106:“的”に“居る”子
「さて……交渉材料はもらった。
目的を聞こうか」
マリチェンコの一言に、ジョージは微動だにせず答えた。
「……キングスリーから、グレナン家への干渉を終わらせてほしい。
それだけです」
音は小さい。だが、その言葉は刃だった。
鋭く、迷いなく、冷えた空気を切り裂く。
“恋愛”などという語句は、この場に似つかわしくなかった。
言葉にせずとも、意味は伝わる。
――これは、所有欲という名の暴力の話だ。
マリチェンコの目が、ゆっくりと横に流れる。
視線の先。
キングスリーは、動けなかった。
青ざめた顔。唇を噛み、背筋だけが強張っている。
「……彼の執着は、“恋”のかたちを成していない。
私怨だ。ただの、所有欲です」
ジョージの声は変わらない。
静かで、どこか異常なほどに整っていた。
「それがグレナン家に向けられている。
その延長が、ΩRMにまで及ぶ可能性がある」
言い終えると、わずかに息を整えた。
「だから、ここで止めたい。
……それが、俺の交渉のすべてです」
沈黙。
マリチェンコは顎に手を当て、しばしジョージを見つめた。
その目は、測るようでいて、どこか試すようでもあった。
「……ふむ」
短く唸ると、彼は表情を引き締める。
「だが、君も分かっているだろう。
こんな場所に乗り込んで、話を通せるほど、我々は甘くない。
……担保がいる」
「担保ならある」
ジョージは一歩、前へ出た。
その動きはゆっくりと、しかし確実だった。
「この部屋で俺を殺した場合」
左手の親指が、スイッチの表面をゆっくりとなぞる。
その仕草に、部屋の空気が微かに震えた。
「その瞬間、ここは火の海になる。
……死体袋の手配は、必要ありません。
掃除機とモップがあれば、十分です」
口調は平坦。
だが、皮肉めいたその一言は“脅し”ではない。
まるで作業報告のような、冷静な通知だった。
「加えて――
今後、グレナン家やΩRM、関係者に危害が加えられた場合」
一拍、置いた。
「この組織の情報が、自動的に複数の媒体に拡散されるよう設定済みです」
その一言が落ちた瞬間、部屋の緊張が跳ね上がった。
音もなく、針が突き立つような変化。
マリチェンコの目が、さらに研ぎ澄まされる。
「虚勢ではないと、どう証明する?」
ジョージは、ゆっくりと首を振った。
「……証明する必要はありません。
あなたなら分かるはずです」
わずかに間が空いた。
「――俺が、今ここに来たこと。
それそのものが、“選択の余地がない”ということです」
そして、淡々と締めくくった。
「こちらは手を出さない。約束します。
グレナン家にも、ΩRMにも。
これ以上、手を出されない限り――俺は、何もしない」
沈黙。
その静けさの中、マリチェンコが問うた。
「……なぜ、そこまでする?」
その問いに、ジョージの視線がわずかに落ちた。
古い何かが、皮膚の裏でざらつく。
――的居の子。
「的に居る者」。
かつて、誰かの盾となることを使命とした家の名残。
今や口にする者もない、忘れられた役目。
けれど、背骨の芯にだけ、それは確かに残っていた。
名誉より、義。
栄光より、恥を恐れろ。
誰にも知られずともいい。
ただ己の背中に恥じるな。
「……誉れはいらない。
ただ、これ以上――自分に恥じたくなかった」
それは、ジョージの声だった。
しかし、その奥にいたのは、“誠”だった。
部屋に、再び沈黙が降りた。
遠く、USBを解析していた部下が顔を上げる。
ファイルの一つを指し示し、上官に何かを囁く。
マリチェンコは目の端でそれを捉えながらも、視線をジョージから外さない。
その眼差しの奥。
評価。
興味。
そして、処刑人に対する静かな敬意が――ごく僅かに滲んでいた。




