105:お久しぶりです。
厚い鉄扉が、内側から音を立てて開いた。
ジョージは何も言わず、セキュリティたちの視線を正面から受けながら、一歩ずつ歩を進める。
クラブ・ドミニオン、地下階。
表向きはワインセラー。
だが実態は――処理場。
冷たいコンクリートと換気ダクトの唸りが、空間を支配していた。
階段を下りるたびに、照明の色温度が青白く変わる。
空気は湿り、重く、どこか金属の臭いを含んでいる。
ジョージの足音は石床に吸い込まれ、深く沈んだ。
誘導も案内もない。
ジョージは一直線に、最奥の扉へ向かう。
ひとつ目の部屋。
並べられたワイン。真空パックされた高級食材。
見せかけの楽園だ。
ジョージは視線すら向けず、隔絶された黒い扉をそのまま押し開けた。
開いた先には、違う匂いが満ちていた。
血と鉄と、洗いきれなかった過去の痕跡。
床には洗浄の跡。
中央には拘束用の椅子。
その奥にいた男を見た瞬間、ジョージの足が、わずかに止まった。
(……まさか、あんたが)
マリチェンコ。
ΩRM創設初期。
あの一度きりの任務で顔を合わせた依頼人。
沈黙の重みと視線の鋭さは、記憶に焼き付いていた。
キングスリーの“上”。
この男だったのか。
ジョージは、半拍の間を置き、何事もなかったように声を発した。
「……お久しぶりです」
マリチェンコは口元だけを、かすかに動かした。
「まさか、生きていたとは。
……それもその姿で、だ。
崖下で死んだと聞いていたが……
いや、驚いたよ」
英語は流暢で淡々としていたが、音の奥には明確な警戒と興味が潜んでいた。
「死に損なっただけです」
ジョージの返しは、冷たく平坦だった。
肩の力は抜かれないまま、均衡を保っている。
その会話の背後。
部屋の一角、薄暗い影の中にもうひとつの存在がいた。
額に汗。
顔色が蒼白に近づいている。
ジョージの姿を、まるで亡霊でも見たように凝視していた。
キングスリー。
声も出せず、唇だけが震えている。
視線は、ジョージの顔と、胸に巻かれた爆薬へと交互に泳いでいた。
だがジョージは、キングスリーに一瞥すら与えなかった。
ただ、左手をわずかに下げ、ラップ越しのスイッチを――“それがある”という事実を――静かに示す。
「目的は明確です」
声は低く、だが室内を真っ直ぐ貫いた。
「交渉に来た。――相手は、あなたです」
マリチェンコが視線を横に流す。
そのわずかな動きに反応して、キングスリーの肩がぴくりと跳ねた。
部屋に、沈黙が落ちる。
換気ファンの音。
鉄と汗と火薬の匂いが、空気を重く染めていた。
ジョージは左手でスイッチを見せたまま、右ポケットに視線を落とす。
「……右ポケットに証拠がある」
マリチェンコが目を細め、静かに顎を引く。
すぐには動かず、合図を送る。
黒スーツの若い男が前へ出た。
顔色は硬直し、視線が爆薬の位置を泳ぐ。
地雷原を歩く兵士のように、慎重に近づく。
ジョージは一瞬、肩を動かした。
威嚇ではない。ポケットに手を入れやすくするための所作。
男の指がポケットに差し込まれ、小さなUSBドライブを抜き出す。
指先が、わずかに震えていた。
「それに、すべてが入っている」
ジョージの声は静かだった。
だが、その静けさが最も重かった。
マリチェンコはドライブを受け取り、一瞥し、すぐ後方の部下に手渡す。
「解析を急げ。……5分でいい」
命令を受けた男が頷き、ノート端末を開く。
コードが接続される音が、わずかに響いた。
マリチェンコは再び前に向き直り、ジョージを見据える。
笑っていた。
だが、その目は笑っていなかった。
「さて……交渉材料は受け取った。
次は、お前の条件を聞こうか」