110:もう一人の弟
3:58
救急入口に、サバーバンが食い込むように割り込んだ。
深夜の空気を裂いて、ストレッチャーが搬入口を滑る。
ヴィンセントが駆け込むようにして現れ、息を切らせたまま詰め寄る。
「状態は?」
医師が叫ぶ。
マスク越しでも、声に焦りがにじんでいた。
「男性、28歳。外傷性ショック。投与薬あり」
「投与された薬は? 時間も含めて!」
白衣の医師が手袋を引き締めながら訊く。
ヴィンセントは即答した。躊躇はない。
「投与は2時間前、1回のみ。
ケタニン――錯乱抑制と鎮痛補助。
モダフェニル――覚醒維持。
デキサメタソン――脳震盪対策。
そして……フィンタニル・ロリポップ。
ただし、自発的に舐めただけ。用量不明」
その名を聞いた瞬間、医師の目が鋭くなる。
「――フィンタニルだと?」
背後で看護師が叫ぶ。
「血圧、急降下中! BP80に!」
ストレッチャーが運ばれる途中、医師はヴィンセントに怒鳴るように言った。
「あんた、正気か!?
フィンタニル・ロリポップなんて、戦場でももう助からねぇ奴が舐めるやつだぞ!?
何で生きてる奴にそんなもん舐めさせてんだ!」
ヴィンセントは息を飲み込んだ。
怒鳴られて当然だった。
それでも――あのとき、選択肢は他になかった。
「……あれがなきゃ、痛みでショックがもっと早く来てた。あいつは限界だった」
だが医者の怒りは止まらない。
「だからってフィンタニルかよ!?
痛みを抑えるために呼吸止めてたら、本末転倒だろうが!
限界だったからって、命綱を自分で引きちぎらせてどうすんだよ!」
吐き捨てるように言いながらも、医師の手は止まらない。
次の処置の指示を飛ばしながら、それでもヴィンセントを睨みつけた。
「いいか、あれは“看取るための薬”だ!
助けるつもりで使ったなら、お前が一番間違ってる!
この病院に連れてきた時点で、生かす責任は俺たちだけじゃなく、お前にもあるんだぞ!」
その一言が、刃のように突き刺さった。
ぐうの音も出なかった。反論なんか、できるはずもない。
――分かってた。
あの紫のスティックを置いた時点で、もう半分、賭けだった。
“許可”じゃない、“別れ”になるかもしれないと、わかってて、それでも。
見捨てたのは、俺だ。
あの目を見て――苦しむ姿を見て――
楽にさせてやりたい、なんて、どの口が言った。
言い訳なんて腐るほど浮かんだ。
だが全部、自分を守るための方便にしか聞こえなかった。
「……クソが……」
吐き捨てた声に、血の味がにじんだ。
医師が叫ぶ。
「グラスゴーコーマスケール、8。
昏睡域に近い!」
「気管挿管、準備!
呼吸数、補助必要!」
「ボスミル開始、昇圧剤を投与!
輸血準備!」
ヴィンセントはそれ以上、何も言わなかった。
ただ黙って、手術室へと運ばれていくジョージを見送った。
「……頼む」
それだけ呟いて、数歩だけ後ずさった。
◇
手術室のドアが開いた。
「血圧、70! ショック持続中!」
「CT? 無理だ。これ以上落ちたら止まる!」
「出血量推定、1.5リットル!」
「止血優先! 反応鈍い、意識応答なし!」
「フィンタニル、まだ残ってる。
鎮痛は効いてるが、呼吸抑制のリスク高い!」
「フィンタニルとショックが相乗的に血圧を落としてるな……
ミダゾラム少量、鎮静コントロール!
ボスミル継続、ショック管理!
……メス!」
ドクターの手が鋭く動く。
緊迫した空気の中、誰もが一秒を削っていた。
この命が、地に落ちるより速く、その手を伸ばして。
◇
手術室の扉が閉まり、赤いランプが点いたまま、静かに時間だけが進んでいた。
ヴィンセントはしばらく、廊下の一点を見つめていた。
まるでその視線だけで、ドアの向こうにいるジョージをつなぎ止めようとしているかのように。
足元がふらついた。
彼は無言のまま、壁に背を預けてずるずると床に腰を下ろす。
腕を膝にかける。大きな肩が、わずかに震えていた。
誰もいない深夜の病院。
無機質な天井を見上げたまま、ヴィンセントはそっと口を開いた。
「……神よ……お願いだ」
声はほとんど囁きだった。
まるで、自分の声にすら気づかれたくないように。
「俺は――全部の罰を受けてもいい。
だけどあいつを、連れて行くな……
あいつは……戻ってきたんだ……
まだ場所がある」
喉が熱かった。
目を閉じたまま、拳を固める。
「……これが、ほんとの最後なら……
せめて、もう一度だけ、俺が“行け”って言ってやれるように……
戻してくれ。頼む……」
ヴィンセントは、祈るように額を膝に埋めた。
出るはずのなかった言葉が、神に向かって、滑り落ちていた。
彼の中では今も、ジョージの声が、笑いが、タバコの煙と一緒に浮かんでいる。
笑っていた。
咳き込みながら、あの顔で――まるで、すべてを手放す直前のように。
「……俺が、持たせちまったんだよな」
誰もいない夜の病院で、その言葉だけが、ぽつりと残った。
「頼む……テオじゃない。
あいつはまだ、ここにいるんだ……」
その声に、もう祈りと呼べるものは残っていなかった。
ただ、一人の兄が、もう一人の弟を奪われまいと願う、切実な呼吸だけがあった。
手術室の赤いランプはまだ消えなかった。
静かに、ただ、それだけが燃えていた。




