092:ヴィンセントに電話 201-555-1853……
何かが、遠くで揺れていた。
音か、光か、それとも記憶の残骸か。
意識の底に、沈んで浮かぶ幻のような感触。
頬をなぞる冷気。土の匂い。焦げた空気が皮膚にまとわりつく。
ここがどこかも、自分がどれだけ壊れているのかも、ぼやけていた。
ただ、頭の奥で軋むような痛み。
世界が傾いていた。
誰かが声を発した。
それが“人の声”だと認識するまでに、数秒かかった。
意味は分からない。
水底で鐘が鳴っているような、くぐもった響き。
目を凝らす。
影があった。
大柄な女。
白髪が夜風に揺れ、胸元の生地が上下している。
年配。だが、骨格と腕の太さがただ者じゃなかった。
その女が膝をつき、こちらに手を伸ばす。
よそゆきの服のまま、血と泥にまみれたジョージの肩に触れた。
躊躇いも、嫌悪もなかった。
その行為の重さを、ジョージが本当に理解するのは、ずっと後のことだ。
――敵ではない。
それだけは分かった。
だから逃げなかった。
しかし
「警察」「病院」
その二つの言葉が耳に届いた瞬間、
体の奥で警報が鳴った。
「ちがう……やめろ……」
かすれた声。喉が焼け、言葉が崩れていく。
それでも口を開かずにはいられなかった。
「警察は……だめだ……病院も……行くな……」
息が浅くなる。胸が裂けるように痛む。
それでも、吐き続ける。
「ヴィンセント……
……201、555……1853……
……ヴィンセント・モロー……
201……555……1853……」
それしか覚えていないような口調だった。
自分が何者か、名前すら曖昧になっていく中で、
唯一、輪郭を保つための呪文のように。
――俺じゃない。
連絡するなら、あいつに。
今すぐ。今じゃなきゃ、取り返しがつかない。
「ヴィンセント……ヴィンセント……」
その名前だけが、舌の上で何度も繰り返された。
意識が沈んでいくなか、ジョージはただ、名を呟き続けた。
◇
そのアジア系の男は、警察も病院も、断固として拒んだ。
血まみれのまま膝をつき、ただ名前と数字を繰り返す。
マルタは彼の肩にそっと手を置き、柔らかく微笑んだ。
「分かったわ。警察にも病院にも行かない。
代わりに、“ヴィンセントさん”に電話する。
だから、安心して――ね?」
その後ろで、ハンクが声を低くした。
「……おい、本気かよ。
そのヴィンセントって奴が、もっとヤバいのかもしれねぇぞ」
マルタは振り返らない。
「平気よ」
視線はジョージに据えたまま、静かに続ける。
「昔ね、戦地から帰ってきた若者たちの介護をしてたことがあるの。
あの子と同じ目をした子たち、たくさん見たわ。
体も心も壊れて戻ってきた兵士たち。
あの子もそう。話せなくても、分かるの。
悪い子じゃない。助けを求めてるだけよ」
ハンクは一歩引き、ピーターを見やる。
ピーターは、肩をすくめただけだった。
マルタが言ったことに口を挟む人間はいない。
それが、この家の不文律だ。
「あなた。この子を運んであげて。
まずは傷を洗って、泥を落とさなきゃ。感染症になる前に」
マルタは、もう一度だけジョージの目を見て言った。
「ね、安全なところへ行こう。
それから、“ヴィンセントさん”に電話しようね」
その声は、命令ではなかった。
哀れみでもなかった。
ただ、約束のように響いていた。
ヴィンセント・モローの電話番号
201-555-1853
もちろんこれは架空の電話番号ですが、ちょっとリアル寄りに遊ばせてもらいました。
最初の「201」は、ΩRMの拠点があるニュージャージー州ジャージーシティの実在するエリアコードです。
次の「555」は、アメリカのドラマや映画でよく使われるフィクション用のプレフィックス。
通常、555で始まる番号は現実には使われないため、「絶対に誰の番号でもない」という安心設計。
映画やドラマで電話番号が読み上げられるシーンでは、真ん中が「555」になっていることが多いので、ぜひ注意して聞いてみてください。
そして最後の「1853」。
これは、画家「フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)」の生まれ年。
名前が同じ「ヴィンセント」であることから、ささやかなオマージュを込めました。
——そんなわけで、完全に架空の番号ながらも、
ちょっぴり詩的で、そして少しだけ「彼らしさ」がにじむ番号になっています。




