表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

120/156

089:「ごめん、ジェシカ!」

 ジョージはサイドミラーを一瞥した。

 それだけで判断は済んだ。


「ワラビー。ドアノブに手をかけろ」


「……はいっ」


 声が裏返った。

 伸ばした指が、冷たい金属に触れる。汗ばんだ掌に、ひたりと貼りついた。


 前方。

 浅くえぐれた側溝。その手前に雑木林が茂っている。

 一瞬だけ、視線が切れる死角ができる。


 ジョージは減速。

 ハンドルを左に切り、右手でサイドブレーキを引いた。

 短く、正確に。


 タイヤが甲高く鳴いた。

 車体のリアが流れる。砂利を跳ねながら、白いセダンが旋回する。

 制御に迷いはなかった。


 その車内で、ワラビーの肩がピクリと跳ねた。


「今だ!」


 ジョージの声が飛ぶ。

 それだけで、ワラビーの身体が動いた。

 ドアを蹴り開け、冷たい風が車内を裂くように流れ込む。


「ごめん、ジェシカ!」


 叫びながら、ワラビーは少女を抱え込むように飛び出した。

 空気を裂く音。膝を丸め、背中で衝撃を受け止める。

 地面が近づき、湿った土が肌を打つ。


 着地と同時に、白いセダンがまた吠えた。

 ジョージは振り向かない。

 ハンドルを戻し、タイヤが路面を削って光を引き裂く。

 闇の先へ、消えるように走り去っていく。


 すぐに、SUVのエンジン音が後を追った。


 その場に残されたのは、夜風と虫の声。

 ワラビーは地面に膝をついたまま、遠ざかるライトの名残を見つめた。

 ジェシカが微かに呻く。意識はある。


 ワラビーは、彼女の身体を包むように抱き、問いかける。


「大丈夫か……?」


「うん……たぶん、大丈夫……」


 声は震えていた。けれど、しっかり返ってきた。


 頼りにしていた背中は、もう見えない。

 それでも信じられると、思えた。


 ワラビーはジェシカの肩を支え、藪を抜ける。

 舗装路へ出た先、ぽつんと一軒の平屋。灯りがついていた。


「あそこ……!」


 ジェシカの声。

 ワラビーが頷く。


 二人は駆け出した。

 草が跳ね、息が切れる。

 玄関にたどり着き、壁のインターホンを押す。


 チャイム。返答はない。

 もう一度。少し長く。


 ようやくスピーカーから、低く警戒した声が響いた。


「……誰だ?」


 ワラビーが何か言おうとしたが、息が続かない。

 ジェシカが前に出る。


「お願いです、助けて……!

 追われていたんです!

 今、ようやく逃げ切って……」


 沈黙。

 しばらくして、声が戻る。硬い声だった。


「さっき、廃教会の方で爆発音も聞こえた。

 ……こんな時間になんだ?

 君たち、何者だ?」


 ワラビーが口を開こうとする。

 ジェシカが遮るように叫んだ。


「私たち、ただ巻き込まれただけなんです……!

 せめて……警察に電話だけでもしてください!」


 切迫した声のあと、インターホン越しに話し声が交錯する。

 男女の声。泣きそうな子どもの声も混ざっている。


 パッと、玄関灯が点く。だが、扉は開かない。


「……わかった。ドアは開けないが、警察には連絡してあげよう。

 そこで待っていなさい」


 慎重な声。だが、拒絶ではなかった。


「ありがとうございます!!」


 ジェシカが深く息を吐き、壁に手をついた。

 ワラビーは膝をついたまま、しばらく動かなかった。


 やがて立ち上がり、空を見上げる。

 夜は深い。だが、ひとつの灯がそこにあった。


 ジェシカが胸元に手を差し入れる。

 肩にかけられたままの上着。その内ポケットに、何か硬いものがあった。


「……?」


 指先でつまみ上げる。

 くすんだ銀色のジッポライター。

 熱で歪んだ金属。刻印はない。けれど、すぐにわかった。


 ジョージのものだ。


 ワラビーが気づいて隣を見る。


「それ……」


「……うん。ジョージの」


 ジェシカは、それを握り直した。

 そしてそっと、ポケットに戻す。

 その仕草は、誰にも渡さないと誓うように、静かだった。


 彼の背中は、もう見えない。

 だが、確かにここにいた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ