097:傷跡と傷だらけの男
毛布は暖かかった。
――いや、これは毛布じゃない。
もっと形の違うものだ。人間の腕に近い。
遠くの方で、水の音が聞こえる。
水からは遠いはずだった。なのに、なぜ。
ジョージは、少しずつ意識を覚ましはじめていた。
記憶の底から、這い出すように。
その時、顔に何かが掛かった。
――水だ。
脳が跳ねた。
内側で、なにかが弾けた。
本能の奥底で警報音が鳴り響く。
これは理性で抑えられるものではなかった。
もっと動物的で、原始的な奥底から湧き上がってきた。
その時、“ソレ”との境界線が割れた。
“ソレ”は叫んだ。
『これは危険だ! 逃げろ!』と。
ジョージは8歳の誠として、叫んだ。
◇
マルタが「着替え取ってくるわ」と言い残して部屋を出ていったのは、ほんの数分前のことだった。
ピーター・ヴァン・ダイクは、マルタと共にオランダから移住してきた男だ。
浅黒い肌に金茶の髪を持っていた、が、今はほとんどが白髪になっている。
年老いてもがっしりとした体格に、太い眉と鷲鼻――野暮ったさと知性が同居する顔立ち。
無精ひげの奥には、年季の入った優しさと、誰かを置いていけない不器用な正義感が宿っていた。
ピーターは湯気のこもる脱衣所で、半ば無意識にため息をついた。
視線の先には、浴槽に身を沈めた男がひとり。
まだ意識の戻りきらない、小柄なアジア系の男。
それにしても、小柄な見た目に反して思ったよりも、ずっと重かった。
湯に濡れた黒髪が額に張りついていた。
肩幅は狭い。
肋骨がわずかに浮いて見えるほどの引き締まった胴体。
だが、その体には筋肉の無駄がない。
まるで、誰かに鍛えられたわけでも、誇示するためでもなく、「生き延びるためだけに、作られた身体」のようだった。
そして、傷。
肋骨の下、脇腹、肩、太もも。数えきれない小さな痕。縫合跡もある。
背中には火傷の跡。
ピーターは一瞬だけ手を止め、目を細めた。
右脇腹――そこには、目を引く印があった。
古い弾痕をまたぐように、一本の細い矢が刻まれている。
それはまるで、傷をなぞるように伸び、十字の交点を貫いていた。
墨は褪せかけていたが、線には迷いがない。
傷を隠すでもなく、誇示するでもなく。
ただ、“これは俺のものだ”と刻み直すような印だった。
「……おいおい、なんだよ。戦争でもしてきたのか、お前」
言いながら、手にしたガーゼでそっと腕を洗う。
こびりついた泥をぬぐい、傷口や傷跡の形をなぞらないように、慎重に。
「マルタが来たら、いちいち大騒ぎするだろうな。
『なんてこと、可哀想に』とか言って、なでくりまわしてるさ。
あいつ、情が深いんだよ。正直、時々困るくらいな」
困るくらいなのに、止める気にはなれない。
昔からそうだ。
どこの国だろうと、どんな顔だろうと――「困ってる人がいたら手を出す」。
それがマルタで、それが故郷オランダのやり方だった。
だから、ピーターも逆らわない。
自分も、そうやって育ってきた。
誰かが手を伸ばさなきゃ、誰も助からないことを、堤防の村で見てきた。
手つきは柔らかい。
左腕、肩、背中。背骨に沿って洗っていきながら、タオルを湯で湿らせて流す。
湯気が昇るたび、傷跡がかすみ、また浮き上がる。
「……それにしたって、これだけ傷だらけじゃ、たとえ助け起こしても“普通の場所”には戻れねぇか」
小さく独りごちた。
男の体が少し震えていた。
「ん、ちとぬるすぎたか?……っと」
温度を調節するために浴槽のつまみに手を伸ばした。
その時だった。
ふと目を逸らした瞬間、持っていたシャワーのノズルが傾き、勢いよく湯が男の顔に降りかかった。
その瞬間、男の身体が、びくんと跳ねた。
喉からしぼり出すような声。
叫びとも呻きともつかない獣の咆哮のような音が、浴室に響いた。
ピーターがシャワーを放り、思わず後ずさる。
男の全身が、まるで見えない鎖から逃れようとするように跳ねた。
そして、撃たれたように――浴槽から飛び出した。
足が滑り、肩が浴槽の縁にぶつかる音がした。
「おい、落ち着け!
大丈夫だ、誰もいねえ、ここは――!」
だが、その言葉は届かなかった。
男は床に這いつくばるように逃げ出し――
棚の上のものをなぎ倒し、壁際に背を打ちつけて倒れ込む。
男は見えない何かと戦っていた。
虚空に向かって手を振り払い、口を開けて息を吐き――それでも、呼吸は浅い。
「いない……いない……っ……!
離せ……水、やだ……!」
叫びとともに、男の瞳が見開かれた。
その目は、この場所を見ていなかった。
焦点の合わぬ視線は、遠い記憶の奥底――沈んだ海の底に、まだ囚われていた。
浴槽の水音が、かつて肺を満たした海水と重なり、シャワーの滴があの夜の雨と混ざり合う。
ピーターはとっさにタオルを手に取り、濡れた顔を覆った。
「落ち着け、もう終わった!
お前は助かったんだよ!」
男はそれでもなお、荒い呼吸で体をよじらせた。
反射的に、拳を握る。肩が軋み、手が震えている。
見えない敵を殴ろうとするように、壁を叩いた。
ピーターに向かって拳が振り上げられる。
――だが、腕が途中で止まった。
そして両手拳で顔を覆うと、その場にうずくまった。




