113:2人の8歳の少年
それからの数日、ΩRMの中で静かな波が立った。
誰も声を荒げず、誰も問い詰めない。
だが、目配せ一つ、無言のタスク一つに、いつもと違う空気が滲んでいた。
調査は、サムに一任された。
膨大なデータと対峙する姿は、もはや“仕事”ではなく“検死”のようだった。
モニターの前に座りっぱなしの背中を、誰も邪魔しなかった。
目の下に隈をつくり、時に発作に襲われながらも、サムの指は止まらなかった。
一方、チャットは黙って彼を支えた。
モニターに映る通信記録を眺めながら、彼なりの嗅覚で穴を探していく。
「なあ、これ。明らかに“誰かが消そうとした”痕跡だぜ?
……うちのジョージ、国家レベルの事故物件ってオチじゃねぇだろうな?」
返事はない。
だが、空気が応えた。
ヴィンセントは――会社にいた。
政府からの不自然な問い合わせ。マスコミの動き。公安じみた動き。
それらを受け流しながら、彼は“表の戦場”で踏ん張っていた。
◇
数日後の夜。
ヴィンセントはひとり、ジョージの病室にいた。
人工呼吸器の音だけが、一定のリズムで鳴っている。
無言のまま眠り続ける男の傍らで、ヴィンセントは椅子に腰を下ろした。
そして、かすかに呟く。
「……お前、いったい何者なんだ」
その問いに、返事はなかった。
ただ、濡れた窓の外で、雨の音がまた静かに始まっていた。
◇
ΩRMのブリーフィングルームには、わずかな緊張が漂っていた。
サムが端末を前に座り、チャットが背もたれに腕をかけている。
そしてヴィンセントは、腕を組んだまま壁に寄りかかっていた。
モニターに表示されているのは、年代物の戸籍記録の断片。
そこに記されていた名前は――
「的居誠」
チャットが目を細めて、モニターに映る名を低く読み上げた。
「……これが“彼”だったとしても、証拠はどこにもねぇ。
記録は全部、きれいに消されてる。
家族ごと、な」
サムは無言で頷いた。
目の下には深い隈。手元のマウスを動かす指だけが、止まらない。
「国籍も出生も住民データも、全部ごっそり。
事故のあと、再構成どころか“存在してなかったこと”にされてる。
公式見解は“悪天候によるクルーザーの転覆”」
サムは画面をクリックしながら、平然と続けた。
「でさ、これ。“悪天候による転覆”って言いながら、当日の気象データはほぼ無風。
潮流も異常なし。
“死人が出ました、はい終了~”で済ませたいなら、もうちょっと頭使えよって話」
チャットが背もたれに身を預けながら、ぼそっとこぼす。
「……なあ、あんまりそういう言い方すると、死んだ人たちまでネタにしてるみてぇに聞こえるぞ」
「ネタにしてんじゃなくて、処理のされ方に問題があるって話。
“雑な仕事でした”って言ってんの。
中身がクソでも、外見だけはちゃんとしろってさ」
「お前、喪服でそういうこと言いそうだよな。
“この葬式、段取り甘くないっすか”って」
サムはちらりとチャットを見て、真顔で返す。
「言うだろ、そりゃ。
死んだ人が浮かばれねぇからな」
チャットは一瞬、返す言葉を探して沈黙した。
そのまま目を閉じ、顔をしかめて、首をゆっくり左右に振る。
「……なんか、お前と話してると、“共感”って単語が絶滅危惧種に思えてくるな」
「共感して解決するなら、とっくに全部終わってるだろ。
救われたいなら、神父かママに頼れ。
オイラが出すのは、事実だけだ」
サムは涼しい顔で画面を切り替えた。
「で――その家族ってのが」
新しい資料が映し出される。
「父・的居直己。
重工系エンジニア。アメリカ派遣中。
母・聡子。
フリーランス翻訳家。
犯罪歴ゼロ、信用スコアも優良」
缶を一口すすりながら、次を淡々と読み上げる。
「兄・剛一。
マサチューセッツ工科大学(MIT)でAI研究。機械学習の走りをやってた。
時代的にはオタク呼ばわりされてたが、当時の資料じゃ“天才”扱い。
周囲のあだ名は“未来に生きてる変人”。
……まあ、現実じゃ変人は真っ先に消される側だけどな」
チャットが、鼻で笑った。
「未来に生きてた変人、か。
……お前と一緒じゃねぇか」
「そいつは死んだ。オイラは生きてる。
つまり、まだ凡人ってことだ」
皮肉とも自虐ともつかない一言だったが、声色は変わらなかった。
チャットはしばらく黙っていたが、苦笑を漏らす。
「……にしてもさ。金も知能も揃った一家が、まとめて“事故死”。
記録はまるっと削除済みで、親族までもが日本でタイミング良く“自然死”連発。
病死、転落、ガス漏れ、単独事故。毎回死因は違うけど、結果は全部一緒」
サムはモニターを見たまま、鼻で笑った。
「これ、小説だったら即ボツだぞ?!
“偶然が続きすぎて説得力がない”“読者が納得しません”って、編集に真っ赤に直されるレベル。
“事実は小説より奇なり”って言うけどさ、あれ、現実を免罪符にしたい奴の言い訳だろ。
“奇”じゃねぇんだよ。
“構造化された静かな殺し”ってだけ。
見る側が何も考えなきゃ、どんな嘘でも成立する。
で、残った人間は、喋れば消える。だから黙る。
――それだけの仕組みだよ」
ヴィンセントは黙ったまま、目を閉じていた。
部屋の空気が、ゆっくりと重たく沈んでいった。
ジョージの中にいた“的居誠”という名。
事故で死んだことになっている少年。
過去の記録からも消え、家族ごと埋められた存在。
だが、やつれた体、瞬間的な戦闘反応、日本語の記憶、そして“あの名”――
状況証拠は、すべて一つの答えを指していた。
「……本人確認はできねぇ。
だが、矛盾も一つもねぇ」
ヴィンセントが、低く言った。
「消されてるんじゃねぇ。
“消された”んだ。家ごと、名前ごと、世界から」
静かな沈黙が部屋に落ちる。
チャットが、ふうっと息を吐いて椅子を揺らした。
「……つまり、俺たちの同僚は、“死んだことにされた少年”で――
たぶん、その正体をまだ、本人も完全には思い出してねぇってわけか」
「思い出してても、言えないのかもしれん」
ヴィンセントの声は硬かった。
「それを口にしたら、また誰かが死ぬと、知ってるのかもしれない」