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099:ストロープワッフルと老夫婦との別れ

 白いシボレー・サバーバンの助手席で、ジョージは深く身体を沈めていた。


 シートはやや倒され、ブランケットが細い肩を包んでいた。

 閉じた瞼の奥では、まだ何かと格闘している。

 戦場の残響が、肉体を離れきれていない。


 車外で、ヴィンセントが玄関先に立つマルタとピーターに向き直る。


「助けていただいて、本当に感謝してます。

 もし何か壊れていたら、どうか連絡をください。

 名刺に私の直通番号が書いてあります。

 こちらで対応させていただきます」


 マルタがすぐに首を横に振った。


「いいえ、気にしなくていいのよ。

 私たちがしたかっただけのことだから」


 ピーターも横でうなずく。


「風呂のタイルの1枚や2枚、どうとでもなる。

 命が残ってりゃ、それで十分だ」


 ヴィンセントは少し息を吐き、短く笑った。


「……ありがとうございます。

 ジョージに代わってお礼申し上げます。

 救われました、本当に」


 その視線が自然にサバーバンへ向かう。

 マルタもそれを追い、助手席の影に視線を落とした。


 ――もたれかかるように座る、痩せた体。

 額にかかる髪。沈んだ輪郭。

 眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか。

 マルタは眉を寄せた。。


「それより、早く病院に連れてってあげて。

 表面は平気でも、内臓がどうなってるかわからないし、

 頭も打ってるかもしれない」


「ええ。向かいます。きちんと診てもらいます」


 その真摯な返事に、マルタはようやく肩の力を抜いた。

 だが、すぐにまた家の中へ引き返し、しばらくして戻ってくる。


 手には小さな包み。

 布に包まれた中身は、ラップ越しに形のわかるワッフル。


「これ、故郷――オランダの食べ物なの。

 ストロープワッフル。

 よかったら、車の中ででも食べて」


 ヴィンセントは受け取ると、ほんのわずか目を伏せた。


「……いただきます。

 あなたたちのこと、私は忘れません。

 心から感謝しています」


 包みから、かすかに甘い香りが立ち上った。

 夜の空気に、一瞬だけ灯りのように揺れる。


 マルタとピーターは何も言わず、

 ただ、白い車が闇の中へ滑り出すのを見送っていた。



 夜の道路を、白のサバーバンが走る。

 街灯もまばらな郊外。

 ヘッドライトの光だけが、闇を押し返している。


 助手席のジョージは、窓に視線を向けたまま動かない。

 その瞳は、景色を追っていなかった。

 見るというより、ただ“外”に触れていた。


 しばらくの沈黙のあと、低い声が落ちた。


「……ジェシカとワラビーは?」


 ヴィンセントは視線を前に向けたまま、即答した。


「無事だ。

 コナーが引き継いだ。

 今頃はナンシー達と一緒に警察署で保護されている」


 ジョージはわずかに頷いた。

 目を伏せる肩が、静かに揺れた。

 それが痛みなのか、別の感情なのかは分からなかった。


 エンジンの振動だけが、会話の余白を埋めていた。


 やがてヴィンセントが言う。


「チャットに連絡した。

 ロンドンから呼び戻してる」


 ジョージの目が、微かに動いた。

 だが、声は一言だけ。


「……なぜだ。必要ないだろ」


 その言葉に、ヴィンセントの声色が一段低くなる。


「あいつは副社長だ。

 会社に関わることには、責任がある。

 俺が必要だと思った。それだけの話だ」


 返答はなかった。

 ジョージは視線を落としたまま、何も言わない。


 ヴィンセントはひとつ息を吐く。

 それは苦笑にも似た、乾いた間だった。


「……本人は“いよいよ俺の映画的登場か”とか言いそうだな。

 “タラップ降りる時に風が吹いてるといいな”とか」


 助手席で、わずかに反応があった。

 目尻が、ほんの数ミリだけ動いた。

 笑ったのか、それすら判断のつかない微細な変化。


 ヴィンセントは、声を戻す。


「……ただ、トラブルがあってな。

 フライトが遅れるそうだ。

 チャットの帰国は、明日の夕方以降になる」


 ジョージは頷いた。

 再び、静寂。


 夜が車内に満ちていく。


 その中で、ジョージが低く、言葉を落とした。


「ヴィンセント。……頼みがある」

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