102:ΩRMを巻き込みたくない。
ΩRMのフロアには、夜の静けさが張りついていた。
元倉庫の天井は高く、どこか冷たい残響を孕んでいる。
空調の唸りが、かすかに耳に残るだけだった。
ジョージは無言のまま、デスクの固定電話に手を伸ばした。
動きに無駄はなかった。
受話器を肩に挟み、番号を押していく。
その様子を、ヴィンセントは書類をまとめながら横目で捉えていた。
――ああ、あの女か。
思い浮かんだのは、ほとんど同棲に近かった恋人。
たまに交わす、無音にまぎれた会話。
別れか、あるいは、最後の言葉か。
ヴィンセントは小さく息を吐き、立ち上がる。
「……コーヒーでも淹れてくるか」
そう呟いた矢先、
静寂を裂くように、ジョージの声が落ちた。
「ベネット弁護士に繋げ」
ヴィンセントの足が止まった。
頭が数拍、空白になる。
――今、なんて言った。
ジョージは変わらぬ表情で受話器を肩に挟んでいた。
最初からそのために、番号を記憶していたかのように。
「……契約解除の手続きを進めろ」
その声には、氷の刃のような硬度があった。
ヴィンセントの身体が、無意識に前へ出る。
足音を立てずに数歩、間合いを詰めた。
怒りが先に立ったわけじゃない。
違和感と、不安と、それでも信じようとする理性が入り混じっていた。
伸ばした腕で電話を止めようとする。
だがジョージは、それを肩のわずかな動きでかわした。
力は使わない。ただ、拒絶を通さない。
「即時解除だ。書面は後で構わない。……今ここで発効させろ」
ヴィンセントの感情が、とうとう臨界に達した。
「ふざけんな、ジョージ!」
怒声と同時に、受話器をもぎ取る。
コードが揺れ、機械が軋む。
通話の切断音が、無機質に空間を断ち切った。
ジョージは微動だにせず、それを見ていた。
「何のつもりだ」
「それはこっちの台詞だ。てめぇ、何やってんだよ!」
声が跳ね、コンクリートの壁に弾ける。
「契約解除? 即時発効?
会社を抜けて、全部“俺一人の判断だ”ってか。
てめぇ、それで済むと思ってんのかよ」
「巻き込む気はない。それだけだ」
「紙一枚で、責任が消えると思ってんのか?」
「責任から逃げるためじゃない。引き受けるためにだ」
「言葉遊びしてんじゃねぇ……
もしお前がそのまま帰ってこなかったら、
俺たちはどうすりゃいい?」
「その時は、すべて俺の判断だ。
表向き、ΩRMには一切影響が出ない」
「……責任じゃねぇんだよ、問題は!」
ヴィンセントが受話器を、荒々しく電話台に叩き戻した、その瞬間。
ポケットの中で、スマホが震えた。
沈黙。
ヴィンセントはゆっくりと画面を確認した。
視線が凍る。
《新着メール》
件名:業務委託契約解除通知書
送信者:ウィンザー&アシュトン法律事務所
添付ファイル:Contract_Termination_George_Ugajin.pdf
画面をタップ。
PDFが開く。白黒の公式書面が、冷たい光を放つ。
《契約解除日:本日。
乙は、甲(ΩRM)との業務委託契約を即時に解除する。
今後いかなる業務的・法的関係も存在しないものとする。》
下部には見慣れた署名。
George Ugajin
ヴィンセントは息を深く吸い、吐いた。
「……お前、マジで……」
言葉にならず、スマホを伏せる。
拳を握るでもなく、ただ、口をつぐんだ。
「……そんなもんで、全部片づけたつもりかよ」
その呟きが空気に消えかけたとき。
ジョージが静かに身を乗り出す。
左胸のポケットから、ひとつのバッジを取り出した。
黒く、擦れたIDカード。
ΩRMのロゴが、銀の箔でわずかに光っている。
言葉はない。
ジョージはそれを、ヴィンセントの掌に押し込んだ。
押しつけるのではない。
だが拒絶は許さない強さがあった。
“委ねる”という意志だけが、その所作に宿っていた。
ヴィンセントは動けなかった。
掌の中で、バッジがじわりと汗を吸う。
金属の冷たさが、なぜか火傷のように痛かった。
「……そんな顔して……」
何かを言いかけ、飲み込む。
気づけば、ジョージは背を向けていた。