【079話番外編】チャールズ・フィンリー④:拘束とお礼
男の手元が下がる。
その刃先が、ほんの数センチだけ少女の首元から離れた。
その瞬間、チャットが一歩で間合いを詰める。
迷いも、言葉もない。
左手で男の手首をひねり上げ、ナイフを落とさせた。
同時に右肘を首筋に当て、体ごと押し下げる。
片膝で脚を刈り、男の身体を床に沈めた。
「おっと、今のはちょっと劇的だったかもな」
呟くように言いながらも、動きは容赦なかった。
男の片腕を背中側へ回し、もう片方も抑え込む。
制圧。完了。
「落ち着けって。
手荒な真似は、俺もあんまり好きじゃないんだよ」
男の体重が抜けたのを確認してから、チャットはようやく視線を少女に向けた。
「……大丈夫。もう離れていい」
震えながらも硬直していた少女の手を、彼はそっと引きはがした。
その目線を下げ、できる限り穏やかに声をかける。
男の身体を警備に渡すと、静かにその場から離れた。
「よく頑張ったね。えらいよ。
……さ、あっちに行こう。
お姫様は、ここじゃなくて明るいところにいなきゃ」
少女が無言で頷く。彼女の手を引いて、チャットは母親の方へとゆっくり歩き出した。
母親が少女の名前を呼び、2人は抱き合った。
——その背にあるのは、すでに降ろされた静かな緊張と、
ほんの一瞬だけの、切り裂くような鋭さだった。
「おい、あんたッ!」
そのとたん、警備員たちが雪崩のように近づいてきた。
拳銃を収めぬまま、一人がチャットの目前まで詰め寄る。
「一体何者だ。IDを見せろ、今すぐに!」
「ええ、もちろん。
ちょっと今は、紳士的なヒーローごっこをしてたんでね」
チャットはポケットからカードケースをひらひらと取り出し、渡すでもなく指先でつまんだまま見せる。
口元には笑み。だが、目は笑っていない。
別の係官が少女たちを保護し、すぐさま無線で報告を入れる。
空気はまだ張り詰めている。
数人が男の身柄を確保し、きつく拘束していた。
「正式な許可があるのか?
勝手な介入は重罪だぞ」
「それはごもっとも。
でも、ルールブックには“目の前で少女が殺されそうなときの最善策”までは書いてない」
チャットは両手を上げて降参のポーズを取った。
だが、その仕草もどこか芝居がかっていて、苛立った警備員の一人が声を荒げる。
「ふざけるな。
君の発言はすべて記録されている。
上に通報する」
「了解。怒鳴るのもいいけど、先に一杯のコーヒーくらいどうだい?
君ら、今すごく顔が怖い」
「ふざけるなって言ってるんだ!」
チャットはそこでようやく息をつき、真面目な声色に切り替えた。
背筋を伸ばし、淡々と告げる。
「……ΩRM。俺は民間の護衛会社の副社長だ。
今回の渡航任務中に偶発的に起きた事案として、必要があれば報告を出す。
正式な抗議や問い合わせは、社の担当に。
記録番号も出せる」
一瞬、相手の目がわずかに動いた。
ΩRMの名前に反応したらしい。
「ふざけてるようで、俺はちゃんと“落とし前”もつける人間なんでね。
ほら、名刺も出すよ。
印刷が趣味でね、地味に質感にもこだわってる」
彼はすっと名刺を差し出すと、またあの軽い口調に戻った。
「怒られるのは慣れてるけど、できれば怒る前に一言――
“ありがとう”って言われたかったなァ〜。
まあ、図々しいかもしれないけどさ」
警備員に囲まれながら歩き出そうとしたそのとき、不意に背後から声が飛んだ。
「ちょっと待ってください……!」
振り返ると、あの母親だった。
少女の手をしっかりと握りしめて、追いかけてくる。
警備のひとりが止めようとしたが、チャットが片手を上げて制した。
彼女は息を整え、チャットの前で一礼するように胸に手を当てた。
「本当に、ありがとうございました……。
あなたがいなかったら、娘は……」
その言葉に重ねるように、少女がチャットの前に出てくる。
瞳には、先ほどまでの恐怖の名残と、今ようやく芽生えた安心の光が混じっていた。
「……あの。ありがとうございました」
チャットは微笑み、しゃがんで目線を少女に合わせた。
「こちらこそ。よく頑張ったね、君は」
少女は口元を噛んで、ほんの少しだけ逡巡した。
だが意を決したように、チャットの目をまっすぐ見上げて、言った。
「また、会えますか?」
一拍の沈黙のあと――
チャットはくしゃりと笑った。
いつものような芝居がかった笑みではなく、素のままの、どこかあたたかい表情だった。
「会えるかどうかは、風と星に聞いてくれ。
でもね――君が笑っていれば、どこかでちゃんと伝わるはずだからさ」
少女はその言葉に微かに目を見開き、それから小さく、けれど確かに頷いた。
警備員の1人が、咳払いで促す。
チャットは立ち上がり、母娘にもう一度軽く手を振って、警備の誘導に従った。
簡素なドアの向こう、仮設の個室に入る直前。
チャットは一度だけ、肩越しにあの少女たちの姿を振り返った。
そして、ドアが閉まると同時に――
口には出さず、内心でひとつ、乾いた皮肉を転がす。
(……朝一の便に、乗り遅れちまったな。
ま、今の騒ぎじゃ、どの便も数時間は飛ばないけどさ)
頭を軽く振って、椅子に身を預けた。
陽はまだ昇りきっておらず、外はじっとりとした静けさを湛えていた。
けれどその中に、確かに“何かを救えた”実感だけが、小さく灯っていた。