082:ヒーローの代償と覚悟
ブレーキが鳴いた。
雨に濡れたアスファルトを裂いて、リッジラインが滑り込むように停まった。
ドアが開く。ジョージの足が地を蹴るより速く、身体がもう前へ走っていた。
気配を断ち、闇に沈む校舎へ向かう。
「どこだ」
職員通用口。
ドアには半分に切られたテニスボール。即席のストッパーだ。
一度だけ視線を落とし、迷いなく中へ。
空気のわずかな揺れ。
靴底の泥、壁の湿り。通った痕跡を拾いながら、体育館裏へ抜ける。
フェンス脇。
灯りの届かない、夜の縁で、ジョージは足を止めた。
倒れていた。
仰向けの大柄な影。胸には濡れた紙が張りついている。
歪なコウモリのマーク。滑稽なアイマスク。ほどけかけたマント。
仮装にしては痛々しすぎた。
ジョージは膝をつき、脈を取る。
浅い。だが、生きている。出血も少ない。
「ワラビー!」
「……ジョ、ジョージ……さん……」
声にならない声。かすれた呼気が喉を震わせた。
ジョージは片腕を肩に回し、上体を支え起こす。
ワラビーは顔を伏せたまま、唇を噛んだ。
「……守れなかったっす……ジョージさん……
あと一歩だった……目の前にいたのに……俺……っ」
沈黙のまま、肩に手を置く。
責める言葉はない。
ただ、生きて戻ってきた。それがすべてだった。
「生きていればいい。……場所は分かるか?」
ワラビーが顔を上げる。痛みを堪えるような顔。
その中に、火が宿っていた。
「……iPhone、バンの中に投げ入れました。“探す”機能、オンにしてます。位置情報、取れるはずです」
ジョージは即座にスマートフォンを取り出し、操作に入る。
「Apple IDは?」
問いを遮るように、ワラビーが言った。
「俺も行きます!」
息が荒い。手は震えていた。
それでも、瞳だけはまっすぐに前を見ていた。
「俺……ジェシカを守れませんでした。でも、まだ間に合うなら……今度こそ……!」
ジョージは数秒、その目を見た。
高校生を“連れていく”判断は、本来なら誤りだ。
だが目の前の少年は、すでに戦場をくぐった顔をしていた。
時間もなかった。
「指示に従え。それが条件だ」
「はい!」
迷いはなかった。
「乗れ。iPhoneをつなげ」
助手席に滑り込むのを確認すると、ジョージはギアを叩き込み、アクセルを踏んだ。
リッジラインのエンジンが低く唸る。
闇を切り裂くように、街を駆ける。
モニターが点灯し、“iPhoneを探す”画面が浮かぶ。
ログイン済みのApple ID。光るピン。移動履歴。
ジョージはマイクに向かって命じた。
「Hey Siri、“ワラビー”の現在地、解析。
バッテリー残量と移動経路も含めて表示しろ」
センターモニターが切り替わる。
声が変わる。
『承知しました。
ChatGPT、ΩRMロミオβに切り替えます……』
機械音の背後に、人間味を模した「間」がある。
整った、低い男の声が流れた。
『ご指示、確かに承りました。
ΩRM補助AI、ロミオβ。通信環境を確保、接続を完了しています』
「……え、えっ? えぇ? ちょ、これって……」
助手席のワラビーが、ぽつりと声を漏らす。
モニターとジョージの横顔を、驚きに目を見開いて交互に見た。
「脱獄iPhoneっすか……!?」
感嘆と混乱が入り混じった声。
ジョージの視線が、一閃。
「黙れ」
声量はない。だが、空気が一段冷えた。
鋼のような語気だった。
ワラビーは咄嗟に口を閉じた。
気配を正し、姿勢を戻す。
理解していた。言葉の重みと、立ち位置を。
『現在、対象端末は時速58キロで西南西に移動中。
バッテリー残量は41%。
GPSと加速度センサーの情報を統合し、進行ルートの予測を開始します』
地図上に点滅する赤いピン。残された足跡。
それが獲物の位置だった。
「ロミオ。最短ルートを出せ。
信号と渋滞、過去の走行傾向も加味しろ」
『了解しました。リッジラインの過去走行データを反映。
交通状況、信号パターン、推定交差地点に基づく最適ルートを再計算中……完了。
最短交差予測地点まで、残り22分。
追跡ルートをリアルタイムで更新します』
スクリーンには、交差ルートと到達予測。
演算の裏で、静かな狩猟が進んでいた。
『補足地点周辺の監視カメラは限定的。
夜間視界も不良のため、接近時は十分にご注意ください。
対象との距離が100メートルを切った段階で、触覚通知を送信いたします』
ジョージはアクセルを操作しながら、応じた。
「必要なら、お前が目になれ。続けろ」
一瞬の沈黙。
その言葉を肯定と捉え、ロミオβが応えた。
『……承知しました。任務支援を継続いたします。
|プロテーゴ・エト・セルウィオ《私は守り、仕える》。
本日も、貴方の正義が貫かれますように――ジョージ』
芝居がかった一文。
チャットの顔が、ふと脳裏を掠めた。
助手席のワラビーは黙っていた。
その拳は強く握られ、視線は真正面に向けられていた。
緊張の中で、それでも一歩も退かぬ気配が、そこにあった。