112:チャット、ロンドンからの帰還
時計の針が、21時30分を指した。
ドアが音もなく開く。
雨に濡れたコートの裾を払うようにして、チャットが建物に入ってきた。
足元に残る水跡は、ロンドンからの移動が直行だったことを物語っている。
そのまま誰に声を掛けられるでもなく、チャットはΩRMの休憩室へと向かった。
首元のネクタイを緩める。
自分が勝手に設置した小さなバーカウンター
――樽型のキャビネットと、無骨なグラス2つ。
それでも、妙に空間に馴染んでいた。
既に中にいたヴィンセントが、立ち上がって迎える。
厚い掌でコートを受け取ると、無言で横のラックに掛けた。
「……おかえり」
その声には、疲労の滲む静けさがあった。
チャットは肩をすくめて笑う。
「ただいま、マスター。
常連の顔、忘れてなかったか?」
ヴィンセントは応えず、カウンター奥のボトルを取り出す。
アイリッシュ・ウィスキー。
「……こんな雨の夜に、アイリッシュってのがまた洒落てるじゃねぇか。
ばあちゃん思い出すよ」
琥珀色の液体が、重いグラスに静かに注がれる。
その手つきは、いつになく丁寧だった。
もう一つのグラスにも同じ量を注ぐと、ヴィンセントはそれを持ってチャットに向けて軽く掲げた。
「……まずは、おつかれ。
それと、祖父さんたちの国に、一応敬意をな」
「……ったく、そういうとこだよ、お前は」
チャットもグラスを掲げ、カチンと鳴らした。
「そういえばヴィンちゃん、お前の家系って結局どこの国なんだよ?」
「知らねぇよ。
じいちゃんが言ってたのはな、
“俺たちゃどこの国にも居場所がなかった分、全部持ってんだ”ってさ」
「……なにそれ、カッコよすぎ。
そういうセリフ、俺が女口説くときに取っといてくれよ」
チャットは冗談めかして笑ったが、
その目はどこか遠くを見ていた。
「……まあ、いいじいちゃんだったんだな」
チャットはひと口ウィスキーをすすった。
胸にわずかな炎が灯った。
「……で、俺がいない間に、地球の裏側で何が起きた?」
その一言に、ヴィンセントはほんのわずか、目を伏せる。
「手術は成功した。
……今はまだ意識が戻ってないが、命は、つながってる」
チャットはゆっくりとグラスを傾け、ひと口、喉へ流し込んだ。
苦くて、熱い。
だが、それより胸の奥が先に焼けた。
「そうか……あいつが、な」
ヴィンセントもグラスに口をつける。だが、酒よりも言葉が重くなる気がした。
「……ああ」
わずかに間を置いて、ヴィンセントは続ける。
「チャット。あいつ、錯乱状態になったとき――自分のことを、“マトイマコト”と名乗った」
チャットの手が止まる。
その名前に、聞き覚えはなかった。
ただ、“ジョージ・ウガジン”という名と結びつかない響きに、言いようのない違和感が残る。
「家族の話を、一切しなかったよな。あいつ」
ヴィンセントの声は、どこか押し殺すように低かった。
「無口な性格ってだけじゃない。
俺も昔はそれで納得してた。だが……」
ヴィンセントは片手で顔を撫でた。
「どんなに調べても、8歳以前の経歴が、何も残ってないんだ。
養育記録も、教育歴も。
まるで、ぽっかり空白になってる」
チャットはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らした。
「なるほどね。
そりゃ、普通の“隠し事”じゃねぇな」
椅子に深く腰を沈めながら、チャットは指を組む。
「ジョージ・ウガジンと、“マトイマコト”
――同一人物なのか、それとも別の何か……か」
ヴィンセントは、深く頷いた。
「本人が話すのを待ってもいい。
だが――その前に、調べる手は打っておきたい」
重苦しい沈黙が、一瞬だけ2人の間を通り過ぎた。
やがて、チャットがウィスキーをひと口飲んでから、ぽつりと呟いた。
「……なあヴィン。もしかして、お前――
あいつのこと、テオと重ねてねぇか?」
ヴィンセントの手がわずかに止まった。
だが、顔は動かない。
グラスの中の琥珀色だけが、微かに揺れていた。
チャットは苦笑する。
「だったら、なおさら気持ち悪いわ。
“弟ロスこじらせて拾った身代わりに全力投影”ってやつ。
……そういうの、いちばんやばいって知ってるくせに」
ヴィンセントはグラスを口に運び、ひと口だけ飲んだ。
「……うるせぇよ」
その声は小さかったが、鋼の芯が残っていた。
チャットは、わずかに笑みを浮かべた。
「……ただ、それ以前に気になることがある」
ヴィンセントが、低く切り出す。
「サムに、政府機関からのアクセスログを監視させてるんだ。
ジョージのデータだけ――異様に多い。
通常のバックグラウンドチェックなら四半期に一度くらいで済むはずだが……
あいつのログは、週に何度も動いてる。
しかも、平日昼間に限らない」
チャットの指が止まった。
「ΩRMの職員としてマークされるのは、まぁ当然だ。
元軍人の民間警備会社だからな。
でもジョージに関しては、“定期的に誰かが覗いてる”ってレベルじゃねぇ。
……まるで、“まだ何か隠してる”前提で動いてるみたいだ。
しかもDoDや、VAだけじゃねぇ。
来てるのは――FBI司法部だ」
チャットは、グラスを傾けずに目を細めた。
「……じゃあ、もしかして――」
ヴィンセントは、かすかに頷いた。
「…………WITSEC。
あるいは、……“その隠した過去”を知ってる誰か、かもしれない。
……今まで放っといたが、もうジョージ個人の問題じゃねぇ。
政府が動いてるなら、こっちの首まで飛びかねねぇ。
今回の件が表沙汰になれば、向こうも黙っちゃいねぇだろ。
……調べるしかねぇよ」
チャットは少しため息をついた。
「了解。お前がそこまで言うってことは、本気なんだな。
……なら、俺も遊びは抜きにする」
その目は、いつもの軽口とは裏腹に真剣だった。
「“ジョージ・ウガジン”の正体、洗ってみようぜ」
雨音が、外のガラスに静かに打ちつけていた。




