウガジン”って、ないの?」


 不意の問いに、男が少し眉を動かす。


「……ウガジン?」


 少年は静かに頷いた。

 ほんの少しの間、言葉を探してから、ぽつりと続ける。


「昔、日本にいたころ……兄さんと神社に行ったことがあって。

 そこに“宇賀神さま”っていう、ヘビで顔だけが人間の神さまがいて……

 よく、そこで遊んでた。

 覚えてるの、そこだけ」


 言葉はたどたどしく、だが不思議とはっきりしていた。

 目を合わせないまま、少年は続けた。


 少年は静かに頷いた。

 そして、かすれた声で言った。


 「その名前がいい……“ウガジン”が、いい」


 男は一瞬だけ黙り込んだ。

 その名は――リストにはなかった。

 本来なら却下するべきだ。予定外はリスクになる。


 だが次の瞬間、男は書類の余白に「UGAJIN」と書きながら、静かに考える。


(……日本語っぽい苗字は、本来なら避けたほうがいい。

 だが、“ウガジン”は珍しい。英語圏の人間には読めないし、発音も難しい。

 ルーツを曖昧にするには……むしろ、都合がいいかもしれない)


 マニュアルには書かれていない判断だったが、それでも男は頷いた。


 目の前の少年が、初めて「自分の意思で口にした言葉」を、そう簡単に却下する気にはなれなかった。


「……わかった。“ウガジン”にしよう」


 少年の顔が、わずかにだけ動いた。

 嬉しそうでもなく、安堵でもなく――ただ、確認するように。

 それでも、それが彼にとって「選んだ」という事実だけは、確かにそこにあった。



 問い返されることもなく、次に求められたのは、ファーストネームだった。


 少年は渡された紙を見つめた。

 アルファベットの羅列。

 英語の名前が、整然と並んでいる。

 どれも見慣れない。

 どれも、自分のものではない。


 ――なのに、不意に目が止まった。


 「GEORGE」


 男が理由を問うと、少年はほんのわずかに口元を動かし、答えた。


 「……|Curious Georgeおさるのジョージ。好きだった」


 記憶の底に、ほんの短い、笑っていた時間があった。

 テレビの前で、母の膝にもたれながら見たあのキャラクター。

 丸くて、どこかとぼけた顔の猿。

 毎回ドジを踏んで、でも最後には誰かに許される。

 小さな自分が、それを見て笑っていた記憶。


 もう二度と戻らない時間。

 だが、それが――最後に残った“好きだったもの”だった。


 「……ジョージ・ウガジン」


 その名前が口にされたとき、少年は目を伏せた。

 それはもう自分のものだった。

 与えられたのではない。自分で選んだのだと、かろうじて言える形で。


 男の声が、記録のように響いた。

 「今日から、お前の名前はジョージ・ウガジンだ」


 少年――いや、ジョージは、何も言わずにうなずいた。


 それが、終わりであり、始まりだった。


 彼は泣いていなかった。

 ただ、もう“的居誠”ではなかった。

 その名は、名前とともに、家族とともに、海の底は葬られた。


 夢の中。

 ミラーの向こう側にいた男が、扉の前でふと立ち止まる。

 最後に見たその背中のことを、ジョージはなぜか今でも忘れられない。


「……せめて、名前だけは、お前が選んだものだからな」


 かすかに残るその声だけが、夢の底で何度も繰り返された。


 その声が遠ざかっていく。

 鉄の扉の向こうへ、名を奪った男とともに。


 代わりに、別の音が近づいてきた。

 ピッ、ピッ――規則的な機械の音。

 風がカーテンを揺らし、薬品の匂いが鼻をかすめる。


 (……ここは、どこだ)


 まぶたの裏が白く光る。

 身体は重く、手足が遠い。

 それでも指先がわずかに動いた。

 何かが皮膚に貼りついている。チューブ。冷たい素材。


 目を開ける。

 滲む天井。光。ノイズ。


(名前は……)


 “的居誠”という響きが一瞬浮かび、すぐに沈む。

 代わりに、かすかに唇が動いた。


「……ジョージ」


 それだけが、今の彼に残された輪郭だった。


 視界の端で、誰かの影が揺れた。

 顔は見えない。気配だけが、かすかに残る。

 見えなくても、わかった。2人分の気配。


 ジョージは、ゆっくり瞬きをした。

 焦点が少しずつ合ってくる。


「ヴィン……セント……?

 チャット……」


 2人は笑った。


「おかえり。“ジョージ・ウガジン”」



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