089:「ごめん、ジェシカ!」
ジョージはサイドミラーを一瞥した。
それだけで判断は済んだ。
「ワラビー。ドアノブに手をかけろ」
「……はいっ」
声が裏返った。
伸ばした指が、冷たい金属に触れる。汗ばんだ掌に、ひたりと貼りついた。
前方。
浅くえぐれた側溝。その手前に雑木林が茂っている。
一瞬だけ、視線が切れる死角ができる。
ジョージは減速。
ハンドルを左に切り、右手でサイドブレーキを引いた。
短く、正確に。
タイヤが甲高く鳴いた。
車体のリアが流れる。砂利を跳ねながら、白いセダンが旋回する。
制御に迷いはなかった。
その車内で、ワラビーの肩がピクリと跳ねた。
「今だ!」
ジョージの声が飛ぶ。
それだけで、ワラビーの身体が動いた。
ドアを蹴り開け、冷たい風が車内を裂くように流れ込む。
「ごめん、ジェシカ!」
叫びながら、ワラビーは少女を抱え込むように飛び出した。
空気を裂く音。膝を丸め、背中で衝撃を受け止める。
地面が近づき、湿った土が肌を打つ。
着地と同時に、白いセダンがまた吠えた。
ジョージは振り向かない。
ハンドルを戻し、タイヤが路面を削って光を引き裂く。
闇の先へ、消えるように走り去っていく。
すぐに、SUVのエンジン音が後を追った。
その場に残されたのは、夜風と虫の声。
ワラビーは地面に膝をついたまま、遠ざかるライトの名残を見つめた。
ジェシカが微かに呻く。意識はある。
ワラビーは、彼女の身体を包むように抱き、問いかける。
「大丈夫か……?」
「うん……たぶん、大丈夫……」
声は震えていた。けれど、しっかり返ってきた。
頼りにしていた背中は、もう見えない。
それでも信じられると、思えた。
ワラビーはジェシカの肩を支え、藪を抜ける。
舗装路へ出た先、ぽつんと一軒の平屋。灯りがついていた。
「あそこ……!」
ジェシカの声。
ワラビーが頷く。
二人は駆け出した。
草が跳ね、息が切れる。
玄関にたどり着き、壁のインターホンを押す。
チャイム。返答はない。
もう一度。少し長く。
ようやくスピーカーから、低く警戒した声が響いた。
「……誰だ?」
ワラビーが何か言おうとしたが、息が続かない。
ジェシカが前に出る。
「お願いです、助けて……!
追われていたんです!
今、ようやく逃げ切って……」
沈黙。
しばらくして、声が戻る。硬い声だった。
「さっき、廃教会の方で爆発音も聞こえた。
……こんな時間になんだ?
君たち、何者だ?」
ワラビーが口を開こうとする。
ジェシカが遮るように叫んだ。
「私たち、ただ巻き込まれただけなんです……!
せめて……警察に電話だけでもしてください!」
切迫した声のあと、インターホン越しに話し声が交錯する。
男女の声。泣きそうな子どもの声も混ざっている。
パッと、玄関灯が点く。だが、扉は開かない。
「……わかった。ドアは開けないが、警察には連絡してあげよう。
そこで待っていなさい」
慎重な声。だが、拒絶ではなかった。
「ありがとうございます!!」
ジェシカが深く息を吐き、壁に手をついた。
ワラビーは膝をついたまま、しばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、空を見上げる。
夜は深い。だが、ひとつの灯がそこにあった。
ジェシカが胸元に手を差し入れる。
肩にかけられたままの上着。その内ポケットに、何か硬いものがあった。
「……?」
指先でつまみ上げる。
くすんだ銀色のジッポライター。
熱で歪んだ金属。刻印はない。けれど、すぐにわかった。
ジョージのものだ。
ワラビーが気づいて隣を見る。
「それ……」
「……うん。ジョージの」
ジェシカは、それを握り直した。
そしてそっと、ポケットに戻す。
その仕草は、誰にも渡さないと誓うように、静かだった。
彼の背中は、もう見えない。
だが、確かにここにいた。




