103:クソみてぇな合理性 vs バカみてぇな感情
車内は、沈んでいた。
深く、重く。
白のサバーバンが夜の街を切り裂いて走る。
フロントガラスに映る光が、揺れもなく滑っていく。
助手席のジョージは窓の外を見たまま、ひと言も発さない。
ヴィンセントの指が、ステアリングの表面をゆっくりとなぞっていた。
スマホを閉じる。
深く息を吸い、吐く。
そしてダッシュボードに放るように投げ出した。
「……お前、マジで頭おかしいだろ」
声は低い。だが火がくすぶっていた。
ジョージは変わらぬ表情で応じる。
「合理的な判断だ」
「どこがだよ!!」
ヴィンセントの手がハンドルを叩いた。
怒りと呆れ、そして焦りが同時に噴き出す。
「契約解除? ふざけんな。
そんなもんで、お前を切り離せるとでも思ってんのか?」
ジョージが視線をこちらに向けた。
目に宿るのは静かな覚悟。揺れはなかった。
ヴィンセントは鼻で笑い、乾いた声を漏らす。
「……なるほどな。言いたいことは分かったよ」
ギアを踏み直す。車が再び滑り出す。
街灯の明かりがボンネットをかすめていく。
「つまり、お前の中じゃ“ΩRMを巻き込まない”って判断なんだろ。
正義感か責任感か知らねぇけどさ」
ジョージは頷く。
「そうだ。……もし俺が何かを吹き飛ばしても、
“契約は切れてる”。表向き、ΩRMには責任は及ばない」
「……だったら最初から俺を呼ぶなよ」
ヴィンセントの声が低く割れた。怒りと、哀しみが混じる。
「俺たちは“仕事”で動いてんじゃねぇんだよ。
契約解除? 他人? そんなもんで割り切れる関係だと思ってんのか」
「それでも……これは俺個人の判断だ」
「個人?」
ヴィンセントが鼻で笑う。乾いた、皮肉な笑いだった。
「ハッ! お前に“個人の判断”なんて概念があったとはな。
驚きだよ」
ちらりと横目で睨む。
「でもな、教えてやる。契約解除しても――ΩRMはお前を切れねぇ」
ジョージがひとつ、瞬きをしただけ。
それでも声は崩れない。
「契約上は、切れている」
「だから契約じゃねぇって言ってんだろうが!!!!!」
怒声が車内を叩いた。
抑えていた感情が、ついに噴き出した。
「俺はお前の書類にサインしてねぇし、今後もしねぇ!
てめぇが一方的に解除しても、俺の中じゃ“無効”だ!」
「……それは、法的には無効にならない」
「知るか!! 法なんざクソくらえだ!!!」
ハンドルが再び拳で叩かれた。
「法だの契約だの、そんなもんで全部終わると思ってんのか?!
今お前をこの車に乗せてんのは、俺だ!!
命張ってんのも、俺なんだよ!!!
契約解除でチャラになると思うな!!」
ジョージは言い返さなかった。
ただ、その怒りを真正面から見つめていた。
ヴィンセントは荒い呼吸を整えながら、吐き捨てた。
「……お前が“死ぬ前提”で話してるのが気に食わねぇんだよ」
「……俺が死んでも、お前たちの責任はない」
「お前なぁ……」
拳が握られ、そして静かに開かれた。
ヴィンセントは一度、深く息を吐いた。
「それしか……責任の取り方を知らねぇのかよ、お前は」
沈黙。
ジョージは答えない。
「お前が死んだら、
それこそ俺たちの責任だっつってんだろ」
「だが、契約上――」
「だから!! 契約上の話じゃねぇっつってんだろがよォ!!!!」
ブレーキが踏まれた。
サバーバンが路肩に寄る。
ゴォン、と車体が静かに揺れた。
ヴィンセントはジョージを睨む。
肩が上下し、声が震える。
「お前の“合理性”ってのはな、
現実も、気持ちも、人との距離感も、全部無視してんだよ!!!
だからズレてんだよ、ずっと!!」
ジョージは黙っていた。
その沈黙は否定ではなかった。
ヴィンセントは、顔を逸らす。
しばらく、沈黙が続く。
やがて、小さく呟くように言った。
「……いいさ。好きにしろ。
契約解除でも何でもやれ」
車が再び動き出す。
ヴィンセントはスマホを取り出し、ロックを解除。
ジョージの前に差し出した。
「ただし――お前が生きて帰ってきたら、もう一度契約の話をしてやる」
ジョージがスマホを見た。
ほんの一瞬だけ、表情が揺れた。
微かに、口元が動く。
「……分かった」
ヴィンセントは舌打ちした。
「Putain de merde.」
罵りの裏に、祈りが滲んでいた。
言葉にはまだ怒りの熱が残っていたが――
その奥にあるのは、拭えない願いだった。
ハンドルを握る手が、強く締まる。
顎を引き、前を睨む。
だがその目の奥には、熱があった。
瞬きすらしなかった。
見せてはならない。
弟のような相棒に、あの男にだけは――絶対に。
――生きて帰ってこい、ジョージ。
それだけが、ヴィンセントの胸に渦を巻いていた。
白のサバーバンは、夜の闇を貫いて走っていた。
遠ざかる街の灯が、ひとつ、またひとつ、背後に溶けていった。




