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096:少年は、海に沈んだ


 ――次は、船。


 身体はまた袋の中に入れられた。手足は縛られたまま、口もふさがれている。

 だが、振動と空気の重さで分かる。

 場所が変わった。船倉。貨物の隙間。誰も気づかないような暗がり。


 鉄が軋み、水がはねる音が微かに伝わってきた。

 甲板を歩く足音。積まれる荷物。

 男たちは笑っていた。まだ余裕があった。


 少年は、動かずに待っていた。

 恐怖も、痛みも、ソレが持っていてくれたから――自分はただ、“逃げ切れるタイミング”を、静かに探していた。


 その時だった。


 何かの音が、空から降って来た。


 最初は遠く、やがて重なり合うように近づいてきた音。

 ローターの風が海面を叩き、船の構造全体が揺れる。


 ――ヘリだ。


「やべえ、上から来てるぞ! 通報された!」


「証拠を捨てろ! 急げ!

 箱も! 書類も! ガキも捨てろ!」


「おい、その子だけは――」


「バカ! あいつはヤバい。

 ただのガキじゃねぇ! 身元が白すぎる!」


「残ってたら終わりだ!」


「でも、こいつ……まだ生きてる……!」


「警察が一枚噛んでるんじゃなかったのかよ!?」


「だったら何でヘリが来てんだよ!

 いいから投げろ!!

 俺たちまで潰されるぞ!」


 怒鳴り声と物音が錯綜する。

 甲板を走る足音。

 箱が蹴倒される音。

 金属が海に沈む音。

 そして――


 衝撃とともに、重力が消えた。

 少年は必死に暴れ、胴体が引きちぎられんばかりに身を捩った。


 しかし、少年の身体は袋ごと宙に浮き、次の瞬間、冷たい海水に呑まれた。


 それは肌を切り裂くような冷たさだった。

 塩水が、布を通して口と鼻に流れ込む。

 何かが身体の中へ無理やり押し込まれてくる。肺が縮まり、喉がふさがる。


 目を開けても、ただ黒いだけだった。

 耳には何も届かない。水に沈んだ世界は、音をも奪っていた。

 袋の中でわずかに身をよじっても、縛られた手足は動かず、布は顔に貼りついたままだった。


 呼吸ができなかった。

 息を止めようとする意思が、すでに身体のどこにも残っていなかった。

 酸素が尽きていく。肺が押し広げられ、反射的に吸おうとする。

 そのたびに、水が喉を満たしていく。


 苦しさは、最初こそ鋭く尖っていたが、やがて鈍くなった。

 喉の奥が焼けつくようで、しかし、痛みすら遠のいていった。

 皮膚の感覚が薄れていく。手も、足も、自分のものではないようだった。


 それでも、少年は動こうとした。

 膝を曲げ、脚を突き出し、上がどちらかも分からないまま必死に水を蹴った。

 水の抵抗が重く、足の動きはすぐに鈍る。

 縛られた手は背中で小さく痙攣し、何も掴めずに止まった。


 頭がぼんやりしてくる。

 意識が後ろに滑っていく感覚があった。

 考えることもできない。

 もう、痛いのか苦しいのか、それすら分からない。

 自分がここにいるという感覚が、薄紙のように剥がれていく。


 水が全身に染みこみ、思考の端に冷たい闇が滲んだ。

 輪郭が溶ける。

 世界の中で、自分だけが静かに消えていくようだった。


 ――ごめん……なさい……


 しかしその時。何かが水を裂き、ゆっくりと彼を引き上げていった。

 袋に包まれたままの身体が、暗い海の底から、上へ上へと、光のある方へ浮かび上がる。

 圧が変わる。

 水の重みが剥がれていく。

 皮膚にわずかな空気が触れた。しかし、呼吸はまだできない。


 海上で、隊員が声をあげた。


「確認できた! ……やっぱり人間だ!」

「急げ、ヘリに運べ!」


 ロープの揺れに合わせて袋が吊り上げられる。

 海面から上昇する間、少年の身体は何の反応も示さなかった。

 風に吹かれながら、ただ沈黙したまま、空へ空へと向かっていった。


 ヘリの扉が開く。

 強風が機内に流れ込み、隊員たちの服を乱す。

 金属の床に袋が運び込まれ、ひとりが即座にナイフを取り出し、縫い目に刃を入れた。


「裂くぞ、頭を避けろ!」


 布が裂かれ、水を吸った麻袋の中から、ずぶ濡れの小さな身体が現れる。

 顔は青白く、唇は紫に染まっていた。首がぐらりと傾き、目は閉じたまま。


「……くそっ! 子供相手に……」


 隊員が低く呟き、まず猿轡を引き剥がす。

 ナイフで手足の縛めを切り落とし、もう一人が即座に少年を仰向けに転じた。

 救出用ヘリの内部は狭い。床に膝をついた二人が、最低限のスペースで動く。


「反応なし。脈、ない。コードブルー!」


 すぐさま片方が心臓マッサージの体勢に入る。


「CPR開始。AEDと酸素、前方ロッカー!」


 もう1人の隊員がすぐに動き、備え付けの医療キットを開いた。


「胸骨圧迫いく……!」


 押し込む音が、金属床に鈍く響いた。

 騒音の中でも、骨の軋みが手のひらを通して伝わってくる。

 少年の体が跳ねる。


「1、2、3…………15回! ブレス!」


人工呼吸を1度、2度。

ヘリの振動で姿勢を崩しそうになりながらも、正確な動きで処置を繰り返す。


「……頼む、戻ってこい」


 少年は動かない。まぶたは閉じたまま。

 それでも、隊員はあきらめなかった。


 次の圧迫の直前、隣の隊員が声を上げた。


「横向けろ! ……出る!」


 2人が連携して少年の体を慎重に横向きに傾けた瞬間、

 喉が震え、少年の口から海水が勢いよく噴き出した。

 胸が小さく跳ね、空気を求めるように肺が震える。

 それは声にもならない、浅い、しかし確かな息だった。


「自発呼吸、確認! 脈、微弱だが戻ってる!」


 酸素マスクがすぐに顔に当てられ、濡れた体に毛布が巻かれる。

 機内の冷気から守るように、手早く、そっと包まれた。

 祈るような手つきだった。


「……大丈夫だ。もう誰もお前を放り出したりしない。

 ……お前は、“モノ”じゃないっ!!」


 そう言った隊員の声は、かすかに揺れていた。


「怖かったな。痛かったな……

 でも、もう大丈夫だ」


 呼びかけに反応はない。

 目は開かず、意識も遠くに沈んだまま。

 それでも、少年の胸は、かすかに上下を繰り返していた。

 世界の中に、再び足を踏み入れた証だった。

 隊員は手袋を外し、少年の頭を撫でた。


 そのとき、内側の奥底で、ふたつの声が交差した。


『何があっても、生き延びろ』

『言ったろ。怖くないって』


 その少年は、もう、的居誠ではなかった。


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