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079:チャット。ロンドン最後の夜

 ロンドン、22:14。


 テレビがついたままのホテルの一室で、チャットはワイングラスを片手に、シャツの第一ボタンを外していた。

 窓の外では、濃紺の空に灯が滲んでいる。

 その光景を、彼はまるで舞台の書き割りのように眺めていた。


 ──振動音。


 グラスを置いた。

 電話。画面には「ヴィンセント・モロー」の表示。

 この時間にかけてくるということは、良い知らせではない。


「はいはーい」


『……チャットか』


 声が低い。沈んでいるというより、抑えている。

 ヴィンセントがこういう声を出す時は、もう既に何かが起きたあとだった。


「聞きたいのは“何が起きた”か、“どこまで進んでる”か、それとも“どこに飛べ”か?」


 返答までの一拍。


『ジェシカが消えた』


 チャットは呼吸を止めた。


 遠くで、車のクラクションが響いた。

 まるで演出のように、外の街が騒がしさを増していく。


「“見失った”じゃなく、“消えた”か?」


『ああ。20分前。

 こっちは今、必死で捜索してる。

 ジョージは単独で動いた。

 俺が止める間もなかった。

 ……状況によっちゃ、敵と接触してる』


 チャットは背もたれから体を起こし、室内の照明をひとつ切った。

 顔が半分、暗がりに沈む。


「で、俺は何分でスーツ着て、どこに飛べばいい?」


 ヴィンセントの声が、わずかに硬くなる。


『戻ってこい。

 ……悪いが、副社長の椅子に、そろそろ責任が乗っかる時間だ』


 チャットは笑わなかった。

 グラスを持ち直し、ひとくち、赤を舌に転がす。


「オーケー。5時間後にはヒースロー。

 そのさらに10時間後には“ただいまニュージャージー”。

 クライアントには“国家機密レベルの爆弾処理に呼ばれました”ってでも言っとくわ。嘘じゃないし」


『悪いな。助かる』


 通話が切れる。


 窓の外には相変わらず、演出めいたロンドンの夜景が広がっていた。

 だがチャットの視線は、もうその景色を見てはいなかった。


「“娘が消えた”ってセリフで、ここまで空気が変わるとはな……

 ま、麻薬組織が関わってちゃ当然か」


 スケジュールアプリを開く。

 活動中のエージェントたちの予定が、時差に合わせて並んでいた。


 ΩRMにまだ英国支部はない。

 だが依頼が入るたびに、誰かしらが出張している。

 今回も、チャールズ以下5名が現地で動いていた。


「……頼りになる奴は、ことごとく現場か。

 となると――」


 指先がある名前で止まる。


《アーノルド・ホーマートン|ステータス:休暇中(家族とバース滞在)》


 チャットは小さく舌打ちしながら通話ボタンを押した。

 数コールののち、低く、眠たげな声が応答する。


『……おい、チャット。今、何時だと思ってる』


「知ってるよ。

 お前は寝てる間も、シャツの第1ボタンまでキメてる男だってな。

 ベッドの中でもタイピン付けてそうだし」


『要件だけ言え』


「俺の担当、急きょお前にバトンタッチ。

 明朝6時、ホテル・レインズボーのラウンジ集合な。

 対象は“NovaTel”のトップ、アーニャ・ルフェーヴル――

 美貌と脳みそで世界を制する、麗しきCEO様。

 惚れるなよ。惚れるのは俺の役だから」


『ほう、麗しき?』


「マジで綺麗。

 肌は磁器レベル。

 声はフルート。

 脚なんか歩く戦略兵器。

 しかも金持ってて、頭もキレて、笑いのツボも絶妙で。

 情け容赦ない冷徹さまで完備。

 ……そんな彼女を、今このタイミングで放り出すってのは、正直、男としても罪悪感が勝つ」


『なら残ればいい。惚れてんだろ?』


「残念だけど、今夜の俺は“イケメン護衛”じゃなくて“命の恩人”役に回る。

 ってわけで、エスコート役はお前にチェンジだ。

 機嫌取りは俺がやるから、お前は黙ってスマートにキメとけ。

 ……まあ、得意だろ?」


『……妻にバレたら、お前を埋める』


「それは光栄だな。ついでに俺の墓石デザインも考えといてくれ。

 “ここに眠るは、女王のご機嫌取りに失敗した副社長”って書いとけ」


 ノアのため息が、ほんの少しだけ長くなった。


『了解。30分で支度する。必要書類とルートは、いつもの場所に送っておけ』


「資料はもう送った。あと、彼女、“喋りすぎる男”にアレルギーだから注意な。

 逆に言えば、お前みたいな“必要なことしか言わない男”はドンピシャだ」


『皮肉か?』


「賛辞だよ、アーノルド」


 通話が切れる。

 チャットはスマホを放り、ネクタイを外しながらつぶやいた。


「……ま、彼女が俺を忘れない程度には印象残してきたさ。

 けど今夜は、“処刑人”の方が優先ってわけだ」


 窓の外では、ロンドンの街が静かに瞬いていた。


 短く息を整え、発信。2コール目で応答があった。


『チャールズ。どうしたの?』


 フランス語混じりの柔らかい声。

 チャットは、声のトーンひとつで相手の思考を読み取れる女に、少しだけ表情を引き締めた。


「本来なら今夜はあなたとワインに酔ってる予定だったのに……

 地球の反対側で火の手が上がっちまった。

 しかも、“消えそう”じゃなく、“燃え広がってる”タイプ」


『どの程度? “消火活動”が必要?』


「向こうは今、“部隊長が必要”って規模で荒れてる。

 だから俺はこれから空港へ――

 正確には、靴ひも締めて即ダッシュってとこ」


 沈黙。すぐに、ため息の気配。


『そう。……残念ね。

 あなたの軽口が恋しくなるのは、今夜が初めてかもしれない』


「代打はアーノルド・ホーマートン。

 俺の“黙っていても仕事ができる男ランキング”のトップ。

 つまり俺とは真逆――口数の代わりに筋トレが趣味。

 でもめちゃくちゃ仕事はできる。

 ……恋には向かないけど、警護にはうってつけさ」


『あなたと違って、彼は口説かないのね』


「だけどな、彼もちゃんと“あなたを口説く価値がある”ってわかってる男だ。

 方法は違えど、誠意は保証する。

 ……できれば、俺のいない時間が、ちょっとだけ寂しく感じるくらいには、なってると嬉しい」


 小さく、笑い声が返った。


『その気遣い、5割は演技ね。でも残りの5割が本音なら、許すわ』


「ありがとう、アーニャ。ほんとに。

 どうかご安全に。

 この任務が終わったら、花とワインと――

 できれば少しの赦しを持って、改めて会いに行くよ」


『その時はワインじゃなく、花を持ってきて。白百合が好きよ』


「約束しよう。じゃあ、“また”」


『ええ。“また”ね、チャールズ』


 通話が切れた。


 スーツケースの蓋を軽く押して閉じると、チャットは深く息を吐いた。

 そのまま胸ポケットのスマホを見下ろし、眉間にうっすらと皺を寄せる。


「……はぁ。言わねぇけどさ。

 ほんと、お前ってやつは……」


 ぼそりと呟き、首を傾けながら肩を回す。


「“ひとりで大丈夫”とか言って、毎度その背中に地獄を3つ、地雷原を2つ、おまけに誰にも言えない過去を詰め込んでさ。

 それで涼しい顔してんだから、そりゃ胃に穴も開くってもんだ」


 シャツの袖をまくりながら、吐き捨てるように笑った。


「身長は未成年、精神構造は戦場帰り。

 それでいて“頼らない美学”とか掲げてる。

 ……お前さ、それただの不器用なバカだぞ?

 心配してるこっちの気も知らねぇで。

 ったく、愛され方を知らねぇ奴はこれだから……」


 ネクタイを締め直し、扉の前で足を止める。

 静かに、まるで舞台袖で幕が上がるのを待つ役者のような仕草で、スーツの襟を整える。


「……まあ、聞きやしねぇのは分かってる。

 俺がどれだけ口を動かそうが、あいつの耳には届かねぇ。

 だったらせめて、動いて見せてやるさ。

 “大丈夫じゃねぇぞ”ってな」


 ひと息。


「行ってくるぜ、ジョージ。

 俺の、手間のかかる、寡黙な処刑人。

 どうせ今夜も、誰にも見られず血まみれで転がってんだろ?

 安心しろ。お前が縫わねぇなら、代わりに俺が縫ってやる。

 破けたシャツも、破けた心も。……まとめてな」


 にやりと笑い、手にしたスーツケースを転がす。

 その背を押すように、ロンドンの夜風が静かに吹き込んできた。


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