091:闇に浮かぶ亡霊
乾いたアスファルトの上を、ゆっくりと一歩、また一歩。
ジョージは歩いていた。
ふらつきながら、泥まみれの足を引きずるようにして、舗装路を進む。
ジョージの背後に、わずかな気配が生まれた。
風ではない。獣でもない。
呼吸と、わずかな靴音。それだけで、ジョージの体がぴたりと止まる。
意識はぼんやりとしている。
脳の奥で鐘が鳴り続け、視界の隅は霞んでいた。
それでも“何か”がこちらに向けられているのは分かる。
獣ではない。人間の殺気だ。
「動くな。手を挙げろ」
低く、よく通る声だった。
猟銃の金属音が、夜気に溶ける。
ジョージはゆっくりと、傷だらけの両腕を上げた。
肩の関節が軋む。左はほとんど感覚がなく、血で袖が固まっていた。
「もう一歩動けば、撃つぞ」
男の声は、迷いのない狩人の声だった。
ジョージは返事をしようと口を開いたが、言葉が出てこない。
舌がもつれる。喉が乾ききっている。
「っ……でん……」
何か言おうとしたが、声にならなかった。
一歩、踏み出してしまった。
「膝をつけ!」
その声は鋭く、撃鉄が落ちる直前の緊張を孕んでいた。
ジョージは言われた通り、舗装されたアスファルトの地面に膝を落とす。
痛みで眩暈が走ったが、耐える余裕すらなかった。
背後から、男がゆっくりと近づいてくる。
猟銃の銃口は、ぶれずにジョージの背中を捉えていた。
「お前は何者だ? 体格は子供に見えるが……顔は大人だな。
不法移民か? それとも、麻薬関係か?」
ジョージは首を横に振るが、うまく動かない。
言葉が出ない。
それでも、男の問いは止まらない。
「なんでそんなに血まみれなんだ。何があった。答えろ」
「……ちが……」
絞り出すように答えようとするが、喉の奥で声が潰れる。
そのとき、ハンクの目が、ジョージの背中に気づいた。
黒い防弾チョッキ。
表面には、銃弾の衝撃で生じたくっきりとしたへこみが二つ。
撃たれていた。
ハンクの眉がわずかに動いた。
ただの遭難者じゃない。こいつは何かを知っている。
どこかで訓練を受けている目だ。反応だ。無言の構えだ。
それが、逆に恐ろしい。
ジョージは、ただ、「頼むから撃つな」と、目だけで語っていた。
ハンクは、しばらく無言だった。
銃口だけが、揺れずにジョージを見ていた。
風が二人の間を吹き抜ける。
沈黙は、銃声よりも重かった。
膠着したまま、時間だけが過ぎていった。
ハンクの指は、トリガーの上で止まっている。
どちらも動かない。どちらも、まだ判断がつかない。
その時だった。
暗闇の向こうから、エンジン音が近づいてきた。
舗装路の先に、ひときわ明るいヘッドライトが現れる。
ライトに照らされたのは、白のSUV。
よく手入れされた車体。運転席には、姿勢のいい女性。
助手席には、がっしりとした大柄の男が座っていた。
車が二人の傍らにぴたりと止まり、窓が開いた。
「ちょっとハンク、何してるのよ。こんな夜中に子供相手に銃なんて!」
運転席の女は、70代とは思えないほどしっかりとした口調だった。
背筋が伸び、銀色の髪はきっちりまとめられている。
紺のワンピースにショール。明らかに山に来る服装ではない。
ハンクは目だけで彼女を見やると、短く返した。
「子供じゃねえ。マルタ。よく見ろ。身体は小せえが、顔つきは完全に大人だ。不法移民に違いねえ」
「だからって、こんなに血まみれの人に銃向けてどうするのよ!
怪我してるじゃない!」
言い返す余地もない調子だった。
ジョージはまだ膝をついたまま、言葉も出せずに俯いていた。
助手席の男が「やれやれ」といったようにため息をつき、ゆっくりと車を降りる。
ややきつそうなスーツ。
結婚式か何かの帰りだろう。ネクタイを緩めながら、ハンクに言った。
「おいおい、また誰か撃つ前にマルタに怒られてるのか。懲りねえな、あんたも」
「黙ってろピーター」
「はいはい。で、この子は喋れんのか?」
ピーターの声は大きいが、どこか飄々としていた。
その大きな手がポケットに入ったまま、ジョージを一瞥する。
視線は優しくもなく、怖くもない。ただ、観察する目だった。
マルタがドアを開け、ヒールの音をコツコツと鳴らしながらハンクの横に立つ。
そしてため息をついた。
「放っといたら、今に倒れるわよこの子。肩、脱臼もしてるじゃないの」