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097:傷跡と傷だらけの男

 毛布は暖かかった。

 ――いや、これは毛布じゃない。

 もっと形の違うものだ。人間の腕に近い。


 遠くの方で、水の音が聞こえる。

 水からは遠いはずだった。なのに、なぜ。


 ジョージは、少しずつ意識を覚ましはじめていた。

 記憶の底から、這い出すように。


 その時、顔に何かが掛かった。

 ――水だ。


 脳が跳ねた。

 内側で、なにかが弾けた。


 本能の奥底で警報音が鳴り響く。

 これは理性で抑えられるものではなかった。

 もっと動物的で、原始的な奥底から湧き上がってきた。


 その時、“ソレ”との境界線が割れた。

 “ソレ”は叫んだ。


『これは危険だ! 逃げろ!』と。


 ジョージは8歳の誠として、叫んだ。



 マルタが「着替え取ってくるわ」と言い残して部屋を出ていったのは、ほんの数分前のことだった。


 ピーター・ヴァン・ダイクは、マルタと共にオランダから移住してきた男だ。

 浅黒い肌に金茶の髪を持っていた、が、今はほとんどが白髪になっている。

 年老いてもがっしりとした体格に、太い眉と鷲鼻――野暮ったさと知性が同居する顔立ち。

 無精ひげの奥には、年季の入った優しさと、誰かを置いていけない不器用な正義感が宿っていた。


 ピーターは湯気のこもる脱衣所で、半ば無意識にため息をついた。


 視線の先には、浴槽に身を沈めた男がひとり。

 まだ意識の戻りきらない、小柄なアジア系の男。


 それにしても、小柄な見た目に反して思ったよりも、ずっと重かった。


 湯に濡れた黒髪が額に張りついていた。

 肩幅は狭い。


 肋骨がわずかに浮いて見えるほどの引き締まった胴体。

 だが、その体には筋肉の無駄がない。


 まるで、誰かに鍛えられたわけでも、誇示するためでもなく、「生き延びるためだけに、作られた身体」のようだった。


 そして、傷。


 肋骨の下、脇腹、肩、太もも。数えきれない小さな痕。縫合跡もある。

 背中には火傷の跡。

 ピーターは一瞬だけ手を止め、目を細めた。


 右脇腹――そこには、目を引く印があった。


 古い弾痕をまたぐように、一本の細い矢が刻まれている。

 それはまるで、傷をなぞるように伸び、十字の交点を貫いていた。

 墨は褪せかけていたが、線には迷いがない。

 傷を隠すでもなく、誇示するでもなく。


 ただ、“これは俺のものだ”と刻み直すような印だった。


「……おいおい、なんだよ。戦争でもしてきたのか、お前」


 言いながら、手にしたガーゼでそっと腕を洗う。

 こびりついた泥をぬぐい、傷口や傷跡の形をなぞらないように、慎重に。


「マルタが来たら、いちいち大騒ぎするだろうな。

 『なんてこと、可哀想に』とか言って、なでくりまわしてるさ。

 あいつ、情が深いんだよ。正直、時々困るくらいな」


 困るくらいなのに、止める気にはなれない。

 昔からそうだ。

 どこの国だろうと、どんな顔だろうと――「困ってる人がいたら手を出す」。


 それがマルタで、それが故郷オランダのやり方だった。


 だから、ピーターも逆らわない。

 自分も、そうやって育ってきた。

 誰かが手を伸ばさなきゃ、誰も助からないことを、堤防の村で見てきた。


 手つきは柔らかい。

 左腕、肩、背中。背骨に沿って洗っていきながら、タオルを湯で湿らせて流す。

 湯気が昇るたび、傷跡がかすみ、また浮き上がる。


「……それにしたって、これだけ傷だらけじゃ、たとえ助け起こしても“普通の場所”には戻れねぇか」


 小さく独りごちた。

 男の体が少し震えていた。


「ん、ちとぬるすぎたか?……っと」


 温度を調節するために浴槽のつまみに手を伸ばした。


 その時だった。


 ふと目を逸らした瞬間、持っていたシャワーのノズルが傾き、勢いよく湯が男の顔に降りかかった。


 その瞬間、男の身体が、びくんと跳ねた。



 喉からしぼり出すような声。

 叫びとも呻きともつかない獣の咆哮のような音が、浴室に響いた。


 ピーターがシャワーを放り、思わず後ずさる。


 男の全身が、まるで見えない鎖から逃れようとするように跳ねた。

 そして、撃たれたように――浴槽から飛び出した。

 足が滑り、肩が浴槽の縁にぶつかる音がした。


「おい、落ち着け!

 大丈夫だ、誰もいねえ、ここは――!」


 だが、その言葉は届かなかった。


 男は床に這いつくばるように逃げ出し――

 棚の上のものをなぎ倒し、壁際に背を打ちつけて倒れ込む。

 男は見えない何かと戦っていた。

 虚空に向かって手を振り払い、口を開けて息を吐き――それでも、呼吸は浅い。


「いない……いない……っ……!

 離せ……水、やだ……!」


 叫びとともに、男の瞳が見開かれた。


 その目は、この場所を見ていなかった。


 焦点の合わぬ視線は、遠い記憶の奥底――沈んだ海の底に、まだ囚われていた。

 浴槽の水音が、かつて肺を満たした海水と重なり、シャワーの滴があの夜の雨と混ざり合う。


 ピーターはとっさにタオルを手に取り、濡れた顔を覆った。


「落ち着け、もう終わった!

 お前は助かったんだよ!」


 男はそれでもなお、荒い呼吸で体をよじらせた。


 反射的に、拳を握る。肩が軋み、手が震えている。

 見えない敵を殴ろうとするように、壁を叩いた。

 ピーターに向かって拳が振り上げられる。


 ――だが、腕が途中で止まった。


 そして両手拳で顔を覆うと、その場にうずくまった。


 


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