【079話番外編】チャールズ・フィンリー①:ヒースロー空港の王子様
朝6時。ロンドン・ヒースロー空港。
空気がまだ、眠っていた。
ヒースローの国際線ターミナルは、朝6時の光にすべてを洗われる前の、一瞬の静けさをまとっている。
チャールズ・“チャット”・フィンリーは、その静けさが好きだった。
ガラス張りの天井――高く、透き通るようなアーチの向こうで、空が白みはじめている。夜と朝の継ぎ目。
その微妙なグラデーションが、照明の下にある空間に、ほんの少しだけ現実味を取り戻させる。
彼の姿は、この空港の朝の空気のなかで、どこか場違いなほど際立っていた。
スーツはぴたりと体に沿い、歩くたびにリズムを刻むように揺れる。
整った所作と沈着な空気をまとい、ただそこに立っているだけで舞台の中心のように見えた。
グレイッシュなブルーグリーンの瞳は、朝の光を受けてひそやかに輝いている。
深く彫られた顔立ちは、アラン・ドロンを思わせる輪郭。
エリザベス・テイラーのような品を帯びた目元と口元。
あまりに整っていて、偶然では説明のつかない顔だった。
金に染めた髪は、光を浴びて高級な絹糸のように反射していた。
だが、彼はその美しさを誇示せず、どこか飄々としていた。
自分の印象を測るような気配はなく、むしろ他人の目をすり抜ける術すら心得ているように見える。
それでも、人は二度見した。
何かを見逃してはいけない気がして、ただ、もう一度振り返る。
そのときだった。
目の前を歩いていた親子の足元で、小さなぬいぐるみがころんと転がった。
ベージュ色の、少しくたびれたクマのぬいぐるみ。
それを落としたのは、母親に手を引かれていた小さな女の子だった。
チャットはすぐに立ち止まり、スーツの膝をほんのわずかに折って、そのクマを拾い上げた。
軽く埃を払うように手で撫で、少女に追いつくと彼女の前にそっと差し出す。
「おっと、お姫さま。
大事なお連れを置いてきちゃうところだったね」
チャットはそっとぬいぐるみを持ち上げ、笑みをたたえて差し出した。
「この子、君がいないと旅に出られないって――
どうやら、とても忠実な騎士らしい」
少女が目をぱちくりとし、クマを抱きしめる。
そしてチャットの顔を見上げ、はっとしたように目を見開いた。
頬が、ほんのりと桃色に染まる。
少女は恥ずかしそうに目を逸らすと、母親の足元にぴたりと身を寄せた。
クマのぬいぐるみを胸に抱え、ちらちらとチャットを見上げては、またすぐに視線を落とす。
その様子に気づいた母親が立ち止まり、チャットに向き直る。
「まあ……ありがとうございます。
この子、本当にこのクマが大好きで……」
チャットはくしゃっと柔らかく笑った。
ワイシャツの袖口を直すような何気ない仕草が、どこか舞台上の貴公子めいて見える。
「どういたしまして」
チャットは微笑んで少女に軽くうなずくと、母親に目を向けた。
「きっと彼女には、ちゃんと果たすべき役目があるんですよ。
……王国の守り神を無事に届けるという、大切な使命です」
母親が少し驚いたように目を丸くしてから、ふっと笑みをこぼした。
「まぁ、あなた……俳優か何かですか?」
「俳優に見えましたか?」
少しだけ肩をすくめて笑う。
「残念ながら違います。
ただの、旅先で台詞回しが止まらなくなる男です。
多少、演出にこだわりがあるだけで」
チャットは軽くウィンクした。
母親は肩を揺らして笑い、赤ん坊を抱え直した。
「ニューヨークにいる夫に会いに行くんです。
この子たちの父親で」
赤ん坊は眠っているのか、母親の胸にすやすやと顔を預けている。
少女もその手を母親の服にそっと添え、チャットを一瞬見上げて――すぐにまた視線を落とした。
「ニューヨークへ? それは素敵な旅ですね」
チャットは赤ん坊にちらりと目をやり、やわらかな調子で言葉を添える。
「王さまも、王女さまと小さな天使の帰りを心待ちにしているはずです」
チャットは軽く頭を下げると、再び歩き出した。
その背を、少女がじっと見つめる。
しばらくして、少女が母親の服の裾を引いた。
「ねえ、ママ。あのおじさん……王子様みたいだった」
母親が目を細めるようにして笑いながら、娘の髪を撫でた。