表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

131/156

100:ヴィンセント、頼みがある。薬を打ってくれ。

「ヴィンセント。……頼みがある」


 静かだった。

 だが、言葉に揺れはなかった。

 助手席に沈み込むように座ったまま、ジョージが口を開いた。


 ヴィンセントはハンドルを握る手を緩める。

 視線だけを横に送る。

 返答も促さない。ただ、次の一言を待つ。


「予定通り、交渉に行く。

 ……薬を打ってくれ。

 痛みを飛ばしたい。動ける体にしてくれ」


 目は閉じたまま。

 声は掠れていたが、芯があった。

 そのまま、淡々と続ける。


「……腰に、本物の爆薬を一つ。

 他は全部ダミーで構わない。

 巻きつけてくれ。

 見せ札だ。爆発させる気はない。

 ――だが、最悪の場合は、道連れだ」


 車内に沈黙が落ちる。


 ヴィンセントはひとつ、短く息を吐いた。

 怒鳴る代わりに、唇を噛んだ。

 それが唯一、感情を抑える術だった。


「……本気か」


 低く、抑えた声。

 だが、手の血の気が引いていくのが分かる。


 ジョージは答えなかった。

 その沈黙こそが、「決めた」という返答だった。


 ヴィンセントは視線を前に戻し、言う。


 「……分かった。俺がやる」


 声に滲んだのは、悔しさ。

 語尾に沈んだのは、どうしようもない哀しさだった。


「だが、今は持ってない。

 爆薬も、注射も全部ΩRMにある。

 一度戻る。装備を整えてからだ。それでいいか」


 ジョージはうっすら目を開け、前方の闇を見た。


「……ああ、それでいい」


 その声に、僅かな揺れがあった。


 額に左手を当てる。

 指先がこめかみの上でわずかに震えていた。

 膝の上には、包まれたままのストロープワッフル。

 触れてはいなかった。


 ジョージは呟くように言った。


「……俺、自分を見失ってた」


 ヴィンセントは横目で彼を見た。

 ジョージは顔を伏せたまま、額に手を当て続けている。


「お前を……あの老夫を……

 殴ろうとしてた。

 助けようとしただけなのに。

 ――あのままだったら、殺してた。

 俺の技術なら、簡単に」


 声は淡々としていた。

 だが、言葉の奥にあるものは乾いていた。

 自己嫌悪は叫びにはならない。ただ沈むだけだ。


「SERE-Cも、捕虜の拷問も耐えたのに……

 なんで、こんなことで崩れるんだよ」


 自分への怒り。恥。理解不能な脆さ。

 それらが、言葉にならないノイズのように胸に渦巻いていた。


 ヴィンセントは視線を前に戻した。

 道路の先に、かすかなヘッドライトの光だけが続いていた。


 「……そりゃお前……」


 言いかけて、喉の奥で止める。

 “昔より、人間らしくなってきたからだ”

 そう言いたかった。

 だが、それは今のジョージには刃になる。


 代わりに、少しだけ言葉を選んで続ける。


「そりゃ訓練だったからだ。

 任務だった。殴るのも、殺すのも、“命令”だった。

 ……でも今は違う。戦場でもない。命令もない。

 全部、自分で決めてんだ。だから、苦しむ」


 ジョージは答えない。

 だがその沈黙は、否定ではなかった。


 ヴィンセントは短く間を置いて言う。


「……でも、お前は止まった。

 拳を振り切らなかった。命を奪わなかった。

 それが、今のお前だ。

 “処刑人”じゃなく、“人間”として踏みとどまった証拠だ」


 助手席の男は顔を上げなかった。


「――言い訳だ」


「違う。

 言えるうちが、人間だ。

 お前は、そこまで戻ってきたんだ。それだけで、十分だ」


 怒気も慰めもなかった。

 ただ、現実を支える言葉だけが、そこにあった。


 ジョージの指先が、ストロープワッフルの包みに触れた。

 だが開こうとはしなかった。

 まるで、それが今の自分には早すぎる“救済”であるかのように。

 

 指先が冷えていた。

 ブランケットに包まれていても、芯から温まらない。

 体の奥で、何かが少しずつ失われていくような感覚。

 吐き気も、まだ残っていた。脳震盪の影響か、それとも。

 視界の隅が、一瞬、暗くなって戻る。

 ジョージはただ黙っていた。

 名を与えなければ、それは“異常”ではない。

 まだ、動ける。それで十分だった。


 サバーバンは、闇の中を真っすぐに走っていた。

 背中には、まだ温もりが残っていた。

 だが、向かう先には冷たい決着が待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ