076:「交渉ではなく、宣告だ」
ジョージは無言でスマートフォンを取り出した。
登録のない番号を入力する。
盗聴器から割り出したキングスリーの個人回線。
迷いはない。指は正確に、目的地を叩いていく。
数回の呼び出し音。
その先で、くぐもった声が応答した。
『……誰だ』
喉を焼いたような低音。
酒と苛立ち。瓶を叩き割った後の空気が、声に染みていた。
ジョージは静かに口を開く。
まるで、借りを返すような温度で。
「“ジョニー・ウー”……思い出すか」
1拍、間を空ける。
「クラブ・ドミニオンの夜。
赤いドレスと、スパンコールのミニを連れた2人組。
VIPルームで札をばらまいて、あんたのディーラーを喜ばせた」
受話器の向こうで、わずかな気配の変化。
「ロビーでも会ったろ。
“文化資本”だの、“ファシリエーター”だの。
あんたが目を泳がせてた、あの晩の話だ」
沈黙が伸びた。
そして、濁った声が地の底から這い出してくる。
『……まさか……あれ……お前……?』
ジョージはまったく動じない。
そして──あえて、声を変えた。
普段のくぐもった低音ではなく、わざとらしく軽く、鼻にかかった調子。
その声は、音割れした音声合成のようだった。
だが、それがまた完璧に計算された嘲笑に聞こえた。
「ああ、そう。あんたが“ジョンでいい”と吐き捨てた、あのジョニー・ウー。
本名は──ジョージ・ウガジン。俺だ」
数秒の沈黙。
次に届いたのは、深い呼吸音と、歯軋り。
ジョージは、それを“確認”と受け取る。
「VIPルーム。あの夜の会話──録ってある。
副業の内容も、横流し先も、すべて」
声は落ち着いていた。むしろ、静かすぎた。
「録音は二重保管。一方は俺。もう一方は外部に預けた。
万が一、俺が消えたら、最初に名前が出るのは──あんただ」
『てめぇ……ふざけた口ききやがって……』
「ふざけてなんかいない」
語尾を切るように遮り、低い声が刺す。
「吊ったろ。電線に。あの2足目のスニーカー。
裂いて、赤く塗って……血のつもりか?」
沈黙。
「処刑のサインだな。
威圧して、コントロールする。お前のやり口だ。
だが今回は──俺が見てた」
一瞬、鼻で笑い、すぐに表情を殺す。
「ナンシーに向けた牙は、今この瞬間、俺に向いてると思え。
……あんたの手が届くのは、せいぜいここまでだ」
『ハッタリだろ……! 本当に録ってたなら、もう撒いてるはずだろ!』
怒声。
だが、その奥には焦りが滲んでいた。
ジョージは構わず押し込む。
「クラブのVIPルーム。右奥の個室。
ソファの背もたれの隙間に、銀のマイクが一つ。まだ残ってる」
受話器越しに、息が止まったような気配。
「ドア枠の上部、塗装の剥がれた場所にも一つ。
磁石仕込み。──外してなければ、今も張りついてる」
通話の先が凍りつく。
ジョージはあえて一拍、沈黙を挟んだ。
「……調べてみろ。ハッタリなら、ただの掃除で済む」
さらに深く、突き刺す。
「お前のやり方を疑った部下は、もう気づいてる。
何を守り、誰を売り、どこまで腐ってるか……」
怒鳴り声。ガラスが割れる音。
机か人間か。何かが倒れた音。
だが、ジョージは無視した。
「これは交渉じゃない、キングスリー。──“宣告”だ」
そして、一言。
「自分で結んだ縄に、首を通す覚悟はあるか?」
通話が切れる。
沈黙だけが残った。
ジョージはスマホを伏せ、短く息を吐いた。
キングスリーは、確実に食いついた。
狙いは切り替わった。
ナンシーではない。今は、自分が“標的”だ。
それでいい。そうでなければ意味がない。
「……よし」
ひとり呟き、ノートPCの前に腰を下ろす。
カーテンの隙間から、かすかに朝の光が漏れていた。
背後で、ヴィンセントが黙って窓を見ていた。
何も言わず。何も遮らず。
ただ、朝が来るのを待っていた。




