111:ビーンズ・ヒーロー。何回俺はテメェのケツを拭くんだよ?
5:33
廊下の向こうから足音が走る。
ドアが半ば跳ねるように開き、医師が現れた。
ゴーグルの端には汗が滲み、手袋には乾ききらない血痕が残っていた。
「今が山場だ。肝臓周辺の出血が止まらず、さっき一度、血圧がゼロ近くまで落ちた。
だが――蘇生に成功している。
あと数時間……それを越えられれば、望みはある」
ヴィンセントは黙って頷いた。
その眼差しは、医師の目を見ているようで、どこか遠くも見ていた。
医師は一拍、視線を逸らしかけて、それでも踏みとどまった。
「……あんたがやったことは、正しかったとは言えない。
だが――間に合った。
今のところは、な」
声は小さく、怒鳴ったあのときとは別の温度だった。
それは謝罪でも許しでもなく、報告の中に滲んだ、人間の感情だった。
「祈れ。今は、それしかできない。
俺も、もう少しやってみる」
だがその直後、ポケットのスマホが震える。
画面には、ΩRM本部からの着信。緊急コード付き。
社長として――逃れられない報告義務だった。
「――クソが……」
ヴィンセントは深く息を吸い、壁に背を預けて立ち上がった。
その手は一瞬、扉のほうへ伸びかけて、止まる。
「……俺は行く。けど、あいつは帰ってくる。
だから頼む、つなぎ止めててくれ」
医師は頷いた。
背を向けるのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
「……すまん、ジョージ。
今は、お前を信じるしかねぇ」
そう呟いて、ジャケットを拾い上げる。
ネクタイを締め直す手は、かすかに震えていた。
◇
赤煉瓦の壁に囲まれたΩRMのオフィスには、曇天の光が冷たく差し込んでいた。
元倉庫だった無骨な空間。
だが、その中心に立つ男の背中だけは、異様なほど静かだった。
ヴィンセント・モローは、デスクに座り次々と鳴り続ける電話や、メールの応対をしていた。
社長室は、ない。
社員同様、フリーアドレススタイルで仕事をしていく。
廃教会で爆破されたリッジライン。
残された血痕――そして、武器。
しかし、遺体は無い。
誘拐され、警察に保護されたジェシカとワラビー。
その後の処理を痕跡をなぞる様に次々と行なっていく。
口調は平静そのもので、視線もぶれなかった。
部下たちは何も言わない。
だが、その背中に注がれる視線には、沈黙以上の気配があった。
“あの爆破事件は何だったのか”
“ジョージは捕まるのか”
“俺たちは巻き込まれるのか”
誰も声には出さない。だが、その全てを、ヴィンセントは感じていた。
画面をスクロールする指が、一瞬だけ止まる。
それは、ネットニュースだった。
画面には、ナンシーと抱き合うジェシカと、その後ろに立つワラビーという大柄な少年の写真。
《銃も使わず、少女を守った元兵士》
――そんな見出しが、タイムラインのトップに躍っていた。
世間はすでに、「罪を問う」より「何が守られたか」を見始めていた。
ヴィンセントは小さく鼻で笑った。
こんな見出し一つで、すべてが覆るなら苦労はしない。
ジョージが銃を使っていなかったこと、それが今の唯一の拠り所だった。
ヴィンセントは報告書の最後にサインを入れると、ようやく顔を上げた。
窓の外、曇天の空がゆっくりと動いている。
各々の担当社員を集め、短く指示をする。
「ジョージを守る。社長命令だ。要点は3つ。
1つ、弁護士を病院に常駐。
警察からの聴取要請をすべて法的にブロック。
2つ、万が一、起訴に動いた場合は過剰防衛の否定と公的救助行為で押し通す。
証人はいる。映像はなくていい。……“撃ってない”って事実だけで十分だ」
その声は低く、だが鉄のように固かった。
「……3つ、サム。
メディア部門には“ビーンズ・ヒーロー”(※)を再点火させろ。
“ヴィーガン元兵士”ってだけでタグが何十万も跳ねたんだ。
今回は少女の命を救ってる。火力は段違いだ。
向こうが理屈で責めてくるなら、こっちは情で潰す。
構成と投入タイミングは、全部こっちで仕切る」
大きくため息をついた。
「――なんとしてでもジョージを守る。
正義ってのは、こっちが先に動いたもん勝ちなんだよ、世間ではな」
部下の一人が小さく頷いた。
「それで、ジョージは……」
誰かが口にしかけたその言葉を、ヴィンセントは右の手のひらで遮った。
「――あいつは、まだ、ここにいる」
そう言い切ったあと、ポケットの中で握られた左手が、ゆっくりと開かれていた。
10:00
スマートウォッチが短く震える。
《手術終了。容態安定。意識未回復だが、命に別状なし》
その一文を見た瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。
ヴィンセントは何も言わずに立ち上がった。
誰にも目を合わせなかった。
社長としての顔を消し、そのまま静かに廊下を歩き抜け、オフィスの裏手――倉庫棟へ向かう。
薄暗いシャッターの奥。
夜の空気が冷たく広がる、誰もいない静かな空間。
そこでようやく、足が止まった。
ヴィンセントはその場に、しゃがみ込むように膝をついた。
肩が、震えていた。
声は出なかった。涙も、最初は落ちなかった。
ただ、胸の奥が軋むように痛み、喉が焼けるように熱かった。
彼は、手のひらで顔を覆い、ゆっくりと息を吐いた。
生きていた。
あいつは――まだ、こっちにいる。
その事実が、ようやく、身体に染み渡っていく。
やがて、目元が濡れていた。
涙という実感が来たとき、初めてヴィンセントは、自分の顔を歪めた。
それは、兄としての顔だった。
そしてようやく、誰にも見せられないその崩れた姿を、誰にも見られずに済む場所で――ただ、静かに晒していた。
※【番外編】ビーンズヒーロー:勝手にヴィーガンにされたんだが……放っておいてくれないか?




