078:ほんの少しだけ。友だちとの約束を――
地下室は静かだった。
分厚いコンクリートの壁に囲まれた空間は、世界から切り離されているみたいで、時間すら止まっているようだった。
ライルはお昼過ぎに、弁護士と名乗る男と一緒に地下室を出た。
ジェシカはその背中を見送りながら、もどかしい気持ちを押し殺すように唇を噛んだ。
ジェシカは古いソファに膝を抱えて座り、指先でノートの角をなぞっていた。
A4サイズの、厚紙でくるまれたスクラップノート。
表紙には星と音符のステッカー、内側にはふたりだけの写真や落書き、くだらないクイズのやりとり。
最後のページには、ジェシカが夜遅くまで悩んで書いた短い手紙が貼ってある。
——ケイトへ。引っ越しても、友だちだよ。
ポケットの中のスマホは、ずっと「圏外」のままだった。何度も確認したけど、変わらない。
ケイトからのメッセージが来ていないか、確認するたびに不安になって、でも同時に確信にも近づいていった。
──もう、行くしかない。
ケイトは来週、遠くへ引っ越す。
今日が最後だ。
お互いに今日の学校のハロウィンパーティーで、プレゼントを交換しようって、約束した。
ケイトは「絶対に来てね」って言った。笑ってたけど、本気だった。
ママには、言えない。
言えば、絶対止められる。
でも──ほんの少しだけ。渡すだけ。すぐに戻る。
ケイトの笑顔を、嘘にしたくなかった。
だから、ちゃんと渡したい。約束だから。
ジェシカはスクラップノートを、パーカーの下に隠した。
「レイチェル、トイレ……」
そう告げると、レイチェルはにこりと笑って頷いた。
地上階にあるトイレへ案内してくれた。
ジェシカはパーカーの裾を引き直しながら、少しだけお腹を押さえた。
ほんのわずかに前かがみになるようにして、レイチェルの後ろをついていく。
レイチェルが気づいて振り返ったとき、ジェシカは眉を寄せて、小さくつぶやいた。
「……お腹、ちょっと痛いかも」
ほんとうは痛くなんかない。
ただ、ノートが落ちそうになるのを防ぎたかっただけ。
地上のトイレの前まで来ると、ジェシカは振り返って小さな声で言った。
「……あのね。大きいほうだから、前に立たれると恥ずかしいの。
……ちょっとだけ向こう行っててくれない?」
レイチェルは少しだけ驚いた顔をしたあと、「わかったわ」と言って廊下を歩き去った。
その背中が完全に曲がったのを確認して、ジェシカは息を吸った。
トイレの前から離れると、玄関のドアノブをゆっくりと、音を立てないように回す。
冷たい外気が、頬を撫でる。
彼女は一歩外へ出た。
靴音を消しながら、そっと歩き出す。
ほんの少し。ほんの1時間――
ハロウィンパーティーを楽しみたいんじゃ無い。
約束を果たして、すぐに帰るだけ。
空は夕暮れの色に染まり始めていた。
◇
部屋は沈黙に沈んでいた。
空気が止まっている。音も、光も、感情も。
ジョージは無言で腰の裏に指を伸ばす。
仕込まれた極細ワイヤーのテンションを確認。
次に靴底。ナイフの位置と抜きの感触を指先でなぞる。
ブラックルームに言葉はいらない。
交渉ではない。生存でもない。
──命の重さを、無言で吊るす場だ。
必要なのは“力”ではない。
確実さ。静止した意志。
撃つより先に、死なないことを決めておく。
部屋には最小限の灯りだけが点っていた。
遮光カーテンが時間の輪郭を断ち切り、空気が沈殿している。
机の上には、証拠のコピー。
そして遠隔トリガーを仕込んだUSBがひとつ。
──ジョージが戻らなければ、それが動く。
作動条件は“心拍ゼロ”。
胸に巻かれたセンサーバンドが、命の有無を黙って記録している。
死も仕組みに組み込んだ。
保険ではない。前提の一つ。
だが、それでも――
「生きた」という事実くらい、どこかに刻まれていてもいい。
そう思った。誰が見るかなんて、どうでもよかった。
ジッポライターが胸ポケットにある。
兄の形見。使い込まれて傷だらけだ。
火は灯さない。ただ、そこにある。
腹は空に近い。ナッツと水だけで身体を整えた。
血糖値の暴れを避け、頭を澄ませるため。
ジョージは床に膝をついた。
正座。背を伸ばす。
両手を膝に置き、目を閉じる。
呼吸を数える。
五拍でいい。
余計な思考を削ぎ落とす。
焦りは敵を呼ぶ。情は手元を狂わせる。
無になる。戦いの前には、ただ静かに。
──的居家の習わし。
夜明け前に正座し、昨日の己を振り返る。
己に恥じるな。他人に誉れは要らぬ。
それだけ。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面:Rachel Carter
このタイミングで、レイチェル──
ジョージは即座に応答する。
「ウガジンだ」
『ジョージ。ジェシカが、いない』
声は静かだったが、緊急時の話し方に切り替わっていた。
「最終確認は?」
『トイレに行くと言ったまま戻らない。
言葉で自然に注意を逸らした。……意図的だと見てる』
「経過時間」
『15分。屋内も屋外も未確認。まだ足取りがつかめない』
「通報は控えろ。逆効果だ」
『だが、もし襲われたなら、初動が──』
「まだ断定するな。
可能性がある限り、“自発的離脱”として追え」
ジョージはすでに、腰のホルスターに手をかけていた。
「ナンシーとリリーは地下室へ。二重ロックを確認。
……嫌な予感がする。拠点の移動も検討。ヴィンセントに通せ」
『了解。こっちも警戒レベルを上げる』
通話が切れる。
ジョージは目線を落とした。
ジェシカが消える理由はいくつもある。
だが、「行きたい場所」があるとしたら、話は別だ。
彼は無言で立ち上がった。
その動きに、迷いも音もなかった。