【079話番外編】チャールズ・フィンリー③:少女の喉元には刃
チャットは、まばたきもせずに男を見ていた。
身体の揺れ――薬物の作用だ。
交感神経だけがむき出しで走っている。
汗は額だけでなく、背中までにじんでいる。
恐怖と混濁。
刃物の握り方は、躊躇いと焦りが混ざっている。
“刺す”というより、“見せている”だけ。
それでも、次に何かが動けば、少女の肌が最初に切られる。
そういう距離だった。
チャットの視線が、男の足元から手元へ、そして視線の焦点へと順に辿る。
男は“現実”にいない。
自分の叫びと、何かの妄想の中でしか生きていない。
その中に引きずり込まれれば終わる。
こちらが“現実”を取り戻させなければ。
すぐ近くで、安全柵を越えようとする警備官の姿があった。
チャットはそちらに半歩だけ身体を向け、素早く声を低く、しかしよく通る音で言った。
「ちょっと待った。
ナイフと銃とパニックが同じ場所に揃うと、だいたいロクなことにならない。
……経験談だ」
チャットは静かに手を上げ、警備の視線を一身に受ける。
「今そっちの手が動いたら、その子が一番先に血を見る。
だから、できればそのカッコいいポーズは一旦下げてほしい。
撃つ練習より、黙って見てる練習のほうが難しいってのは、わかってるけどね」
視線をそらさず、ポケットからカードケースを半分だけ見せる。
「身分?
……まあ、言いたいことはあるけど、今言ってもあんまりドラマチックじゃない。
後で文句を言いたいなら、紙とペンを持って待っててくれ。
俺、きれいに謝るからさ」
少しだけ口元で笑い、視線を男の方へと滑らせる。
「でも、今必要なのはそれじゃない。
“誰も刺されないために、あと数分だけ黙ってくれ”。それだけでいいんだ」
少し男の方に歩み寄った。
「……なあ、君」
チャットの声は、まるで友人との会話の続きを拾うかのように柔らかかった。
威圧でも、哀れみでもない。
ただ、隣に立てる人間の距離で、言葉を差し出した。
「爆弾の話、嘘だとは思ってない。
信じるべきかどうか、正直まだ決めかねてるくらいだ」
チャットは少しだけ首を傾け、男の視線のずれ方を測る。
「ただ一つだけ、どうしても引っかかるんだよ
……その子に、刃を向けてる理由は、なんだ?」
男は黙っていた。
だが、わずかに肩が揺れた。反応はある。
チャットは一歩だけ、重心を静かに前に移す。
両手ははっきり見える位置。
何も持っていないことを、黙って示す。
「怖いんだろ。誰が敵で、誰が味方かわからない。
誰も信じられなくて、誰かを掴んでないと、今にも落ちそうなんだ」
男の目がちらりと動く。チャットの声に、かすかに焦点が引かれはじめる。
「でも、俺は違う。
俺は話しに来た。
ただそれだけ。
お前の話を聞いてもらうためには、まず“誰かを傷つけてない”って記録が必要なんだ。
なあ、まずはそれから始めよう。
武器を下ろす。
それだけで、世界の見え方がちょっと変わる」
チャットは、語尾を急がなかった。
一音一音を、息で包むようにして置いていった。
「誰も撃たないし、誰も逃げない。
君が、その子の手を離してくれたら――俺は、すぐそこにいる」
沈黙が、ふたたび落ちた。
だが、今度は張り詰めたものではなかった。
男の手元が、ほんのわずかに下がった。