098:俺だ。ヴィンセントだ。お前の相棒だ。迎えに来た
浴室の床に、男がうずくまっていた。
湯気が空気を鈍らせ、匂いと湿気が肌にまとわりつく。
裸の背中が震えていた。
泥と血の筋が皮膚にこびりついたまま。
拳で顔を覆い、身を固めている。
そこにあるのは兵士ではなかった。
怯えきった、ただの人間だった。
ピーターは言葉を失っていた。
目の前の男に、どう声をかけていいかもわからず。
ただ、そこにあるものの重さだけが圧を持って迫っていた。
「ピーター! 何今の音?!」
慌ただしくマルタが飛び込んでくる。
その背後に、見慣れない男がいた。
黒人、スーツ姿。だが、只者ではない。
上質な濃紺のジャケットは前を留めず、裾がわずかに乱れていた。
ネクタイも少し曲がっている。
革靴には土埃。額に汗。肩がかすかに上下していた。
だが、背筋は折れていない。
短く刈り込まれた髪と、芯の詰まった体幹。
ただ立っているだけで、空間が静まる。
ピーターは本能的に半歩、後退した。
「……誰だ?」
その問いに、男が一礼した。
「ヴィンセント・モローと申します。
彼……ジョージは、うちの大切な社員です。今、駆けつけました」
低く、かすれた声。
走ってきた直後の息づかい。
だが言葉には威圧もなく、礼節と責任だけがにじんでいた。
ヴィンセントは、ためらいなく膝をついた。
湯気の向こう、震える男――ジョージの前に。
「社員?」
「ええ。ボディーガード専門の会社です。
ΩRM――身辺保護や危機対応を専門にしてます」
そう言って、彼はジョージの肩にそっと手を置いた。
その背は丸まり、まるで幼児のようにうずくまっていた。
額に濡れた黒髪。顔を隠す拳。
むき出しの体には、生傷と泥と、過去が貼りついていた。
ジョージ。
あの、冷静無比な男が――。
ヴィンセントの中で、何かが軋んだ。
だが、顔には出さない。
支える側に立つと決めた以上、感情は後回しだ。
似た光景は、戦場で何度も見てきた。
魂を置き去りにし、帰還だけが終わった兵士たちを。
ヴィンセントは声を落とす。
低く、確かに、届くように。
「ジョージ……聞こえるか?
俺だ。
ヴィンセントだ。
お前の相棒だ。
迎えに来た」
次の瞬間だった。
ジョージが突然、跳ね起きた。
虚ろな目。焦点の合わない視線。
反射のように、左腕が振り抜かれた。
ヴィンセントは即応した。
その拳を片手で止める。腕の力は重く、鋭かった。
まだ、戦場が肉体に残っている。
「ジョージ、やめろ!」
硬直。
だが、再び肩が動いた。もう一撃を繰り出そうとする。
ヴィンセントはその腕を包み込むように押さえた。
「落ち着け。
俺だ、ジョージ。
ここは安全だ。
戦いは終わった。
誰もお前を傷つけたりしない」
声が、届いた。
動きが止まる。
だが、目はまだ戻らない。
わななく口元から、声が漏れる。
「違う……違う……!
僕は、ジョージなんかじゃない……!」
荒れた息とともに、声が続く。
「僕は――的居誠だ!!」
その名は、ヴィンセントにとって初めて聞くものだった。
眉がわずかに動いた。
だが、それだけ。
肩に手を添え、静かに、押し出すように言った。
「ジョージ……聞いてくれ。
お前の名前が、なんだろうと関係ない。
俺には、お前が“ジョージ”なんだ。
俺の相棒で、ΩRMの仲間で……
生きて帰ってきた、お前だ」
ジョージの目が、揺れた。
まだ焦点は合っていない。
だが、その耳は、ヴィンセントの声を確かに拾っていた。
「戻ってこい、ジョージ。
なぁ、もういい。
終わったんだ。
お前はもう、あの場所にはいない」
「……ヴィ、ン……ト……」
搾り出すような声。
視線が、ほんの僅かに、動いた。
「……ヴィンセント……?」
その瞬間、ヴィンセントは、口元だけで笑った。
「そうだ。おかえり」
浴室には、湯の滴る音だけが静かに残った。
ジョージは震える左手で、顔を覆った。
その指の隙間から、かすれた声が漏れる。
「……すまない」
ヴィンセントは黙ってその言葉を受け止めた。
しばしの沈黙のあと、少しだけ声を低くして言った。
「やっと戻ってきやがったか。バカヤロウ」
それは、怒りでも慰めでもない。
ただ、生きて帰った男に向けた――胸の奥からこぼれる言葉だった。
ヴィンセントは手を伸ばし、濡れた髪に触れた。
くしゃりと、撫でる。
「もう大丈夫だ。
あとは任せろ。俺がついてる」
ジョージは顔を隠したまま、小さく息を吐いた。
ようやく、深く、肺の底から空気を吐くことができた。
浴室の外では、マルタがバスタオルを抱えたまま立ち尽くしていた。
ピーターはただ静かに、それを見守っていた。
何も言わず、何も問わず。
ただ、戻ってきた男を迎えるように。