075:避難先は地下室
空はまだ青みすら帯びていない。
凍りついた空気が肌を刺す。夜と朝の狭間、呼吸が白く滲んだ。
レイチェルのSUVが裏路地を抜け、民家の影に滑り込む。
エンジン音が止まると、彼女は無言で降りた。
ジャケットの内ポケットにはID、携帯、そして小型の護身用拳銃が収まっている。
ジョージはすでに待っていた。
リッジラインの横、立ち尽くす4人の姿を見守っている。
ナンシー、リリー、ジェシカ、ライル。
それぞれに毛布を羽織り、冷えた空気の中に身を置いていた。
「ここからは、私と一緒に行きましょう」
レイチェルが柔らかく声をかける。
ナンシーは短く頷いた。その眼差しに、まだ夜が残っていた。
ジョージが、レイチェルに目を向ける。
「……何があっても、この4人を守れ。ヤツが動く」
声は低いが、鋭かった。
「了解。情報はヴィンセントから受け取ってる。
地下に避難する。外との接触は遮断、出入りも私の許可がなければ不可。
……気配すら、漏らさない」
レイチェルの語尾が落ちきる前に、ジェシカの声が割って入った。
「……待って。どういうこと? なんで地下室?
ジョージ、私たち……何から逃げてるの?」
言葉には強がりの膜が張られていた。
だが、その下で声が震えていた。
横で、ライルが目を伏せる。
ナンシーもまた、不安を隠せないまま、ジョージを見つめていた。
「……ねえ、ジョージ。
前に私が見た、あの“取引”──
もしかして、彼が関わってるの?」
問いは鋭くなりかけていた。
だがジョージは、左手をゆっくりと持ち上げ、それを止めた。
「……その話は、今はやめよう」
ナンシーの言葉が止まる。
彼の顔には、否定も迷いもなかった。
ただ、確信だけがそこにあった。
「レイチェルが安全を確保する。
……俺は、片をつけに行く」
その声には感情の起伏がなかった。
だが、ナンシーには伝わっていた。
それが“決意”という名の温度を持っていることを。
リリーが、小さく声を漏らす。
「ジョージィ……?」
彼は一瞬だけ視線を落とし、短く頷いた。
それを最後に、一度も振り返らず、リッジラインに戻っていった。
◇
40分後/ΩRM本部
重たい足音。
扉の隙間から顔を覗かせたのはヴィンセント。
無言のまま、部屋へ入る。
ジョージの顔を見た瞬間、言葉を飲み込み、ため息をひとつ吐いた。
「……やっぱり、やる気か」
「ああ。まず、キングスリーのヘイトを俺一点に向けさせる」
「おとりか」
返事はない。
沈黙のなか、ヴィンセントは壁に背中を預けた。
その体が作る影が、部屋の空気を圧迫していた。
相手は、情を持たずに人間を消す連中だ。
ジョージでさえ、戻れる保証はない。
「……チャットがいればな」
ヴィンセントの声は低かった。
自分に言ったのか、誰かに言ったのか分からない。
「お前が何考えてるか、あいつの方がわかる。
フォローも効くし、交渉も強い」
「今、ロンドンだ」
「知ってる。だから嫌なんだよ。
お前、今夜は妙に冷静すぎる」
ジョージは椅子の背にもたれ、目線をどこにも合わせずに言った。
「……いつも通りだ」
ヴィンセントが鼻を鳴らす。
「お前の“いつも通り”は、いちばん危ねぇ」
その言葉に、ジョージは何も返さなかった。
ただ、静かに呼吸を整えていた。
夜はもう明けようとしていた。
だが部屋の中には、まだ暗闇の気配が濃く漂っていた。