100:ヴィンセント、頼みがある。薬を打ってくれ。
「ヴィンセント。……頼みがある」
静かだった。
だが、言葉に揺れはなかった。
助手席に沈み込むように座ったまま、ジョージが口を開いた。
ヴィンセントはハンドルを握る手を緩める。
視線だけを横に送る。
返答も促さない。ただ、次の一言を待つ。
「予定通り、交渉に行く。
……薬を打ってくれ。
痛みを飛ばしたい。動ける体にしてくれ」
目は閉じたまま。
声は掠れていたが、芯があった。
そのまま、淡々と続ける。
「……腰に、本物の爆薬を一つ。
他は全部ダミーで構わない。
巻きつけてくれ。
見せ札だ。爆発させる気はない。
――だが、最悪の場合は、道連れだ」
車内に沈黙が落ちる。
ヴィンセントはひとつ、短く息を吐いた。
怒鳴る代わりに、唇を噛んだ。
それが唯一、感情を抑える術だった。
「……本気か」
低く、抑えた声。
だが、手の血の気が引いていくのが分かる。
ジョージは答えなかった。
その沈黙こそが、「決めた」という返答だった。
ヴィンセントは視線を前に戻し、言う。
「……分かった。俺がやる」
声に滲んだのは、悔しさ。
語尾に沈んだのは、どうしようもない哀しさだった。
「だが、今は持ってない。
爆薬も、注射も全部ΩRMにある。
一度戻る。装備を整えてからだ。それでいいか」
ジョージはうっすら目を開け、前方の闇を見た。
「……ああ、それでいい」
その声に、僅かな揺れがあった。
額に左手を当てる。
指先がこめかみの上でわずかに震えていた。
膝の上には、包まれたままのストロープワッフル。
触れてはいなかった。
ジョージは呟くように言った。
「……俺、自分を見失ってた」
ヴィンセントは横目で彼を見た。
ジョージは顔を伏せたまま、額に手を当て続けている。
「お前を……あの老夫を……
殴ろうとしてた。
助けようとしただけなのに。
――あのままだったら、殺してた。
俺の技術なら、簡単に」
声は淡々としていた。
だが、言葉の奥にあるものは乾いていた。
自己嫌悪は叫びにはならない。ただ沈むだけだ。
「SERE-Cも、捕虜の拷問も耐えたのに……
なんで、こんなことで崩れるんだよ」
自分への怒り。恥。理解不能な脆さ。
それらが、言葉にならないノイズのように胸に渦巻いていた。
ヴィンセントは視線を前に戻した。
道路の先に、かすかなヘッドライトの光だけが続いていた。
「……そりゃお前……」
言いかけて、喉の奥で止める。
“昔より、人間らしくなってきたからだ”
そう言いたかった。
だが、それは今のジョージには刃になる。
代わりに、少しだけ言葉を選んで続ける。
「そりゃ訓練だったからだ。
任務だった。殴るのも、殺すのも、“命令”だった。
……でも今は違う。戦場でもない。命令もない。
全部、自分で決めてんだ。だから、苦しむ」
ジョージは答えない。
だがその沈黙は、否定ではなかった。
ヴィンセントは短く間を置いて言う。
「……でも、お前は止まった。
拳を振り切らなかった。命を奪わなかった。
それが、今のお前だ。
“処刑人”じゃなく、“人間”として踏みとどまった証拠だ」
助手席の男は顔を上げなかった。
「――言い訳だ」
「違う。
言えるうちが、人間だ。
お前は、そこまで戻ってきたんだ。それだけで、十分だ」
怒気も慰めもなかった。
ただ、現実を支える言葉だけが、そこにあった。
ジョージの指先が、ストロープワッフルの包みに触れた。
だが開こうとはしなかった。
まるで、それが今の自分には早すぎる“救済”であるかのように。
指先が冷えていた。
ブランケットに包まれていても、芯から温まらない。
体の奥で、何かが少しずつ失われていくような感覚。
吐き気も、まだ残っていた。脳震盪の影響か、それとも。
視界の隅が、一瞬、暗くなって戻る。
ジョージはただ黙っていた。
名を与えなければ、それは“異常”ではない。
まだ、動ける。それで十分だった。
サバーバンは、闇の中を真っすぐに走っていた。
背中には、まだ温もりが残っていた。
だが、向かう先には冷たい決着が待っていた。